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【人生の苦悩】(8) 静かさへの希求

2010-12-06 00:10:00 | 高森光季>人生の苦悩

 静かで、安らかな人生を送りたい。そう望む人は多いようです。

 なかなか難しいですね。まずは、経済の問題があります。おおかたの人は苦労してお金を稼いで食べていかなくてはならない。それではなかなか「静かで安らかな人生」は難しい。
 ごく少数の人は、何らかの理由で、お金を稼ぐ必要がない。しかし、だからと言って、悩みが何もないかというと、そうでもない。それどころか、とんでもない苦悩や心配を抱えている人もいる。

 たとえば、自室に引き籠もって、誰にも会わず、何の社会的行動もせずにいれば、静かで安らかな生活ができるかというと、そうでもありません。おそらく多くの人は、退屈、焦慮、不安、空虚感といったものにすぐに悩まされるでしょう。そういったものを超えて、瞑想や思索に打ち込むことができる人は、むしろ特殊かもしれません。

 こうしたことはしばしば言われていることでしょう。要するに、「静かで安らかな人生」というものは、外的な状況の問題ではなく、当人の心の問題なのだ、と。
 猛烈忙しい日々の中でも、苛酷・悲惨な環境の中でも、「静かで安らかな心」を持てる人もいる。それこそ、「大人」「賢人」だ、と。

 「悟った心境」というのはそういうものだと思い、仏教、特に禅にそういうものを求める日本人は多いようです。大企業の経営者や、一線で活躍するスポーツ選手が、「動揺しない心」を求めて坐禅に励む、ということは、昔からあったことです。「悟り」には行かなくても、いつも時間に追われる生活の人が、静かな自己省察の時間を持つことはいいことでしょう。

 禅や宗教的な修行だけでなく、心理学的なアプローチでそれを追求しようという道もあります。たとえば、「感情モニタリング」という技法は、自分が今感じていること(感覚・感情)を徹底的に意識化することで、揺れ動き乱れる心を整え直し、自分をしっかりと保つことができるようになるとされています。

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 「動じない心」というのは、二つのことから生まれるように思います。
 ① 自己把握・自己客観視
 ② 超越性への確信

 ①は、自分が今どんな思いや感情に囚われているかを知ること、それに巻き込まれていることを脱し、思い・感情や自己のあり方を、他者を見るように、冷静に捉えること、と言えます。
 たいていの場合、悩みや不安を抱えているというのは、その正体をしっかりと知ることもなく、「たいへんだ」「不安だ」「いやだ」と大騒ぎしているものです。悩みや不安の原因を客観的に把握できれば、それに対して取るべき合理的な態度もわかりますし、しばしば、それが大騒ぎするほどのものでないことを悟ったりします。
 もちろん、わかったからと言ってどうなるものでもない原因はあります。入学試験や入社試験に受からないのではないかという不安、会社が倒産しかかっていて職を失うのではないかという不安といったものは、それを客観的に分析・把握してもどうなるものでもありません。
 ただ、そうしたネガティブな要因に直面している自分というものを、客観的に見られるようになると、不安や動揺はだいぶ変わってきます。「○○におびえている自分はいるが、それを見ている自分がいる。そしておびえることも仕方ない、と受容できれば、おびえている自分とは別の自分が生まれて、おびえによる混乱が少なくなっていく」という、ちょっと不思議な心のプロセスが生まれてきます。
 つまり、実際の「熱い・寒い」だの「苦しい・恐い」だのを感じている自分の上に、それを冷静に認識し、正しくコントロールするもう一人の自分ができてくるようになる。そうすると、様々な刺激に反応しつつ(つまり無感になることではなく)、それに囚われない、「静かな心」ができていくということです。

