どうも難解な話が続いて申し訳ないですが。
前回、「超越へ向けて自己を投企する」ということを書きました。典型が「殉教」です。
霊的に見れば、死ぬこと自体は別に問題ないわけです。死後も私は存続するのですから。こんなことを言うとあきれられるかもしれませんが。
で、ここで気になるのが、「思いにとらわれてしまう」ということです。この(9)で書いた「想念憑依」とも関係します。
マイヤーズ通信に、以下のような記述があります。
《類魂について知り、他の類魂の仲間たちの感情的、知的経験を共有してゆく途中で、ある鋳型にはまった類魂の一局面に捉えられてしまうと、その魂は永くその鋳型から抜け出られなくなるからである。
そうした例としてある特殊な世界にはまりこむ場合をあげたい。たとえば狂信的な仏教徒やキリスト教徒たちはこうした地上時代の信念の溝の中に落ち込んでいる。それというのも、そのグループの他の類魂たちも同じような観念の鎖に縛られてしまっているからである。そのためにその魂たちは進歩せず、キリスト教徒や仏教徒をつくりあげている一思想ないし一記憶の世界に留まり続ける。まるでタコの足にしっかり捕えられてしまったようである。タコとはすなわち、死後の世界について彼らの持つ地上的観念、つまり地上でつくりあげた世界観にほかならないのである。
こうした状態が進歩を妨げることはお分かりであろう。それは他の比喩をもって言えば、知的な「さなぎ」の中に住んで過去の地上的観念に生きることになるからである。旅する魂がそれらの観念を自分の意志で検討できるようになることは必要なことであるが、それに捕われたり閉じこめられたりしないことが大切である。》(『不滅への道』第六章 類魂)
非常に深遠な内容で細かく論じればいろいろな主題が出てくると思いますが、とりあえずここでは、霊界での霊的成長の過程で、「世界観」「思想・想念・観念」にとらわれてしまうことの危険が指摘されていることに注意したいのです。
つまり、非常に崇高な意図をもって「殉教」した(そのために全霊を捧げた)としても、それが「想念」への固着であると、その後の成長進化が阻害されるということです。
難しい話で、そしてまた怖い話です。
われわれは純粋にして熱情ある霊的希求を持つことが望ましいものの、それが「思想・想念・観念」への固着にならないように気をつけなければならない。
もう少し具体的に言えば、われわれは「美」や「慈悲」や「理知的秩序」を希求すべきであるにしても、それを「思想・想念・観念」として固定してはならないということでしょうか。
* * *
このことを逆から読むと、次のように言えるかと思います。
それは、
「世界観」「思想・想念・観念」は「私」ではない
ということです。
私の思想・想念・観念は、私そのものではない。私はそれらを超えて活動をしていくものだ、と。
屁理屈を並べているように見えるかもしれませんが、このことは、このシリーズの初めに出た、
「何が死後も存続するのか」「何が生まれ変わるのか」
という問いに対応する一つの示唆です。
通常、私は、私の個性は、「私はどのように生きたいか、生きるべきか」「世界はどのようなものであって、どのようにあることが望ましいか」といった想念が中心にあると思われています。そして、そのベースに、あるいはそれに絡まるようにして、記憶(感情的記憶、知性的記憶)や、強い思いや、嗜好がある、と。
ところが、私の本体は、そこにはない。
私が死んだ後、私の本体は残り、私が生まれ変わった時、私は歩みを続ける。
その動作主体である私本体は、「私の人格の主要部分」ではない。それを持ち越すことは多々あるけれども、主体はそれではない。しばしばそれは捨てられたり、解体され抽象化されて持ち越されたりもする。
(たぶん、低いレベルでの生まれ変わりは、かなり様々な要素が持ち越されるけれども、より成熟したレベルでは、諸要素は抽象化されたり組み替えられて新たな“高次構築”になったりしていく、というようなことだと思います。ちなみにマイヤーズ通信でよく使われる「パターン」というのは、この諸要素が抽象化され高次構築された複雑な想念構造体を指すのではないかと思います。)
だからものすごく厳密に言うと、死後も存続し、さらには生まれ変わったりもするのは、「私の人格」ではない。それを超えた「私」だということになるわけです。
* * *
マイヤーズ通信には、肉体を脱した魂は、地上に生きていた時の記憶を、徐々に、ある程度、捨てていくということが示唆されています。
《肉体を脱した存在になると、イメージはもはや、脳細胞を仲介とした物質によってわれわれと結び付けられていないから、われわれは地上時代のイメージからずっと隔たってしまう。……交霊中のわれわれはイメージから遠ざかってしまっており、地上の霊媒がわれわれの記憶庫から、要求されただけの事実を引き出す――その場合、もちろんわれわれの協力が必要だが――霊能力を持っていない限り、あなたがたの望むような証拠を提供することはできないのである。》(『不滅への道』第十五章)
《不滅の生者たちは、現在の生活を追求することに一所懸命で、過去の一切の記憶からは遠ざかっているが、記憶の糸を引っ張ることによって、砂糖黍から砂糖を吸い取るように、〈大記憶〉の中から過去の人格の中の養分を吸収するのである。死者が交信してくる時、その人格体は必ずしも完全な形をなしていない。》(同、第十六章)
地上的(物質的)要素を強く持った出来事の記憶は、大記憶(アカシック・レコード)には遺されているけれども、それを当人がずっと携えているのではない、ということです。霊媒にコンタクトを取って地上の人と会話する時は、自分であることを示すために、わざわざ記憶庫から具体的な記憶を取り戻してくるというのです。
つまりは、地上生活の具体的記憶から構成される思いや感情の記憶は、「魂としての私」とは別物だということです。
しかし、だからといって、「私」とは内容物を持たない「点」のようなものだ、ということにはならない。
そうした「点」のようなものであるなら、「私は自分のなしたことについて、死後も責任を取る」とか、「私は成長進化していく」ということが成立しなくなってしまうでしょう。「点」には責任を負わせられないし、「点」は成長進化しない。いや、そもそも点では「自己同一性」を保持しうるのかどうかも怪しいできないでしょう。
では、その「私」とは何か。
また最初の主題に戻ってしまいましたね。
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