3匹の子豚との日々 =DIAS CON MIS TRES CERDITOS=

スペインSpainのサラマンカSalamancaのラ・アルベルカLa Albercaから不定期につづります。

シュメール・フェニキア

2010-01-28 06:32:34 | Hymne a l'amour
いつも遊びに行くブログの記事
『話題の蘇、蘇りの「蘇」蘇我、曽我、阿蘇、屠蘇』
から広がった「蘇」ワールド・・・

記事に書いたコメントをまたメモ的に。。。

「蘇」で思い付くものその他、蘇州、江蘇省、
蘇士・蘇西・蘇素(スエズ)、蘇丹(スーダン)、蘇門答利(スマトラ)、
烏蘇里(ウスリー/ロシアと中国の国境のアムール川の支流)、
耶蘇、紫蘇、蘇芳・・・

烏蘇里(ウスリー)を見たとき、有珠山と関係あるのかな?って思いました。(どうでしょう・・・?)
蘇素(スエズ)、蘇丹(スーダン)、蘇門答利(スマトラ)は一連
フェニキア人などの民族がアジアに向けて辿った道と重なってみえました。。。

中国の姓は、蘇をソと読むようですが、中国に入るまではスなんですよね。
スメル(シュメール)までは思い付きませんでした。
スーダンは、wiki によるとアラビア語でスーダーン(黒い人) から
きたようで、「元来は北アフリカのアラブ人たちからみて南に住む
黒人の居住地域、すなわち西アフリカから東アフリカに至るまでの
サハラ砂漠以南の広い地域を指す地域名称で、国名としてのスーダンと
区別するために歴史的スーダンともいう。」だそうです。
スーダンの「クシュ~クシ幻想」ってなんだろう。。。調べてみようっと。。。

すごい発見!シュメールを蘇美爾と書くみたい。。。
(中国語のサイトを検索してみたので、不確かですが・・・)

アジアに関係ないから、省略して書かなかったのですが、
スカンジナビア=蘇干地那威、スコットランド=蘇格蘭

シュメール(スメル)=蘇美爾なら、フェニキア人が勢力を伸ばした
この地も関係あるかもしれない、と思いました。

クシュ文明のサイトちらっと見ただけですが、懐かしい感じがしました。
あとナガ遺跡という名前が気になりました。

忍者さんからの蘇民将来のサイトで、護符をドロヤナギで作る、と
書いてあってドロヤナギ? って、と思い検索。
ドロヤナギの説明
分布:ドノロキは北海道ではドロヤナギと呼んでいる。日本での分布は、
兵庫県及び静岡県以北の本州と北海道。北方系の樹木なので朝鮮半島から
ウスリー、アムール方面に広く生育している。・・・後略・・・

「北方系の樹木なので朝鮮半島からウスリー、アムール方面に広く生育」です!!!
ここから想像するに。。。
シュメールの民が何らかの理由でメソポタミアを離れることになり、
陸路と海路に分かれて、東の島を目指して旅立った。
世代を経て、蘇民将来の兄弟は海路で日本にやってきて(ニギハヤヒ系?)、
日本に定住、そして武塔神(神武系?)は陸路でアムール川沿いに南下し、
半島経由で少し遅れてやってきた。。。

昨日の勝手な想像の続きです。
蘇民と巨丹の兄弟は、蘇民系の氏族と巨丹系の氏族の象徴で、
蘇民が兄、巨丹が弟ということなので、蘇民系は先に日本にやってきて、
後から来た巨丹系に征服されたので、貧しく巨丹系の方が栄えていたん
だろう、って一般的には考えますよね。
でも、ふっと思ったのが、これがわざと逆にしていたのだったら・・・。
実は後から来た巨丹系はまだ征服していないから、栄えていなくて
(つまり貧しくて)、更なる追加攻撃のために武塔神がやってきて
栄えていた蘇民系を滅ぼした、でも反対の伝承にし、みずから蘇民と
名乗るようになった、そして本当は自分達である、巨丹を滅ぼしたことに
した。。。とか。

あっ、これは本当に単なる思い付きですので。。。

シュメールの伝承に、ティルムンまたはディルムンという
「太陽の昇る場所」「生命に満ちた場所」とか言われる東方の土地が
あるのを知りました。
歴史はシュメールに始まる
「・・・シュメールの歴史や神話を研究していると、我々はティルムンと
いう名前によくぶつかる。古いテキストは〈日出る国〉ティルムンの地を、
神々の島とか楽園とか呼んでいる・・・」

また中国には、「蓬莱」「方丈」「瀛州」(えいしゅう)という東方の
三神山の伝説がありますよね。
シュメールにしても中国にしても「東方」を神の国または楽園とすることが
気になります。
そして、環太平洋にちらばっている、争いを好まない原住民達の存在と
つながるような気がします。
そして日本人の一部もこの中に含まれているような気がします。


他の方とのコメントのやり取り、ブログ管理人の方の考察は
「閉じ込められた神が動きだした? その58 (蘇は人類の祖先?)」
「閉じ込められた神が動きだした? その58 追記」


