おおかたの人たちは死後「浄土」のような世界へ行くと前回述べましたが、間違った考え、異常な執着、他者への悪意といったものを持ってしまった魂は、どうなるのでしょうか。
そうした罪深い魂が、普通の人たちと同じような「常夏の国」へ行くとしたら、それは「公正」ではないでしょう。しかし、だからといって、「永遠に火で焼かれる地獄」に閉じ込められるわけではありません。
マイヤーズ霊は次のように言います。
《死後の最初の状態に地獄がないというのは普通の人の場合を言っているのである。異常に嫉妬深かったり利己的であったり、残忍であったり、人を騙すとかいう連中は幻想界に滞在中、地獄の苦しみを逃れるわけにはいかないかもしれない。彼らの歪んだ性情が自己の欲望の充足を妨げるのである。真の意味において人を愛するということのできない性格が霊的な引力を圧倒してしまう。彼らは他人の犠牲などはお構いなく自分たちだけが慰められ奉仕されるべきだという幻想の霧の中を空しく手探りで探しまわらなければならない。孤独の運命が彼らを待ち構えている。そのため彼らは永くこの状態にとどまっていず、地上に再生する手段を求める。》(『人間個性を超えて』第13章「地獄」)
《残酷さは他の性的歪み以上に人間の性格に食い入った感情である。それは人の魂に刻印し、他のどのような悪徳よりも深く傷つける。愛情への渇仰を他人を傷つけるという激しい望みに変えてしまった残酷な人間は、当然のことながら現世ではその欲望を充分に果たすことができない。彼は地上生活のすべてをそこに傾注する結果、それが彼の魂の一部となってしまったのである。
しかし新しい生活の中では、ある期間、生きているものに苦痛を与える力のない時期がある。このことは次第に精神力を増大しつつある彼にとっては大変な悲嘆の種である。彼は自己の欲望を貪る相手を求め続けるが、誰も見つからない。この求めて満たされざる欠乏状態はほとんど精神的な性格のものであると言ってもよかろう。このばかげた地上の欲求が満たされないでいる魂にとって、光や美の世界などというものが何の役に立つであろうか。彼にとってはこの精神的地獄から逃れるすべはただ一つだけである。そこから逃れる道を自ら発見し、その冷酷な魂に現実の変化が訪れるまでは、彼は自らを取り巻く暗黒の中に留まり続けなくてはならないであろう。》(『不滅への道』第3章「幻想界」)
インペレーター霊はもっと厳しい表現をしています。
《絶え間なく悪を求め、善を拒絶していくことは必然的に純粋なるもの善なるものへの嫌悪感を育み、邪悪なるものを求めさせることになる。こうした性癖の霊は、普通、獣欲に支配された肉体に宿ることが多い。成長とともに獣欲の誘惑に負け、挙句の果てにその奴隷となる。高尚なるものへの憧憬も、神への崇拝心も、聖なるものへの望みもすべて消え失せ、霊に代わりて肉体が完全に支配し、己の思うがままに行動し、道徳的規範も知的判断力も持ち合わせぬ。かくして魂は邪臭ふんぷんたる雰囲気に包まれていく。ここに至る者は危険この上なき状態にあると言わねばならぬ。もはや背後霊は恐怖におののきてその場を逃れる。その雰囲気に息が詰まるのである。すると代わって別の霊たちが群がり寄る。かつて地上で同じ悪癖に身を亡ぼした者たちである。彼らは今一度官能の快楽を味わい、その人間を罪深き生活へと追い込んでは快哉を叫ぶ。こうした肉体的罪悪を再び繰り返さんとする性向は自然の法則を意識的に犯せる報いの中でも取りわけ恐ろしきものの一つである。彼は遂に肉体的快楽の味の虜になり果ててしまった。そして見よ! その肉体が滅んでも彼は相変わらずかつての快楽を求めて、行きつけの店をうろつきまわる。そうして、そこに屯(たむろ)する同類の飲んだくれに憑依して再び酒色に耽る。》(『霊訓』3節)
こうした恐ろしい状況は、神や霊が裁判をして、判決を下し、定まった場所に収容する、というものではありません。魂自らが創り出すものであり、つまり自らの誤った欲望によって自らを苦しめるということです。
そして、魂が過ちに気づき、光を求めるようになれば、更正への道が始まります。
《ときたま、その内省的な地獄の経験によって真の愛が生まれることがある。すると地獄はまるで招喚を受けでもしたかのように消え去り、この帰幽者たちの広大な王国で彼らは近親者や気のあった人たちと再会する。》(『人間個性を超えて』第13章「地獄」)
《残酷者の死後における物語は一冊の本にもなりえようが、今の私にそれを語ることは許されていない。私はただ、彼の魂と心は、その犠牲者たちの苦悩との一体化を通して浄められてゆくものであると付け加えうるのみである。》(『不滅への道』第3章「幻想界」)
《こうした境涯の霊たちの更生は、神の救済団による必死の働きかけにより、魂の奥に善への欲求が芽生えるのを待つほかはない。首尾よくその欲求の芽生えた時が更生への第一歩である。その時より神聖にして気高き波長に感応するようになり、救済団による手厚き看護を受けることになる。……かくして聖なるものへの欲求が鼓舞され、霊性が純化されていく。》(『霊訓』3節)
