スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

【スピリチュアリズムの12の救い】(3)おおかたの人は死後「楽園」に行く

2010-12-24 00:07:09 | 高森光季>スピリチュアリズムの12の救い

 多くの人は、時に善くない思いにとらわれることがあるにしても、根本には善なる魂を持っています。「人を苦しめることに喜びを感じる」というような、悪に浸りきった魂はきわめて稀です。そうした善なる人々は、死後、「自分の欲求が満たされる」ような世界に行きます。
 釣りが好きな人は好きなだけ釣りが楽しめ、芸術の創作活動に打ち込みたい人は好きなだけ打ち込むことができる、そういう世界です。死後に厳しく裁かれ、ひどい苦しみの世界に行くわけではありません。ほとんどの魂は楽園に行くのです。ただし、それはその人の欲求や夢に応じた、「幻想」の世界です。

 《ほとんどすべての魂はしばらくのあいだ幻想の国に住む。人間の大部分は死ぬ時は物こそが現実のすべてであるという観念に支配されており、また物に関する個々の経験のみが唯一の現実であると思いこんでいる。彼らはまだ世界観をすっかりと変えてしまう準備ができていない。そのため、自分の慣れ親しんだ環境を理想化した状態を求め続け、幻想の国と私が名づける夢の中へと入っていく。それゆえ、彼らの生きようとする意志は過去に生きんとする意志なのである。》(『不滅への道』第3章「幻想界」)

 《人間性の様々な性質に応じて、われわれは生きている間に惹かれていた人々を探し出す。それは、死がその間を隔てても、われわれが片時も忘れることのなかった人々である。かくして、環境、衣装、住居、職業等を創造するにあたっては、われわれは或る程度この仲間の力を借りる。われわれは小さな共同体を造って一緒に働き、その中でわれわれの必要にぴたりとあったやり方で、地上では満たされなかった多くの人間的欲望を実現する小世界を築きあげるのである。》(『人間個性を超えて』第3章「死後間もない時期の生活」)

《「賢者の霊魂」と私が呼ぶ方々は、自分たちの記憶や地球の持つ大超越意識記憶(the great super-conscious memory)の中から、地上からやってきたばかりの人のために、彼らにはおなじみの家や、街路や、田園の風景などを引き出して与えることができる。》(『不滅への道』第3章)

《たとえば平凡な市民の代表例としてのトム・ジョーンズは、ブライトンにある光まばゆいレンガ造りの別荘を持ちたいと願う。そこで彼はこの二十世紀極めつけの罪物を手に入れて得々とする。当然の結果として彼の知人たちで似たような性質の心を持った人々のもとへと引き寄せられることになる。彼は地上生活では極上の葉巻に憧れたものであった。そこで反吐が出るほどこれをくゆらすことになる。ゴルフをしたいと思えばゴルフをする。こうしていつも夢見て過ごす。というよりも、地上での最大の欲望によって生み出された幻想のうちに生きるのである。》(同前)

 G・V・オーウェンが他界した母親から受け取ったメッセージでは、次のように言われています。
 《完成された地上、といった感じです。でも、もちろん四次元の要素が幾分ありますから、うまく説明できないところがあります。丘もあれば小川もあり、美しい森もあり、家々もあります。それに、私たちが地上から来た時のために前もって先輩たちがこしらえてくれているものもあります。今は代わって私たちが、今しばらく地上の生存競争の中に生き続けなければならない人々のために、環境をこしらえたり整えたりしてあげております。》(『ベールの彼方の生活』第1巻)

 魂は、次第にそこに退屈を感じ、さらなる成長を求めて、さらに高い世界へ向かうか、地上に再生します。

 《その中にあって彼は好きなだけ反映の反映たる幻想世界、つまり地上的性質を帯びた夢の世界に住んでいる。平和と満足がこの境界の内に満ちわたっている。しかしこうした平和の中にいることも、やがて退屈になってくる。なぜなら夢の陶酔境においては、何らの現実的進歩も変化もないからである。……まるで池の中に住んでいるようなもので、波立たない静かな水面にかえって退屈してしまう。そこで闘争や努力や陶酔が欲しくなる。広い天地が恋しくなる。先に進みたいという欲求が再び湧いてくる。つまるところ、上へなり下へなり進みたいと思うようになるのである。》(同前)

      *      *      *

 マイヤーズ霊は、この境域のことを「常夏の国」「蓮華の国」と呼びました。仏教で言う「極楽浄土」のイメージに近い表現です。
 つまり、われわれは、ごく特殊な「悪に囚われた人」を除いて、皆、“浄土”へ行くのです。
 小さな罪を犯したから、戒律を守らなかったから、宗教を信じなかったから、地獄へ墜ちるということはありません。

 これは何と素晴らしい「福音」でしょうか。近代以前、宗教は「悪いことをすると恐ろしい地獄へ行くぞ」と人々を脅してきました。それはある部分、人々の心に道徳を注ぎ込み、社会の安定を導くために、役に立ったかもしれません。しかし、一方では、不必要な恐怖を生み出し、また宗教を権力機関にしてしまうという過ちをももたらしました。
 スピリチュアリズムは、その意味で、宗教を破壊します。宗教的修行や儀式に関係なく、普通の善なる魂は「楽園」へ行く。宗教者から義務を背負わされたり、神々と取引をしたりする必要はないのです。

 ただし、この「楽園」は終点ではありません。魂の旅は、さらにその上へと続いています(マイヤーズ通信ではさらに高次な霊的世界として「形相界」「火焔界」「光明界」があると述べられています)。
 よく、「死んだら宇宙意識と一体になる」というようなことを言う人がいますが、そうしたことは、もっとはるか先、気が遠くなるほどの進化の道程の果てのことです。肉体から脱して目覚めた場所が、ゴールなのだと錯覚しないように気をつけなければなりません。


