とみしゅう日記

自戒を込めて

池田信夫 blog 『NHKの捏造?』

なるほど……
Y 軸の数字を見ずに、このグラフだけを見てしまうと、
倍ちかくの「大差」が付いているような気になりますね。

しかし、実際には上限 1050 の領域において、
各要素には最大でも 25 の差しかついていないわけです。

例の「あるある」事件を機に、
改めて「メディア・リテラシー」(Media Literacy) という言葉を
耳にするようになりました。

メディアを活用する能力、
乱暴に言ってしまえば「メディアに騙されないための知恵」を、
僕らは身に付ける必要があります。

厳密に言えば、「中立なメッセージ」など存在しません。
ある事象そのものは、人間の思惑に関係なく発生するかもしれません。
しかし、それを人間が「観察」した時点で、
必ず何かしらの「分類」が行われます。

たとえば、自動車の衝突事故には、
衝突「した」側と衝突「された」側、二つの立場が存在します。
「した」立場にいるか、「された」立場にいるかで、
事件の様相はまったく異なることになるわけです。

メディアで何らかの「メッセージ」
(つまり「番組」)が放送されるということは、
その番組を作った「何者か」が存在するということであり、
それはすなわち何者かの「思惑」が番組に込められているということです。

ニュース番組といえども、
あまたある事件の中から「その事件」を取り上げた思惑が存在します。
僕らは、カメラが写したもの、アナウンサーが語ったもの以外を、
基本的に情報として入手することはできません。
フレームの外、言葉の外に「真実」が潜んでいるかもしれないというのに。

「フィクション」の断り書きがなければ、すべて「事実」である。
…などと単純に信じることは、少なくともテレビを観る上で危険といえます。
先ほど書いたように、番組には常に作り手の思惑が潜んでいて、
それは報道といえどもバラエティといえども、変わりはありません。
いわば「未必の(しかし不可避の)捏造」による番組を、
僕らは常に観ているということです。

数式を暗記するようには、僕らは物事を把握していないように思えます。
記憶には、常に何らかの「価値基準」が介在しているのではないでしょう。
加えて、僕らは「見たいもの」だけを見て、
「見たくないもの」は見ていません。
テレビ番組が不完全であるように、
視聴者である僕らもまた不完全な存在なのです。

悪質な捏造は、もちろん許されるものではありません。
しかし、それを無責任に批判するだけで事足りるわけでもありません。

一冊の百科事典に、すべての「智慧」が詰まっていることなどないのです。
一つのものさしで、すべての単位が測定できるわけでもありません。
物事には常に「死角」が存在することを、ゆめゆめ忘れないように。
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