「永遠の地獄」といったものはありません。魂は、それぞれの思いにふさわしい世界に行くだけです。魂が歪んでしまい、「神の法」を外れていれば、魂は苦しみを味わいますが、気づきが訪れ、「神の法」に従うようになれば、苦しみからは解放されます。そして多くの場合、また地上に生まれ変わり、学びと成長の道を歩みます。
ちょっとした過ちを咎め、罪の宣告をし、永遠に苦しめるような神は存在しません。それは人間の残酷さを投影した幻です。神はすべての魂の前に、成長の道を用意しています。その道をはずれれば苦しみがあり、苦しみによって道をはずれたことに気づき、再び道に戻る、それだけのことです。
だから、「○○を信じないと厳しい裁きに遭う」「○○という行為をしないと地獄へ行く」といった偽宗教の脅しを気に掛ける必要はありません。そんなことを言う人たちこそ、偏狭な考えに囚われた魂であり、死んだ後もその考えに縛りつけられ、長く苦悩することになるでしょう。
最新の画像[もっと見る]
-
【雑報】ウィルスの不思議 12年前
-
【雑報2点】異才の詩人・写真家/無限の夢 13年前
-
【「私」という超難題】(15) 世界への意志 13年前
-
【雑報】スペインのトンデモ修復が世界を抱腹させている 13年前
-
【雑報】スペインのトンデモ修復が世界を抱腹させている 13年前
-
【雑報】スペインのトンデモ修復が世界を抱腹させている 13年前
-
【雑報】丸山桂里奈さんが撮った写真が話題になっているけれども 13年前
-
【おまけ】憑霊による外国語書記 13年前
-
【ワロス】2ちゃんVIPの仏教相関図が面白い 13年前
-
【拾いもの】三つ鳥居の謎 13年前
こうした食い違いがありますが、霊信と退行催眠の学問的研究のどちらが正しいと思われますか?
「自殺者は地獄へ行く」という命題も、「自殺しても死後の運命に影響はない」という命題も、共に間違いでしょう。
そもそも死後魂がどういう境域に行くかということは簡単に論じられないものですが、それは自殺者も同じで、どのような情況にあったのか、どのような思いや動機を持っていたのか、どこまでが魂の責任だったのか、など、様々な要素によって、死後の命運は異なるでしょう。
過剰な自己中心性や妬み・ひねくれ、怯懦、などを抱いて自殺した場合は、やはり死後もそれに囚われ続ける苦悩があるでしょう。逆に、身体的な(脳の)欠陥とかの場合や、人(家族)の苦しみを軽減させるため、といった動機の場合は、責めは少ないこともあるでしょう。
端的に言えば、「われわれにはわからない」ということになるでしょうか。
シルバー・バーチもこうした問題には慎重に答えています。
Q:自殺者は死後どのような状態に置かれるか。
《それは一概には申し上げられません。それまで送ってきた地上人生によって異なるからです。開発された霊的資質によって違ってきます。魂の発達程度によって違ってきます。そして何よりも、その自殺の動機によって違ってきます。
キリスト教では自殺をすべて一つのカテゴリーに入れて罪であるとしておりますが、そういうものではありません。地上生活を自分で勝手に終わらせる権利は誰にもありませんが、自殺に至る事情に酌量すべき要素や環境条件がいろいろとあるものです。
いずれにせよ自殺行為が為にならないことだけは間違いありません。地上生活を勝手に終わらせることが魂にプラスになったということは絶対にありません。が、だからといって、自殺した者がみんな暗黒界の暗闇の中に永遠に閉じ込められるわけではないと申し上げているのです。
また、自殺行為は、もちろん霊的進歩の妨げになります。》(霊訓9、207-9頁)
なお、「地獄」といった固定した場所はない、というのが霊信に共通した意見だと思います。悪に染まった魂が集まる「地獄のような境域」はあるようですが。
療法家のもとには一定の傾向を持ったクライアントが集まる場合もありますから、一人の療法家の意見に全面的に信を置くことは危険だと思います。(特に、何度も自殺した人のケースなどは、少し特殊なものかもしれません。)
また霊信もその霊の個性による表現の偏りがありますし、霊媒による「誤訳」もあるでしょうから、絶対化することはよくないでしょう。
霊信の間でも、また研究者によっても、食い違いはいろいろとありますが、「どれが正しい」とはなかなか言えないでしょう。総合的に判断して「このあたりが妥当な考え方だろう」と幅を持って考えるのがよろしいかと思っています。
で、その成長が地上での苦しみや困難に前向きな姿勢でたちむかっていくことでなされる(もちろん他にもいろいろな手段はあるのでしょうが)というのであれば、自分で「死」を選ぶ行為自体がせっかくの成長の機会を見逃してしまうという意味に於いて、霊的に観ればとてももったいないことだと高級な霊の目にはうつる・・とはいえないでしょうか。
ただ、死後存続を説くと、安易にリセットを求める輩がいる。それは「もったいない」では済まされないぞ、と言わなくてはいけない。
一方には「自殺者は重罪人」とする宗教ドグマもある。これはこれで残酷で、残った関係者を苦しめる。それは違うよ、と正す必要がある。
この二つの極論を排するために、どうしてもちょっとわかりにくい言い方になってしまうわけですね。