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
「天国と地獄」について (JIJIRO)
2010-12-24 10:57:41
楽しみに読ませてもらっております。

この振り分け(?)に関しては、以前 Glass Age さんのブログで、アラン・カルディックの「天国と地獄」(幸福の科学出版)を読んだ感想を拝見しましたが、私自身カルディックさんそりゃぁ厳しすぎはしませんか、と不安感を持っております。

少しでも霊的真理にのっとった生活をと心がけはしていても、知らぬ間に他人の不幸を願ってしまったり、利己的な考えを抱いていた自分に気がついて情け無く感じたりすることは誰にでもありそうなことに思えるのですが、そんな普通の人がカルディックさんの本によると、結構苦しんだりしているのですね。

私なんか・・・心配だなぁ^^;)
返信する
振り分けではなく (高森光季)
2010-12-25 01:27:31
 カルデックは死後世界、憑霊(邪霊)、カルマといったことに関して、いささかネガティブな部分を強調しすぎるきらいがあるように思います。霊的なメッセージが人に不安を与えるようなことがあるとすれば、それはあまりよいことではない、むしろ無視すべきこと、と私は思います。

 私の理解するところでは、死後に赴く世界は、誰かの審判によって決められるものではなく、魂が自らの状態(レベル・境域)にふさわしいところにおのずから赴く、ということだと思います。
 次回の記事で触れますが、魂が残酷な欲望を強く抱えていれば、それが魂をそうした境域(仲間)に引き寄せる。その境域は、愛も共感もない地獄のような世界になるでしょう。
 その際、魂を引っ張っていくのは、魂に深く刻まれた思いや感情であって、おおかたの魂は、そういった「深く刻まれた」思いや感情として、それほどひどいものを持っていないのではないでしょうか。

 もちろん、どんな人も、よからぬ思いや感情を抱き、またそれによって誤った行ないをしたことがあるでしょう。人間の心は、ある条件が揃えば、あるいは意図的に仕向けられれば、憎悪や嫉妬や嫌悪や攻撃衝動を抱くものです(たとえば、ひどい悪役が登場する小説や映画を読んだり見たりしていれば、ほぼ誰もが悪役に対する憎悪や殺意を持つでしょう)。それは、生理的な、メカニカルな反応であったり、集合的無意識や想念の作用であったりするもので、それだけでは「魂に深く刻まれた」ものにはならない。
 けれども、人が憎悪などに固執して、それを魂の一部になるようにしてしまったら、それは死後にも持ち越され、魂が赴く先の決定に大きく作用してしまうことになる。
 ただ、そこまで悪に浸った魂というのはきわめて少数で、多くの人々は、マイヤーズ通信の言っているように、「地上と似た幻想の国」へ行くと考えてよいのではないかと思います。

 20世紀になって様々な研究者から報告された「前世療法における前世や中間生(霊界滞在時)の記憶」を見ても、不愉快な死後世界体験の報告事例はきわめて稀のようです。
 むしろ、マイケル・ニュートンによる精細な中間生記憶の研究を見ると、多くの魂は、類魂の仲間と共に現世に生まれ、死後は霊界で仲間と共に霊的学びの「成功/失敗」を反省し、また共に現世に生まれ変わってくる、といったプロセスを繰り返しているようです(マイケル・ニュートン/澤西康史訳『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』、VOICE、2000年)。

 だから私は、「後生が心配」という人には、「あまり心配しなさんな」と言うことにしています。人は自分が思っているほど善人ではなく、また悪人でもないものですし、神はわが子をいじめて喜ぶサディストではありません。われわれはわれわれ自身にふさわしい場所へ行くだけで、もしそこで悔悟・贖罪をしなければならないことがあっても、それは地獄の罰のようなものではないはずです。
 そしてどんな境域にいても、光を求め、自己の成長を願う気持ちさえ持てば、そこにはきっと道が開ける……
返信する
ありがとうございます (JIJIRO)
2010-12-25 07:42:56
高森様、ありがとうございます。
スピリチュアリズムに出会えた喜びを、一人でも多くの人と共有したいと願っています。

Glass Age さん、ご覧になってるかな?
返信する
同感です (Glass Age)
2010-12-25 23:01:13
JIJIROさん、ご指名ありがとうございます。
もちろん、ご覧になってます(笑)。

高森さんの「天国と地獄」観に全く同感です。
JIJIROさんが言及してくださった、私のブログ記事の一部を引用します。

*********************
 決して、天国と地獄の2種類の行先があって、その人の誕生から死までの思考や言動の全てが誰かに採点されて、「はい、あなたは残念ながら合計したらマイナス点でしたので、地獄へ」などと判定されるようなものではないと思うのです。『天国と地獄』には、そういう誤解を与えかねないミスリーディングなところがあるように思います。

 『天国と地獄Ⅱ』の訳者まえがきでは、前作の感想として「地上での生活がこれほどまでに厳しく評価されることを知って、ちょっと怖くなった」という趣旨のものが多数寄せられたと書かれています。しかし、この種の恐怖心を与えてしまうことは、スピリチュアリズムやスピリティズムにとっては不本意だと思います。カルデックも「ちょっと編集上の配慮が足りなかったかな」と今頃反省しているかもしれません(笑)。
*********************

JIJIROさんのおっしゃる「スピリチュアリズムに出会えた喜び」という言葉、とてもよくわかります。

私が初めてスピリチュアリズムの考え方に触れたとき、死や霊や霊的世界についての合理的で前向きな考え方に目からウロコが落ちたような思いになったのを覚えています。それは不安や恐怖心とは対極のものでした。シルバーバーチが最も悪しきものとしているのは取越苦労や恐怖心ですものね。
返信する

コメントを投稿