スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

仏教に対する切実な憤激

2011-08-22 00:21:17 | 高森光季>仏教論・その他

 私がこれまで仏教に対して経験してきた辟易する点は、曖昧さです。
 「仏教ってAでしょ?」「さとりってBということ?」「仏様ってCなんじゃないですか?」という問いに、だいたい「そうではない」と答えられることが多い。「じゃあ、どういうことですか」と尋ねると、教典を引用するか、ジャーゴンだらけの難解な説明をされるか、あるいはAとも言えるけど、非Aとも言える、とか。
 で、一番腹が立った(失礼)なのは、「死ぬとどうなるのですか?」「霊魂はあるのですか?」という問いに対する「沈黙」でした。これは実際に何人かの僧侶が集まった席での話です。「え? 皆さん、葬式をなされているんじゃないですか?」と言いたくなりましたが訳あってやめました。

 仏教は定式を説かない、それがとらわれになるからだ、という理屈があります。確かに固定化された信条は宗教の堕落を招くことが多い。しかし、一応の定義、見解というものが(世俗諦であっても)あってしかるべきではないだろうかと思えるわけです。それぞれが、それぞれの情況に応じて答える、というのだと、間違いがあってもそれを排除できなくなる。本質はかなり違う見解が仏教だと名乗っても、それを否定できなくなる。実際、オウム真理教が自らを仏教だと名乗った時、仏教界はほぼ沈黙して無視したわけです。(あ、私が仏教徒を自称することもできるのかな?w)

 前にも引きましたが、インド哲学・仏教学の大家・中村元博士はこう言います。

 《第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって伝えるにいたったのである。
 第二に、特定の教義がないということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって伝えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信条や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。……
 第三に、人間の理法というものは固定したものではなく、具体的な生きた人間に即して展開するものであるということを認める。最初期の仏教がそのように表明しているのではないが、変化や発展を許したその立場がこのような解釈を可能ならしめる。後世になって仏教のうちに多種多様な思想の成立した理由を、われわれはここに見出すのである。》(『ゴータマ・ブッダⅠ』)

 碩学・権威が仏教を総体的に見て発言すると、こういうことしか言えないのかもしれません。しかし、どう見てもこれは「鵺」であり、無内容であり、もっと言えば理性の放棄です。また、「既成の信条や教理にとらわれることなく」というのを仏教者に当てはめることができるのでしょうか。

 確かに仏教は長い歴史を持ち、教義を固定しなかったために無数の言説・実践を抱え込んでいます。まあ、厖大な引き出しがあるということでしょう。しかし、薬剤師のように、「はい、この症状にはこの薬」とやることが、宗教なのでしょうか。そんなふうに宗教的探究ができるのでしょうか。
 それとも、はっきりとした言い方をすることで、論争・論議に巻き込まれることを忌避しているのでしょうか。お互いの信条・思想は尊重しましょうということと、何が真実に近いかを議論することは、違うことだと思いますけれども。

      *      *      *

 現代は唯物論の時代です。物しかない。私たちの心は脳の「随伴現象」だ。スピリチュアリストが戦っているのは、これに対してです。で、仏教に問うと、「いや、心も物もないのです」と言う。そして唯物論には戦わない。「唯物論なんていう考えは持っていません」と言いつつ、「じゃあ、霊魂と肉体は別ですか」と聞くと、「そういうふうに捉えることはできない」と言う。「死者の魂はあるのですか」と聞くと、「それをあると言うことはできない」と言う。そのくせ葬式をやって死者の霊に戒を授けたり、お経を読んで説得したりしている(あるいは、そのふりをしている)。これを鵺と言うわけです。
 いや、前にも書きましたが、まじで、「無我です、空です」という人には虎をけしかけたい気持ちです(笑い)。「これも空ですか」と。