それと同時に、シルバー・バーチが、取り越し苦労をやめることや自分で解決できない問題が決して起こらないことを、これも何度も訴えていることにも思い当たらされますね。
私自身、迫り来る不安感や苦しみでどうしようもなくなった時などに、彼の霊訓の中の
「そこでわたしは、取り越し苦労はおやめなさいと、くり返し申し上げることになるのです。自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物は決して与えられません。しかも、あふれんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、霊界から援助し、導き、支えてくれる、あらゆる力を引き寄せることができるのです。」
という箇所を何十辺読み返したことでしょうか。
できれば死を考えるほどの苦しみに直面している人たちには、こういった霊的真理の存在を知っていただきたいものだと痛切に感じます。
とまれ、自殺者の件に関しては少しずつ確信が芽生えてまいりました。後は当時の文化や時代背景といったものも考慮に入れなければならないのでしょうね。
また、退行催眠の本の地獄に関する箇所も、マイケル・ニュートン以外のものも読んでみました。ブライアン・ワイス氏、グレン・ウィリストン氏、奥山輝実氏など、数多くの経験を積んだ、複数の研究者が発表していますが、概してどれも「地獄に当たる世界」は霊信の内容のような恐ろしいものではありません。また退行催眠においては、被験者の語ったことがいくつも史実と符合していたり、近親者がいくつも過去世で近親者同士だったという報告がありますし、そうした研究報告が真実なら、退行催眠は信憑性の高いものといえましょう。
ここで思うのですが、霊信は地上人に戒めや教訓を与えるのが目的で送られてくるのだとしたら、当然、悪という行為の報復を実際以上に厳しく語るのではないでしょうか。
よって「地獄にあたる世界」については、退行催眠の研究者の語るものの方が、当てになるのではないでしょうか。
《残酷者の死後における物語は一冊の本にもなりえようが、今の私にそれを語ることは許されていない。私はただ、彼の魂と心は、その犠牲者たちの苦悩との一体化を通して浄められてゆくものであると付け加えうるのみである。》(『不滅への道』第3章)
この「苦悩との一体化」はかなり厳しいプロセスでしょう。しかしマイヤーズ霊はそれを語ることは「許されていない」と言っているのです。
逆に、前世療法家やそのクライアントが「不快な中間生」を半ば無意識的に排除している可能性も、まったく排除できるわけでもないでしょう。
たとえば、臨死体験においては、幸福な体験が多く語られる一方、ネガティブな体験の報告もあります。
《「臨死体験」は、「光」との遭遇、安心感、蘇生後の人格の善化、などと楽園的に記述されることが多いが、地獄的な要素を強調する作業も、例外的ながら存在する。ムーディ自身も『かいまみた死後の世界』の続編で、自殺者の臨死体験が「罰がともなう」ことを追記している(ムーディ『続・かいまみた死後の世界』63-68頁)。そのような中でも、自らを「臨死体験者」にして「女性の臨死研究者」と位置づけるフィリス・アトウォーターの『光の彼方へ』は、フェミニスト臨死研究というべき論争的なスタイルをもって、闇の体験を綴っている(アトウォーター『光の彼方へ』270-271頁)。アトウォーターが自説の根拠として示す数字をいくつかみると、三〇〇〇回以上の臨死体験者とのセッションのうち、「七〇〇人」にしぼってインテンシヴな聞き取りを行なったところ、そのうち「一〇五人」が「不愉快な臨死体験をしたと証言」したという。一~二割という数字は少数派に属するが、無視できる割合ではない。(中略)
もちろん、男性研究者にも、「あらゆる死の経験が良いものばかりではない」と強調するものがある。たとえばモーリス・ローリングズ『死の扉の彼方』がそれで、自ら処置を施した蘇生直後の患者の「わたし、地獄にいる!」という悲鳴に触発されて臨死研究に入ったローリングは、死後間もない時点で証言をとることの重要性を主張した。悪い経験は短期間に深く抑圧されて、多幸的な経験ばかりが残るという理由からである。そして、キューブラー=ロスやムーディという先駆者については、「蘇生直後に治療現場でのインタビュー機会には恵まれていない」という、重要な指摘をしている。》(津城寛文『〈霊〉の探究』第3章)
『ヴェールの彼方の生活』第3巻第8章「暗黒界の探訪」や、ブラジルのスピリティスムの書物に記される地獄様の世界は、果たして「教育的配慮から悪への処罰を厳しく」語ったものかというと、それもまた無理なような気もします。
結局、現在のところ、私には「わかりません。それぞれお考えください」としか言えません。
確かにこれは個人の考えに拠るしかない問題です。
ただ、一世紀程の短い期間にたくさんの有力な霊信が集中して送られたということは、人類に対し、何としても諭したい強いものがあったのでしょうね。
おっしゃる通りだと思います。
でもせっかくのものを人類は活かせていない?……