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【「私」という超難題】(1) 真性異言事例における「再生」と「憑霊」(上)

2012-08-07 03:17:23 | 高森光季>「私」という超難題

 これから「私」をめぐっての考察をぽちぽちとアップしていくことにします。この主題は、スピリチュアリズムにとっても、私が求めている「霊的領域を含めた哲学」にとっても、とても重要な主題であり、たぶん人類にとっての最大の難題の一つでしょう。かなり千鳥足になるでしょうし、へたをすると途中で挫折するかもしれません(笑い)。難解でややこしい文になるかもしれませんが、よろしければお付き合いのほどを。

      *      *      *

 まず最初に、私は以前述べた見解を撤回しなければなりません。
 それは、イアン・スティーヴンソンの「生まれ変わり」研究、特に真性異言現象に関するものです。
 スティーヴンソンは2000を超える「生まれ変わりとおぼしき事例」を収集・報告していますが、そのうち「現世人格が習ったことのない言葉で“前世”らしき記憶を語る」という、わずか3例しかない、きわめて特殊な事例があります(習得したことのない言葉で会話をする現象を「応答性真性異言」と呼んでいます)。
 この事例は、「ESP(透視など)によって得た情報を前世記憶として語っている」という疑惑(超ESP仮説)を棄却する上で、非常に強力な事例です。
 ある人が前世記憶として、一定の信憑性を持つ事柄を語った。しかしそれは、図書館などの資料や、生きている人の内心の記憶を読み取って、それらを総合して創作されたものではないか、という(かなり奇矯で強引な)反駁が生じます。けれども、「前世で話していた外国語」で会話をしたという場合、「ESPによる情報取得」では説明できず、「超常的な方法での人格移転」が濃厚になります(言語能力は「情報取得」では転移不可能な「技能」であるため)。
 従って、応答性真性異言を伴った「前世記憶報告」は、「死後存続」仮説にとって、きわめて強力な証拠となります。
 ただ、それを「生まれ変わり」だと言えるかどうかは、非常に難しい問題です。
 私は以前、スティーヴンソンの真性異言の事例(シャラーダの事例)に関して、「前世記憶の信憑性に疑いはない」と述べました(イアン・スティーヴンソンの「生まれ変わり」研究――真性異言と先天性刻印(1))。

 ところが、どうもこれは間違いのようです。「信憑性」が間違いなのではなく、「前世記憶」ということが、違う。

 もう一度、前掲過去記事から、事例の概略を紹介します。詳細は、イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世の言葉を語る人々』春秋社、1996年(絶版)を参照。

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 ◆シャラーダの事例

 1941年、インド、マハーラーシュトラ州ナーグプルに生まれたウッタラ・フッダルという女性は、1970年からいつくかの身体的疾患により、ホメオパシー医の診察を受けるようになり、73年には入院生活に入った。その際、ヨガ行者が講演にやってきて、瞑想の講義をした。少々の瞑想経験を持っていたウッタラは、瞑想の練習に参加した。その後、本人の行動は顕著な変化を見せ、ウッタラの母語であるマラーティ語とはまったく異なるベンガル語を話し始め、ベンガル州プルドワンで1800年代前半に生きたシャラーダという女性に、ほぼ完璧に人格変換する。
 シャラーダの自己紹介によれば、彼女は生まれて2ヶ月ほどして母を亡くし、叔母に育てられた。7歳の頃に、叔母の紹介でアーユルヴェーダ医と結婚した。2回の流産を経験した後、3回目の妊娠をしたが、妊娠5ヶ月の時、夫を家に残し、かつて住んだことのあるサプタグラムという村に旅行した。そこで2ヶ月経たないうちに、庭で花を摘んでいる時、右の爪先をヘビにかまれ、意識を失った。それ以降の記憶はなく、自分が死亡したという意識が彼女にはなかった。
 シャラーダに「人格変換」している間、ウッタラには全く記憶がない。この人格変換は、不定期に起こったが、月に2度ほどある「アシュタミーの日」に起こることが多く、その「アシュタミーの日」は、シャラーダの生まれた日であり、また死亡した日である。またシャラーダが崇拝していたドゥルガー女神への礼拝にふさわしい日ともされている。シャラーダの「出現」は、大半は1~3日続くものであったが、1~2週間続く時もまれにあり、中には40日以上にわたることもあった。
 シャラーダは、ほぼ完璧なベンガル語(ウッタラがこれを習った可能性は否定されている)で流ちょうに受け答えをし、マラーティ語、ヒンディー語、英語などはまったく理解できなかった。
 シャラーダは、結婚時暮らしていた土地のことを、事実と一致する形で語った。また、生活習慣、身振り、ものの好みなどにおいて、ウッタラとは全く異なる、19世紀初頭のベンガル女性の特徴を見せた。彼女は文明の利器を知らず、テープレコーダーを再生すると仰天してその中に「悪霊がいる」と言った。また、電話という概念を知らず、「あなたは見たことがないからわからないでしょう」と言われると、天井の扇風機を指さして「あれみたいなものですか」と笑いながら言った。
 シャラーダは、時に自分の死の直前の状況を発作のように再現した。舌と口内、唇がどす黒くなり、「キング・コブラが私を噛んだ」と述べ、爪先も黒くなった。その最中、シャラーダの息は、強い悪臭を放った。
 奇妙なことに、シャラーダは自らが死んだことを知らず、夫や叔母夫妻の死も知らなかった。自分がもといた所に戻り、家族たちに再会したいと頻繁に主張した。