 不思議でならないのは、開祖ブッダが、「弟子のうちの誰々は、解脱を体得したからもう生まれ変わってこない。誰々はもう一度だけ生まれ変わってくる。誰々は間違いなくそのうちさとる」と言っているし、原始仏教でも、「さとるためには最低でも三回の生まれ変わりが必要とされ、最悪の場合は五劫年かかる」と言われているのに、なぜ輪廻はないという思想になるのでしょうか。
 (ところで、ブッダが在家信者を認めたのは、「今生である程度やっておけば、次回、次々回できっとうまくできるよ」という配慮からだったのではないでしょうか。「一回切り」だったら、全員になんとしてでも出家・苦行を求めたのではないでしょうか。つまり、輪廻超脱は何回も転生しての積み上げの上に可能なのであって、その段階にない者が一発で達成というものではないとブッダはわかっていた。後半生の現実主義は、そういう輪廻超脱の困難さをわかっていたがゆえの姿勢だったのではないか。もちろん、そのスピードを速めることは可能だと思ったがゆえに、求道を勧めた。私にはそう思えます。そして、原始仏教が「さとりには最低三世、へたをすれば数億年かかる」と主張したのは、ブッダの基本思想をきっちり受け継いでいたからではないでしょうか。もっとも、数億年などという表現は脅しでしかないので、感心しませんけれども。)
 また、日本仏教の祖師たちも、六道輪廻や地獄墜ちを前提に教理を展開しているのに、どうしてその部分は削ってしまうのでしょうか。「仏になる」というのを「何事にも動じない心」などと矮小化するのは正しいのでしょうか。祖師たちは明らかに仏や菩薩を「私たちに慈悲を垂れてくださる大いなる存在」と言っているのに、そういう存在の実在を否定するのでしょうか。
 悪意をもって見れば、近代になって、「科学主義唯物論から睨まれたくない」「輪廻や霊的存在などと言って迷信扱いされたくない」と思ったからではないでしょうか。そして仏教の一要素であった「反実在論哲学」に飛びついて、仏教全体を救おうとした。これなら輪廻や魂の実在を問題にせず、仏教が語れる、と。しかし、それまでやっていた、輪廻や魂の実在を前提にした営みである葬儀や呪術は、お金になるから手放せない。それは民衆のニーズがあるし、それをやめたら教団がたち立ち行かなくなる。その間で分裂しているから、「死ぬとどうなるのですか?」という問いに沈黙をもって答えざるを得ない。もし本当にそうだとしたら、それは卑劣でしょう。

 「そういった見方は偏っている、ブッダがもっぱらめざしたのは、現実に苦しむ人間の苦しみを軽くすることだった」「ブッダの偉大さは苦しみを解く叡智を、それぞれの人のレベルに合わせて教えたことだった」と言う人も多いと思います。私はそういうヒューマニスティックで善意あふれる見方はどうしても取れません。イエスは「よいことを言うよい人」ではありませんでした。ブッダもまた、そうだと思います。「よいことを言うよい人」の後に、世を捨て、厖大な厳しい戒律に従い、ひたすらに求道する何千人の集団ができるでしょうか。人の悩みを軽くする心理カウンセラーのまわりに、あるいは論戦で絶対負けない哲学者のまわりに、ああいう運動が生まれるでしょうか。

 「ブッダは魂の問題などに関して『無記』と言ったではないか」という意見は非常に多く聞きます。しかし、「そういう問題に関しては答えない」「そういう問題をあれこれ論じるな」ということと、「そんなものはない」ということは違います。ないと考えているなら「ない」と言えばいいだけです。「無記」発言には、おそらく、当時の宗教情況が大きく影響しているのではないでしょうか。

 宗教、というか爾後大きな勢力になった宗教は、例外なく「既成概念の破壊」をしています。イエスのめざしたものは、外側から見れば立派にユダヤ教の破壊でした。またヘレニズム宗教文化の破壊でした(もっともキリスト教になってその破壊が撤回された部分もありますが)。ブッダの宗教も、やはり破壊であったからこそ、大きなインパクトを持ち、多くの人を惹き付けたのでしょう。(ついでに繰り返し言っておけば、専修念仏宗――現在の浄土宗・浄土真宗――は仏教の破壊でした。修行も戒も叡智も不要としたのですから。)

 《釈迦の教えはバラモン教の階級制度や祭式至上主義を脅かすものであった。彼の教団では僧の順位は出身階級に関係なく、出家後の年数で決められた。真のバラモンとは生れによるのではなく、行いによるのであった。そして不殺生の教義はバラモン教の犠牲式を否定し、出家主義は祖霊祭をつかさどる子孫の確保を困難ならしめた。……釈迦の教義は人の心の悩みを解決することをめざした。心の悩みの解決は祭式のような外形的行為によっては達成されない。各人が自己の内面から行う変革によらねばならない。そのための基本的な出発点となるのが四諦・八正道や十二因縁の教義である。これは、一言でいえば、苦悩のよってきたる淵源を追求し、その淵源(おそらく〈我あり〉との妄執)を取り除くことを教えている。これは当時にあっては驚くほど科学的・合理的な態度である。しかも、自己存在の問題について、現代の深層心理学を先取りするような先見性を示している。これは仏教発展の背後に都市と商人階級という進んだ社会があった事実を反映しているかもしれない。》(CD版平凡社世界大百科事典・定方 晟)

