とみしゅう日記

まとまりませんが、そのままで

超私事!葉月の『今日の出来事』 甘えと依存

ブログ仲間の“葉月”さんの記事です。

「仲間」と呼ばせていただいていますが、
実のところお会いしたことはないのですよ。
ブログに書いていることだけを
鵜呑みにしてしまう(されてしまう)のは、
書き手にとっても読み手にとっても不幸なことですよね。

というわけで、単純に一人の読み手として感じたことを、
自分のブログで書くことにしました。

昨年末、プライベートでひどく落ち込んだことがありました。
自分ひとりではどうしようもなく、
かといって思い悩まずにはいられない出来事でした。

友達にあれこれ相談し、
ここ数年はまったく書いていなかった「手紙」まで書き、
それでも心が晴れない日々が続きました。

自分自身に、何かしら問題があったのだろうとは思うのです。
ただ、それを確かめるすべがなかった。

あるいは、もっと強引なやりかたで
確かめることはできたのかもしれません。
それをしなかったのは、
つまるところ自分自身の「プライド」ゆえだったのでしょう。

このブログでも、何度か「プライド」という言葉を使っています。
一般的に使われているニュアンスとは異なると思うのですが、
単純に言ってしまえば「自分を守るための盾」です。

何を言われても自分は自分。
そういう存在でいられたら、
これほど楽なことはないかもしれません。

ただ、実際の自分は、
他人の評価をどこかで気にしているし、
他人の言葉で少なからず一喜一憂しています。

しかし、喜ぶにせよ、悲しむにせよ、
それはどこかしら「思い当たるふし」があるからなのだと、
自分では分析しています。

つまり、自分としてはまったく的外れな部分なのにもかかわらず、
そこを褒められたり貶されたりしても、
「はあ、そうですか…」としか言えない場面もあるわけです。

厳密に言ってしまえば、
マイナスの評価をされれば、どんな場面だって嫌なものです。
でも、怪我の程度に軽症と重症とがあるように、
心の傷つき方にも程度があるように思えます。

鋼鉄製の巨大な金庫に足の小指をぶつけても、
しばらくすれば痛みもひきます。
しかし、小さな爪楊枝で眼球を刺されたりでもしたら、
人生を左右しかねない大きな怪我となるでしょう。

相手の言葉と、自分の心とが、
どんなタイミングで、どういう角度でぶつかるかによって、
その衝撃はまったく変わるのではないでしょうか。

プライドは自分を守る盾と、さきほど言いました。
盾で守るべきところが、一番弱いところであるべきです。

つまり、人に褒めてほしいところというのは、
同時に人に貶してほしくないところでもあるわけです。
(あくまでも、僕自身の場合ですが)

コンプレックスという言葉も似たようなニュアンスですが、
こちらはあまり良い意味では使わないですよね。
ないに越したことはありません。

プライドは、しかし人にとっては大切なものだし、
むしろ相手のプライドがどこにあるのかを知ることは、
相互理解を図る上で必要だと思うのです。

結局のところ、僕らは相手の心の中を覗くことはできません。
「こうなんじゃないか」「ああなんじゃないか」と
推測を重ねているに過ぎないわけです。

それを限界といってしまえば、それまでです。
しかし、判らないからこそ
「思いやる」気持ちが生まれるのです。
そして、そういう思いやりによって、
「自分では気付けないもの」に気付けることだってある。

誰かと話をしているうちに、
「ああ、自分はそんなことを考えていたのか」
と驚くことがあります。

頭の中でいくら考えてもダメだったのに
誰かとの会話をきっかけに道が拓けてくる。
ある意味では、己の無力さを痛感する瞬間かもしれません。
でも、周囲の言葉を力に変えることができたのは、
やはり自分自身の才覚であろうと思うのです。

僕は、言葉の力をけっこう信じています。
いわゆる「言霊」というやつは、きっと存在するのだろう、と。

言葉にできないものもあるけれど、
言葉によって明らかになるものもある。

言葉によって傷つくこともあれば、
言葉によって励まされることもある。

たかがブログ、されどブログ。
自分以外の誰かに、「よきもの」が届きますように。

コメント一覧

とみしゅう
>葉月さん
お返事を書いていたら、また長くなってしまいました・・・

「お返事に代えて」という記事にまとめましたので、よろしかったらそちらもお読みくださいませ。
葉月
おはようございます。
仕事の前に、とみしゅうさんの記事を読みながらいろいろ考えました。

『誰かと話をしているうちに、
 「ああ、自分はそんなことを考えていたのか」
 と驚くことがあります。』

『僕は、言葉の力をけっこう信じています。
 いわゆる「言霊」というやつは、きっと存在するの
 だろう、と。』

上記の想いは10代の終わりに強く感じました。
悩んでいた時期に、悶々と日記(というかノート)に文章を綴っていたのですね。
頭の中で茫洋と漂っていた自分の「意識」が、書くことによってハッキリとする、という感覚。
人と話しているときも、とみしゅうさんと同じように感じることが多いです。


会話は双方向性のものだから、
やっぱり相手の気持ちを尊重しないと、後でしっぺ返しを受けることがありますね。
「こういうつもりで言った」
「そんなつもりは無い」
と言ったとしても、受け手である相手が決めること。

言葉には力があります。
その力が思わぬ方向に働くこともあるから怖いですね。


私が書いた記事。
時間が経って考えると「私の気持ちを思いやって」彼は発言したのだろうな、とは思います。
その「思いやり」の気持ちは理解できるのです。
でも、やはり彼の発言には”彼の日頃の考えが詰まっているのだろう”と考えてしまう自分がいる。
何となく元の鞘?に納まっても、その想いはどこかに残るような気がします。

私自身も、たくさんの人に「思いやり」のつもりで失言をしているのだろうな・・・。

とみしゅうさんのように、御自身のことをいろいろと内省する人は「言葉」を大切にしているのでしょう。
それでも、思うようにいかない事もある。


考えてしまいました。


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