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【人生の苦悩】(4) 他者という難題

2010-11-22 00:15:02 | 高森光季>人生の苦悩


 どこかで読んだ言葉にこんなのがあります。
 「人生なんて単純なものだ。複雑なのは人間関係に過ぎない。」
 まあ、その通りでしょう。人生というのは、食って、寝て、やって、「わあ」と喜ぶか
しゅんとするか。しかし人間関係は、ああじゃこうじゃもつれてややこしい。
好きであったのが嫌いになったり、善意で対しているつもりがとんでもない
あしらいを受けたり……
 今ふえている引き籠もりニートにしても、おそらく仕事がやだというより、仕事に
まつわる人間関係がうまくできない、耐えられない、そういうことなのでしょう。

 いやなやつ、合わないやつというのはいるものです。ニーチェの言葉に、
 「互いの善意など何になろう。つまるところ、相手のにおいが鼻持ちならないということが、
人と人とを隔てるのだ。」
というようなのがあります。
 世の中には、人をいやな気持ちにさせることを趣味にしているのではないかと思うような人も
いますけれども、どちらかというと、それよりも、「どうもそりが合わない」「肌合いが違う」
という感じの方が多いでしょう。

 「人を嫌ってはいけません」というお説教をする人がいるけれども、まあそれはお花畑的理想主義
であって、どだい無理な話ではないでしょうか。
 「合わない」「においが違う」というのはあるのであって、それは、消去できない自然な反応
で、「納豆がきらい」「サバがだめ」というのと同じ、一種の生理反応なのであります。
「納豆がきらいなどと言うのは反人道主義である」ということにはなりません。
 そういうものを無理して抑圧したりすると、むしろあばれる。むしろ、「ああ、自分はあの人を
嫌いなんだなあ、合わないんだなあ」と自覚して、その上で「いいところを見つけるよう努力して
何とか好意を持てるようにする」とか、それが無理なら「遠ざかる」か、「普通のニュートラル
な関係に努める」かすればよろしいでしょう。もちろん喧嘩してもかまわないわけだけれども、
あんまりいろんなところで喧嘩しまくっていると、逆に人生、生きにくくなるようで。

 人間のタイプの違いによる典型的な反発というものもありますね。
 外向タイプは内向タイプのことを、根暗でややこしい、剣呑な人間と見ることが多いでしょうし、
逆に内向タイプは外向タイプを、卑俗でがさつな人間とみることが多いでしょう。
 ある種の人々は、ある種の人々を「なんか偉そうにしていていやな感じ」と見るようですし、
逆の場合は、「なんかあいつらお盆のように底が浅くて、くだらん」と見るようです。

 中には、家族や夫婦でも、どういうわけか、反発し合うようなめぐりあわせもあったりする。
血を分けた間柄、見そめ合った間柄でも、そういうことが起こるのは不思議ですね。
 以前、ターミナル・ケア専門のあるお医者さんが言った言葉が強烈に記憶に残っています。
 「いろんな家族がいますけれども、中には、ああ、この人がいなかったらこの患者さんはもっと
幸福だったろうな、今ももっといい最後の日々を過ごせるだろうにな、と思ってしまうような
家族の人もいます。」
 まあ、そうやってぶつかり合うのも、宿縁というか、前世からのカルマの弁済というような
こともあるのかもしれませんけれども、「ああ、この人さえいなかったら」と思われるようには
なりたくないなあと思ってしまいますね。

 気の合う人々しかいなかったら、どれだけ人生は楽かと思います。同じような趣味を持ち、
似たような知的レベルで、人との接し方や表現の仕方が似ていたら、和気あいあいでどれだけ
楽しいか。
 けれども、この世で生きるということは、違った色合いの人々がそれぞれぶつかり合い、
摩擦を起こしながら生きていくのが宿命のようです。シルバー・バーチさんの言葉。
  「よく理解していただきたいのは、地上生活は霊界の生活と違って両極性(相対性)から
  成っていることです。霊界では同じ発達段階の者が同じ界層で生活しておりますが、
  地上ではさまざまな発達段階の者が混ざり合って生活しております。ということは、
  対照的なものを見たり体験したりする機会が得られるということです。そこに地上生活の
  存在理由があるのです。そうした両極の体験を通じて魂が真の自我に目覚めていくのです。
  苦痛を味わうということは、その反対である喜びを味わえるということです。それは鋼を
  鍛える過程、あるいは原鉱を砕いて黄金を磨き出す行程と同じです。」(霊訓10:187-8)

 マイヤーズ通信などでも言っていますが、霊界に行くと、同じような志向・レベルの魂が
集まっているから、非常に心地よい。しかしそれでは進歩がない。
 地上という「闇鍋」「ごった煮」で、合わない魂、いやな魂ともぶつかり合って生きていく
ことが、成長の道だということのようです。
 つらいこと、苦しいことを経験するのが魂の成長だ、と言うと、ちょっとマゾっぽく
聞こえてしまいますけれども、まあ、「艱難汝を玉にす」というのがやはり真理なんでしょう。
 いやな相手、苦しめてくる相手を前に、「ああ、この人は自分を成長させようとしてくれて
いるんだなあ」と心底思えれば、無用に腹立つこともなくなるはずです。それが無理でも
「ああ、こういう経験はこの世でしかできないんだなあ、向こうに行けば安らかで楽しい仲間に
出会えるんだなあ」と思えば、耐える力は出てくるのではないでしょうか。

 かくも「他者」は悩みの種ですけれども、じゃあ、「他者」がいない方が楽なのか。
 どうもこれもちょっと「?」のところがあります。
 人によって違うのかもしれませんが、まったく顔見知りがいなくなってしまった、つまり
他者との精神的関係がなくなってしまった人が、生きる気力をまったく失ってしまうことも
あるようです。
 他者との関係はまったくなしで、自分だけのことをやっていて生きていけるというのは、
案外難しいことなのかもしれません。
 宗教の修行なんかだと、人里離れたところで、じっと独りで籠もったりするわけですけど、
本当にまったく他者の存在、外的世界の存在を捨象したときに、果たして自己の生を支えられる
のか。修行の困難さはそのあたりにあるのかもしれません。
まあそこでも、自分のやっていることが、何らかの共同性につながっていると意識できれば
問題はないのかもしれません。たとえば、俺は真理の探究をしているのだ、神の国につながって
いるのだ、人類の進歩や救済に参与しているのだ、というような意識があれば、
具体的な他者や外的世界はなくても、「意味」「意義」を見いだせるのかもしれません。
しかし、そういった「幻想」なしに、まったく他者のいない生を生きるというのは、相当厳しい
人生になるような気がします。
 ぶつかったり反発し合ったりも、それはそれなりに人生を生きるエネルギーになっているのかも
しれません。殺し合ったりしなければ、喧嘩や悪口の言い合いも、それもまた人生の彩、という
くらいに気楽に考えた方が、へたに人間関係でくよくよするよりはいいような気もします。


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