 「心の悩み」とか「我ありとの妄執」といった意見には賛同しかねますが、ブッダの宗教がバラモン教の破壊であったことは確かでしょう。
 古代インドの宗教観では、霊的存在はうじゃうじゃいたでしょうし、その交渉術に関してもありとあらゆるものがあったでしょう。ブッダはそれを不毛なものとして見ていた。新たな「叡智獲得=涅槃」の道を探る必要を感じていた。そして「(実体視による)執着の断滅」という主題にたどり着いた。それは霊的存在や霊界に頼るのではない、新たな方法だった。だからもうそういう問題には関わらないと宣言した。関わることで元の木阿弥になることを避けようとした。だから「無記」と言った。しかし、霊的存在や霊魂や輪廻がないと捉えたわけではない。特に輪廻は「涅槃=輪廻超脱」という主題の前提だった。なぜ執着を断滅するか、それは輪廻を超脱するためだから。――これは詭弁でしょうか。
 ある言説の意味は、周囲の状況によって当然変わってきます。霊的存在だらけのところで「そういうものはほうっておけ」ということと、唯物論の中でそれを言うのは、意義が全然違うということもあるのではないでしょうか。濃密な古代インド宗教世界の中で「不問」と言うのは勇気がいるでしょうが、唯物論社会の中でそう言っても「いい子だね」と褒められるだけでしょう。
 もちろん、「無記」を忠実に守って、一切の霊的存在・霊的世界について無視するという態度を貫くことも、正しいことかもしれません。だったら大乗仏教は全否定して、葬儀・加持祈祷もやめるのがよろしいでしょう。厳しい戒と出家主義による求道者集団を貫くのがよろしいでしょう。「無記」というのは逆に言えばそれだけの厳しい決意が籠もっている言葉だと思います。(ついでに言えば、原始仏教を讃美する人が、三百五十戒を生きるつもりがあるのでしょうか。)
 付け加えれば、「法と自分を頼りにして進め」とか「既成の信条や教理にとらわれることなく探究せよ」というのであれば、「教義ではこうなっています」「経典にはこう書かれています」といった答え方も、おやめになったらいかがでしょう。「祖師に遭うては祖師を殺し、仏に遭うては仏を殺し、始めて解脱を得ん」――これは禅僧特有の逆説表現などではないような気がしますが。

      *      *      *

 だんだんしつこい繰り返しになってきたかもしれません。
 でも、もう一つ言っておきたいことがあります。
 それは、一部の宗教や思想は、霊的存在・霊的世界に関して、非常にそれに近いものを立てることで、逆に霊的存在・霊的世界そのものからは「目をはずさせる」役割を担うことがあります。
 私はユング思想はそうだと思っていますし、トランスパーソナル心理学ないしウィルバーの思想などもそうだと思っています。そこでは、この世ならぬキラキラした概念が提出されます。集合無意識、元型、ハイヤー・セルフ、宇宙意識……それは霊的な主題であるように見えながら、スピリチュアリストから言わせると、霊的存在・霊的世界そのものの「代わり」となり、霊魂の死後存続や永続的成長、階層的な霊界構造やそこにいる霊的存在といったものを考えなくさせるわけです。
 仏教の一部も、そういうものになってはしないか、と思います。「無記」と言ったブッダにその傾向はすでにあるわけですが、唯識や中観の煩瑣哲学になるとその傾向はもっと強くなる。それに対して、霊界・霊的存在を問題にしようと、大乗仏教の実践はプロテストし、それによって仏教は一定の民衆的な拡がりを持った。阿弥陀仏や観音菩薩は霊界の霊的存在そのものでしょう。しかし、近代になって、再び仏教はそれらを否定しようとしている。「体験としてのさとり」や「反実体論哲学」で、霊界・霊的存在へのまなざしを塞ごうとしている。
 そこにはこの2000年あまりを通した、巨大な「力」が働いているのかもしれません。人間の目を、霊的主題からそらそうとする目に見えない力が(この問題については笠原敏男編『サイの戦場』、同著『隠された心の力』などを参照。また本ブログの「人類の進化(3)」も参照)。(キリスト教も個々人による霊的交渉を弾圧することでこの力に加担してきました。スピリチュアリストと言えども完全にその「力」から自由かというと、いささか疑問はあります。自分自身に関しても。)
 もしそうであるなら、スピリチュアリストが近代仏教に対して批判をするのは、当然のことではないでしょうか。

      *      *      *

 こういう批判をしても、仏教は歯牙にも掛けないかもしれません。アヤシイ外道が何か言っている、くらいにしか受け取られないでしょう(笑い)。
 それなら、最後に、いくつかの質問を投げかけておきましょう。スピリチュアリストのみならず、ごく普通の人たちが問いかける問いです。どうかこれに「教義では」とか業界用語の難解解説ではなく、一般人にわかるように答えてもらえたらなあと思います。(皆さんもお坊さんにお話しする機会があったらぜひ聞いてみてください。)

