(“瞳”は“め”と読ませる)
虐待された子どもたちの特徴である「無表情な目つき」を、英語ではFrozen eyesというのだそうだ。
その和訳を冠されたこの漫画は、児童虐待をテーマにしている。
家庭の中で起こる児童虐待は、公の目に触れづらい。
だからこそ、児童相談所や警察、そして地域社会の連携が必要となる。
しかし様々なプライバシーの問題が入り交じる現代において、
家庭は良くも悪くも孤立化しやすい。
『凍りついた瞳』を貫いているテーマは、
「(虐待した)親を責めれば、それで済むのか?」ということだ。
子どもが傷つくように、親も傷ついている。
子どもが追いつめられるように、親も追いつめられている。
そのことを誰かが理解し、共感できない限り、虐待は決してなくならない。
鬼畜のごとき人格の持ち主が、虐待の親になっているとは限らない。
むしろそのようなケースはまれなのだ。
「お父さん(お母さん)もつらかったんですね」
そんな相談員のひと言が、問題解決のきっかけになることもある。
反対に、どれだけ周囲が努力しようとも、
親の心を変えるに至らず、最悪の結果を招くこともある。
子育てに正解はないという。
確信を持てないのは当然だという正論を、
しかしすべての人間が受け入れて生きているわけではあるまい。
教育評論家がいい親だとは限らない。
人格者という評判は、その家庭状況まで含んでいるわけではない。
誰もが虐待をする可能性があり、誰もが虐待される可能性がある。
暴力をふるうだけが虐待ではない。
性的、精神的に苦痛を与えることも、やはり虐待と見なされる。
ひとことで「これが虐待だ」と定義できるわけではない。
同じように「虐待をする親のタイプ」も簡単に定義はできない。
虐待を受けて育った親でも、真っ当に子育てをすることができる。
順風満帆で生きてきた親でも、子どもに手を挙げてしまうことがある。
一人で悩まないこと。自分だけを責めないこと。
専門の機関でアドバイスを受けること。
時には子どもから離れた時間も持つこと。
それが簡単にできれば、誰も苦労はしない。
悩みの根は深く、解決までの道のりは遠い。
それでも諦めてはいけない、親も社会も。
子どもが真っ当に育たなければ、我々の社会もまた真っ当ではいられない。
痛みと怒りとだけに彩られた世界で、誰が生きていたいと思うだろうか。
僕には子どもはいないけれども、様々な責任を社会で負う年齢になっている。
子どもを育てやすい社会を、子どもが育ちやすい社会を、
そんな社会を作り上げていくために何ができるのか。
考えること、なすべきことはたくさんある。
まずは、自分が真っ当に生きることが大事なんだろう。
「こうありたい」という理想と、「こうするしかない」という現実。
どちらかだけではダメなんだ。
両方の思いで、大地を踏みしめて立ち上がる。
至らない自分を、でもかけがえのない自分を、大切にしながら。
きっとそうやって生きているであろうhiromuさんに、
敬意とともにトラックバックを送ります。
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hiromu
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