 ②は、自分を超えた何か大切なものが存在するという確信を持つということです。
 宗教はしばしばこうした確信を与えます。様々な世俗のことを超えた「価値」(たとえば神の国の義)があると信じられれば、心はそれを見据えることができ、小さな波風に動揺することはなくなります。
 ただ、こうした確信は、時には「盲信」「狂信」となってしまうことがあるので、気をつけなければいけません。正信と盲信の違いは何かという話は、難しい問題ですから、今はパスします。
 こうした「超越性へのまなざし」というのは、①の自己客観視とも深くかかわってきます。自己をしっかりと観察し、客観化していければ、おのずと自己を超えたものへのまなざしが生まれてくる。そして、超越性への感覚が生まれると、自己客観視も透徹したものとなり、「動じない心」も育ってくる。
 何もこういう超越性は「神」とか「霊」とかでなくてもいいわけです。芸術家の場合は「美」でしょうし、哲学者の場合は「真理」……いや、今の哲学はそんなことはもう放棄したか。もっと漠然と、今自分がやっていることが、何か社会とか人類とかに対して、いささかでも意味を持つという感覚でもいいでしょう。

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 前の書き込みでA・マズローの「欲求の5つの階層」について触れた時に、マズローは晩年、その上に「自己超越」(self-transcendence)の段階を付加したと述べました。ここでそれについて、少し見てみます。
 怠慢してウィキペディアからのコピペですが、マズローによると、自己超越者(transcenders)の特徴は次のようなものになると言います。

  1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている
  2. 「在ること」(Being)のレベルにおいて生きている
  3. 統合された意識を持つ
  4. 落ち着いていて、瞑想的な認知をする
  5. 深い洞察を得た経験が、今までにある
  6. 他者の不幸に罪悪感を抱く
  7. 創造的である
  8. 謙虚である
  9. 聡明である
  10. 多視点的な思考ができる
  11. 外見は普通である(very normal on the outside)

 「Beingの世界」というのはよくわかりませんが、要するに「普通の現実」、実在だの本質だの空だのとは異なる、「ここにある」「実存の」世界ということでしょうか。
 賢者は、この世俗の世界をよく知っているし、また変にぶっ飛ぶことなくこの世俗の世界を生きている、ということでしょう。
 「統合された意識」とか「瞑想的な認知」とか「深い洞察」とか「多視点的思考」といった言葉が並べられていますが、これは、単線的思考や固定視点でなく、様々に領域や次元の異なる知を総合的・複合的に捉え、自己を超えた高みから把握するということでしょう。こういったことができるためには「自己客観視」と「超越性へのまなざし」が不可欠なわけです。
 「外見は普通」は笑いますね。自己客観視でき、超越的な価値を知っている人は、奇をてらった外見で自己を誇示したりはしないでしょうし、自己の至らなさを知って謙遜するでしょう。
 ともあれ、こういった人たちは、ある意味で「静かで安らかな心」を持った人たちだと言えるでしょう。

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 けれども、「静かで安らかな心」というのは、無関心・無感動・無感知の状態ではないはずです。そこには苦悩があり、だから成長もある。自己を超越した視点を持つということは、無の世界に行くことではなく、自己を深く知り、「目前の恐れや不安」に巻き込まれることなく、自己の道を歩くことです。自らのなすべき課題を知り、それに伴う苦労を厭うことなく進むことが、真の自己超越の道なのでしょう。
 そんなことができる人は多くはないでしょうが、ともあれ、「これは自分が損してでもやらなければ」ということを見いだすのは、重要なことかもしれません。自分の損得を超えた見方を持っているか。それは大きな分かれ目だと思います。

 もう一つ言えば、「静かで安らかな心」は、最終目的ではありません。それは自分の人生をより統御された、豊かな状態にする手段であり、目的は「霊的な成長」です。
 「静かで安らかな心」を、究極の目標だと捉えたり、宗教の目的だと考えたりするのは、一面的です。それはへたをすればエゴになりかねません。
 「静かで安らかな心」もそれを無理に求めようとすると、返って苦しみのもとになってしまうかもしれません。

 ああじゃこうじゃ言いましたが、シルバー・バーチやホワイト・イーグルの霊訓などを繰り返し読んでいれば、だんだんと静かで安らかな心の部分が少しずつでもできてくるはずです。
 お金も手間もそれほどかからない、実にいい方法だと思うのですが(笑い)。


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