 スティーヴンソンは、持ち前の熱意と忍耐力を発揮して、驚異的と思えるほどの周到な調査を行ない、主人格のウッタラがベンガル語を習得したことがないこと、シャラーダの記憶とその言語が、証言する前世に符合することをを立証しています。
 報告されたシャラーダの言葉、記憶、仕草や身振りなどを読む限り、その前世「記憶」の信憑性は疑いありません。そして、超ESP仮説では、この言語能力を説明することができません。

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 この事例に関して、スティーヴンソンは、「生まれ変わりなのか、憑霊なのか」と問いを出し、「シャラーダが自分が死んだという自覚を持っていないから」という理由(いささか奇妙な理由です)で、「生まれ変わりであろう」と推測しています。
 私は当初、この事例は憑霊ではないかという疑いを持っていましたが、その後、日本でも同様の真性異言のケースがあることを知り(稲垣勝巳『「生まれ変わり」が科学的に証明された!』ナチュラルスピリット、2010年)、そのケースともども、「生まれ変わり」事例と捉えていいのではないかと考えるようになりました。
 けれども、改めて考え直してみると、少なくともシャラーダのケースは、「生まれ変わり」事例ではないと言わざるを得ないと思います。

 その要点は、

 ①シャラーダとウッタラの間に、自己同一性感覚がない(シャラーダ出現時にウッタラの人格意識は消失しており、またウッタラはシャラーダを「自己の前世人格だ」と認識している様子がない)

 ②シャラーダは、明らかに自身が出現している時以外に、ウッタラを通して「生きている活動」をしていない(死直前の時点で凍結した、ウッタラとはまったく無関係の別人格)。

 ③シャラーダは自身の死の記憶がない(スティーブンソンはこれを逆に「生まれ変わり」の傍証としているが、これは論理的説明がなく、おかしい)。

 つまり結論として、これは「未浄化霊の憑霊」である、ということです。そしてこのケースは「死後存続」の強力な証拠にはなりますが、「生まれ変わり」とはまったく別領域の事例だということです。
 人類の長い経験から、地上に未練を残し、自らの死を自覚しない「未浄化霊」が、霊媒体質を持っている人物に「憑依」することことがあることは、よく知られています。「自分が死んだということを知らない」というのは、むしろ「未浄化霊」の一つの特徴です。

 このケースは、一見すると、ウッタラが意識変容を起こして、シャラーダという「前世」を思い出し、その前世人格に変異したというふうにも見えます。だから、「生まれ変わり」事例である、と。
 しかし、視点をシャラーダ当人に移してみると、シャラーダは、自分の死を知らず、死直前のまま凍結し、ウッタラを通して生きることもなく、ウッタラの意識変容状態の時にのみ突然姿を現わします。つまり、シャラーダ当人は、ウッタラに生まれ変わってはいないのです。シャラーダは、未浄化霊として浮遊し、どういう経緯でかは不明ながら、ウッタラに憑依し、現世との交渉を再開したことになります(この「現世との一時的交渉」を「生まれ変わり」と位置づけることは無理でしょう。憑霊はあくまで一時的帰還・体験です)。

 この問題は、人格とは何か、「私」とは何か、という主題に、大きな示唆を与えるものです。
 いや、そもそも「生まれ変わり」という問題自体が、「私とは何か」を強く問いかけてくるものだと言えます。


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