蘇からシュメール、フェニキア、日本、環太平洋がなんとなく
つながったような気がする。。。
昔からおぼろげに考えていたことが、「蘇」という漢字を
キーに広がった感じ。。。



27/01/2010
晴れ、白い雲、午後に雪が舞う。
風強く、寒い。。。肌ピリピリ。

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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2010-01-29 05:59:05
フェニキア漢字表記:
日本・・非尼亜
中国・・腓尼基
尼(に、あま)が気になる。。。
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Unknown (Unknown)
2010-01-30 00:22:22
チグリス 地革里斯
ユーフラテス 由非刺底
アッシリア 亜西里亜、 亜祭里亜
メソポタミア 米所並大迷亜
バビロン 巴比倫
アララット 阿拉辣
エデン 以典
カナン 迦南(パレスチナ地方の古名)
コーカサス(カフカス) 高加索
サハラ 薩哈剌
ソグド 粟特
ネザーランド 尼達蘭(オランダの別名)
ネルチンスク 尼布楚(ロシア都市、バイカル湖東)
ピレネー 必里尼斯(山脈)
バルカン 巴爾幹

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/mutumi/gaikoku/
http://www.ss.iij4u.or.jp/~ana/chimei.htm
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ボンノォイト (アールデコ)
2010-02-12 05:28:30
しばちゃんの所で、ご挨拶がなぜかおちていました。失礼いたしました。漢字表記は方便であったりするので、まずはフォネティック、発音表記の方が事実にちかずけるような気がいたします。。。私的には。

きょうも各局のニュースコメンテいたーが色あわせしているように見受けられましたが御気ずきになりましたか?

全体的に黒白でマンデラ、あと赤、ネクタイには黄色、英国でインド系の女性が恋人殺しで23年だったかしらの刑。。。むらさきのまふらーでした。きしくも英国ファッションデザイナー、名前があてこすりとしかおもえない、が自殺。シンガポール発のカジノオープン、米のロケットは宇宙へ飛び逃げ?イランでも35周年の革命記念で日本の建国記念を祝う?という偶然。




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アールデコさんへ (hiromi)
2010-02-13 17:19:01
こちらこそ、ご挨拶していませんでした。失礼致しました。
アールデコさんはポルトガル、私はスペインですから、お隣り同士のご近所さんですね!
これからもよろしくお願いします。

漢字を当てる時に、いろいろと法則があるようなので、それなりに意味があるんじゃないかと思っています。私はその法則を見つけることができたら、面白いんじゃないかと。。。

テレビのニュースは余り見ないので、ネクタイには気づきませんでした。もしもネクタイに法則があるなら面白いですね。無意識に選んでいるのか、意識的に選んでいるのか。。。
そういう見方をするのなら、テレビを見ることも何かのヒントになるかもしれませんね。
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Unknown (Unknown)
2010-02-22 03:14:39
メソポタミアMesopotamia美索不達米亞
フルリHurri胡里
フリアンHurrian胡里安
ミタンニ王国Mitanni米丹尼/米坦尼王國
ウルUr烏爾王國
ウルクUruk烏魯克王國
ニプルNippur尼普爾
アッカドAkkad阿卡人
スバルSubari蘇巴里人
ヒッタイトHittite赫梯人
フリギアPhrygia弗里吉亞人
ペロポネソスPeloponnesus伯羅奔尼撒半島

世界政治史年表(前4千紀-前501)
http://bbs.xhistory.net/read.php?tid=2226
http://chowkafat.net/Chron/Chron1c.html
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Unknown (Unknown)
2010-02-22 07:38:40
追加で。
h ttp://dict.revised2.moe.edu.tw/htm/fulu/yim1.htm
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追記 (hiromi)
2010-04-24 17:29:39
漢字の由来(六) 「吉祥」 実は「吉羊」だった!
http://www.epochtimes.jp/jp/2010/04/html/d98159.html

遡ること2千年、前漢時代の蘇武という武人にまつわる「蘇武牧羊」の話も有名である。当時、中原地域の漢は西北地域の少数民族匈奴との親善を図るため、蘇武をはじめとする100人あまりの使節団を派遣したが、蘇武一行が任務を達成し、漢に戻ろうとした時、匈奴で内乱が起こり、蘇武一行も巻き込まれた。漢を裏切って、匈奴王に従うように求められた蘇武は毅然と断り、残虐な刑にも屈することはなかったという。匈奴王はそんな蘇武をシベリアのバイカル湖一帯に流刑し、羊を飼うことを言い渡した。辺境での羊の放牧は19年も続き、やがて、匈奴も漢も新しい王に変わり、蘇武はやっと漢に戻ることができた。
 
 「蘇武牧羊」の物語は蘇武の「強権を恐れず、気高い民族節操」を称え、昔の中国人の倫理人格観を示した。蘇武の崇高な気慨に感服した詩人の李白は『蘇武』という詩を謳った。
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