誰しも、愛する人からよく見られたいものです。
だから、自分の至らない部分は直したい(目につかないようにしたい)と思うし、自分のよいところは、なおさら良くしたい。
そういう向上心を与えてくれた相手と、向上心を持って生きている自分。
その両者を、僕らは愛し、誇りに思うわけです。
ただし、「自己愛」というやつは、なかなかに厄介なものです。
例えば、モラルハラスメント関連のサイトを見ていると、異常な自己愛を持つ相手に「囚われてしまった人たち」の悲惨な例が、数々挙げられています。
相手を思う気持ちと、自分を大切にする気持ち。
どちらかだけが肥大化してしまうと、まずもって誰一人幸せにはなれません。
本人だけは夢見心地かもしれませんが、まずもって誰からも愛されはしないでしょう。
出会いがある以上、いつかは別れもやってきます。
恋愛における別れは、身を裂かれるようにつらいこともあります。
愛する人から愛されなくなったつらさは、すなわち「自分が否定された」つらさでもあります。
どれだけ誰かを愛しても、それが常に受け入れられるとは限らない。
がんばっても手が届かないものがある。
それを認めることは、確かにつらい。
でも、それでも、僕らは生きていかなければならない。
生きるためにはお金が必要で、そのためには働かなくてはならない。
しんどいときでも、会社に行かなければならないときもあります。
そうやって時間が経つ中で、いつしか傷も癒えていきます。
流れていた血が止まり、かさぶたがはがれ、いつしか傷が見えなくなっていく。
もちろん、「その前」と「その後」で変わってしまったことすべてが、元通りになるわけじゃありません。
良くも悪くも、僕らは変わり続けていき、後戻りのできない小さな分かれ道を選び続けていくのです。
自分という存在は、きっと「ちっぽけな存在」なのでしょう。
でも、そのちっぽけな自分同士が出会い、愛し、愛されて、日々を過ごしていく。
その営みまでを「取るに足らないもの」と否定しまいたくはありません。
二度と立ち上がれないと思うときがあっても、きっと僕らは立つことができるのです。
大丈夫、きっと大丈夫。
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