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【「私」という超難題】(18) 責任と罪

2012-09-03 00:12:36 | 高森光季>「私」という超難題

 「私はない」とすると、責任の主体がなくなります。倫理が崩壊します。

 現代の支配的思想である唯物論では、私とは、「脳が発生させる湯気のようなもの」「様々な物質システムから構成される複合体」ということになります。
 そこには、「責任」ということは、本質的には存在しない。社会を円滑に運営していく(種の保存)という功利的な意味で、違法行為に対して責任は設定しますが、それ以上のものではない。
 そして実際、社会の論調の中で、「人間の主体的責任」というものは、どんどん姿を薄くしつつあります。

 《現代の医学や心理学においても、唯物論の影響を受けて、人間は「遺伝+環境」だと捉える傾向があります。特に最近は何でも「ストレス」が原因で、不登校や引き籠もり、うつ病、肥満、犯罪、その他もろもろの病気や非正常行動は、ストレスが引き起こすというトンデモ説が優勢です。人を何十人殺したとしても、それはストレスのせいであって、当人の責任ではない――こういったすべての倫理や人間性を破壊する考え方さえあるわけです。》(【「私」という超難題】(4) 「私」を否定する傾向

 犯罪を犯したとしても、それは、遺伝的要素とか生育歴の上での不都合とか一時的心神耗弱とかのせいだと言う説が有力になってきています。「本人」には責任はない、だって「本人」なんて存在しないんだもの、というわけです。
 こうなると、すべての悪や罪は、物質と物質のぶつかり合い、システムないし構造の衝突あるいはその欠陥、偶然によって起こるすべての出来事のうち功利的に問題があるとされる一部の出来事、になってしまうのではないでしょうか。
 これは倫理の崩壊です。

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 どこかで読んだ文章に、

 「後生を信じない者はどんな悪事もする」

 というのがあります。
 罪は償わなくてはいけない。それを求める被害者がいるから。しかし、そういう義務を免れることができるなら、つまりうまく逃げ切れることができるなら、それでOK。
 いや、もっと言えば、どんなにひどい手段を使ってでも、欲望満足を最大化するように努めればいい、人を殺したってかまわない、そしてつかまった時点で死ぬのがいい、それが「幸福の最大化」だ、ということにさえなりかねない。

 けれども、後生はあるわけです。この世で犯した罪は、たとえこの世に生きているうちに罰せられることがなくても、死後の世界で、また次の生で、償わなければならない。
 これがあるから「公正」が成り立つのであって、逃げおおせたらおしまいだったら、「公正」など存在しないことになります。公正など存在するわけがないと考える人もいるかもしれませんが、人間的な意味での公正はともかくとして、宇宙の法則に「えこひいき」はないようです。
 シルバー・バーチさんは繰り返し「神の(宇宙法則)の公正」を力説しています。

 《無限なる霊である神の働きは完璧です。完璧なる公正のもとに働きます。完璧というものは、未完成の地上の人間だけでなく私どもの世界の多くの界層の霊にとっても理解できるものではありません。物事には必ず埋め合わせがあり、応報があります。その計量は完璧な天秤によって行われます。》(『シルバー・バーチの霊訓』第一巻、42頁)

 《地上であろうと霊界であろうと、神の公正から逃れることはできません。なぜならば、公正は絶対不変であり、その裁定はそれぞれの魂の成長度に合わせて行われるからです。》(同、第九巻、207頁)

 前に書いた「悪人に報復する必要はない」というエントリから自己引用します。

 《罰せられない悪や、法律をくぐり抜けてしまう悪人がいることも確かです。その中には殺されてもやむを得ないと思ってしまうような悪人もいます。
 そういう悪に、あまり怒る必要はありませんよ。そういう怒りで自分がいやな気持ちになる必要はありませんよ。
 彼らは未熟なだけ。そして彼らの前には死後も続く、とてつもなく困難な道があるのだよ。次の生まれ変わりは大変な人生だろうね。》

 そして、このことは、つまりは責任を取る主体がいる、それが私だ、ということを意味しています。

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 カルマの「転生」や「受け渡し」という考え方があります。

 仏教はもともとは「輪廻転生」を前提としていました。けれども、やがて「無我」の考え方が優勢になってくると、おかしなことになってしまいます。私はない、なら何が生まれ変わるんだ?
 このあたりはいろいろと細かい議論があり、あまりいい加減なことは言えませんけれども、そこで、「カルマ(業)」が転生するんだ、ということになった、らしい。
 (ううむ。でもそれって「カルマ」の実体化じゃないでしょうか。「私」や「仏性」の実体化は激しく否定するのに、「業」や「無明」はまるで永遠不変の実体みたいになっていないかしら。)

 しかし、そういう議論とは別に、実際のところ、カルマらしきものの死を超えた継続や受け渡しはあるわけです。それは無我説とは関係ない。継続というのは、同一主体の生まれ変わりの際についてまわるということで、よく言われる「前世の報い」ですね。受け渡しは類魂間で行なわれるものです。

 《初めて肉体を待った魂は、通常その類魂の或るメンバーと霊的に極めて近い関係にある。そして、その関係が近いほど古参の魂のカルマを引き受けることになる。そうした古参の魂は既に四、五回の地上生活を経験している。がしかし未だ充分には純化していず、霊的進化に必要なだけの地上経験をしていない。しかしながらこうした場合、二つの方法で必要な経験を獲得することができる。①類魂の記憶の中に入ることによって。②その魂のカルマ――何度かの地上生活によってつくり上げたパターン――を引き受けた若い魂と霊的な関係を保つことによって。》(『人間個性を超えて』第四章、『不滅への道』第六章に類似の記述あり)

 そのカルマとは何ぞや、というのは大問題ですけれども、どうも
 ①罪・悪事とその償い
 ②魂がそれを通じて成長していくための「課題セット」
 といった二つの面があるように思われます。
 結局は同じだということになるのかもしれませんが、後者の方は、罪とか悪事とかは直接関係ない、一種の魂の宿命のようなものです。
 たとえば、「美を求めるあまりに現実を忌避する」とか「理想秩序を欲するあまりに他者を圧迫する」とか「奉仕を願っているのに欠点があり苦悩する」とかいった形で、こういうことは現実によく見られるものでしょう。つまり、ある種の希求・情動(特に精神的な)と、それにまつわるトラブルの種がセットになっているらしい。で、それを生きることによって、何か――それは実に様々でしょうが――を学ぶことになる。
 もちろんそれが「罪の償い」として課せられることもあるでしょうけれども。

 前者の「罪・悪事とその償い」の方は、ちょっとパスします。私も罪人・悪人なので、その償いについて思いをいたすとつらい(笑い、笑えないけど笑い)。

 ただ、罪の償いにしろ、「課題セット」にしろ、引き受けることを決めるのは私自身であるわけです。
 誰かから強制されるわけではない。
 そしてそれを通して成長して、叡智を獲得していくのも、私自身です。

 つまり、罪や叡智は「私」に、「私の魂の核心」に属する、ということではないでしょうか。

 具体的な体験記憶やそれに関する思い・感情、そしてそれらから構成される地上的な性格・性癖は、私の「地上時人格」に属するが私ではない。
 私の核心は、罪や叡智にある……

 いや、それだけではないですね。もっと深い、魂の性質、色合いのようなものがある。
 それは……


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