 ・人間は死んだらどうなるのでしょう。
 ・さとりって何でしょう。何のためにさとるのでしょう。さとるとどういういいことがあるのでしょう。さとったかどうかはどうやってわかるのでしょう。誰でも(在家でも)さとれるのでしょうか。
 ・仏様(如来)とか菩薩とかは、いるのでしょうか。
 ・地獄や極楽はあるのでしょうか。
 ・お葬式はした方がいいのでしょうか。そうであるなら、なぜでしょうか。
 ・お経って信憑性があるのでしょうか。
 ・仏教を信じると何が保証されるのでしょうか。
 ・(おまけ)上記の問いに対する答えに、信憑性を保証する事実・証拠はあるのでしょうか。


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4 コメント

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今来さまへ (高森光季)
2011-08-25 21:58:23
お施餓鬼に猫が参加するお寺というのは、いいですねえ。
どうも、猫や犬は、全員ではないにしても、見えるみたいですね。
猫や犬にまつわる不思議な話は、2ちゃんねるに掃いて捨てるほどあります。なんか、人間だけが鈍感になったのでしょうか。

確かに、餓鬼というのは、“この世にいる”のかもしれませんね。難しいところですけれども……
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慈恵さまへ (高森光季)
2011-08-25 21:52:29
おや、こんにちは。ご無沙汰してます。
コメントありがとうございます。

しかし、あまりに“真っ当”なご見解で、慈恵さんのお言葉とはちょっと思えないくらいです(笑い、いや失礼)。
まったく未知の方でもないので、言いにくい面もありますが、逆にだからこそ言える、言うべきみたいなところもありますので、いくつかご質問をお返ししておきます。別に論争してどうこうということではありません、念のため。ですからご返答はいただかなくても結構です。

>人間は、死んだら極楽浄土に往生して仏様になるそうです。(往相回向といいます)。仏様になったら、今度は還相回向のお働きでこの娑婆世界に帰ってきて、衆生済度のお仕事をされるそうです。

 「阿弥陀仏を信じたら」という条件節が抜けていませんか? 娑婆世界に戻るのは、人身を持ってでしょうか。そうすると、阿弥陀仏を信じて亡くなった方は長い歴史の中でたくさんいますが、その人たちはこの世に戻ってこられて衆生済度のお仕事をされているということでしょうか。それは普通の輪廻の生まれ変わりでこの世に戻ってきた人とどう違うのでしょうか。

>さとりとは、ああ、これまでの自分は迷っていたと気づくことだと、ある先生がおっしゃっていました。何のためにさとるのかは、自分が迷った愚かな生き方をしないためではないでしょうか。さとると、心がとらわれから離れて自由になると思います。

親鸞さんの発言では、愚かな生き方をしていても、迷っていても、弥陀を信じれば往生・成仏するのではないでしょうか。もちろん愚かな迷いの生き方をやめられるのはいいことでしょうが、浄土教には「さとり」は不要(さとれないから慈悲をたのむ)なのではないでしょうか。

>阿弥陀如来は色も形もない存在だそうです。永遠の命を持ち、無限の光を放つ存在が本当の阿弥陀如来のお姿といわれます。

仏の中にも位の高低のようなものがあるのでしょうか。信者が往生してなる「仏」と阿弥陀仏はどういう関係なのでしょうか。位が違うのでしょうか。

>地獄や極楽は、その人の心の中にあると思います。受験地獄とか通勤地獄など、その人の心が作りだす境遇だと思います。

あれ? 極楽というのは浄土とは違うということですか? 浄土はある。しかし地獄はない、というふうに理解してよろしいでしょうか。それとも浄土も心の中にあって、人は死ぬとその心の中の浄土に行くということなのでしょうか。

>お葬式は、生きている人の心のけじめをつけるためにも、やはりした方がよいのではと思います。親鸞聖人が、自分が死んだら賀茂川の魚の餌にせよ、といわれた話は、御存知のように有名ですが、残された遺族や知人が故人を偲ぶ意味で、やはり何らかの儀式をした方がよいのではと私は思います。

あくまでも生きている人たちのためにあるということですね。法名・墓も同様ということでよろしいでしょうか。お経や法名にお金を払うのも、生きている人たちの自由な選択であって、宗教者の側に責任・義務はないということでしょうか。

>お経やお念仏は、呪文だと思われても仕方のない部分はあるかもしれませんね。意味のない言葉の羅列を聞くことに何の意味があるのかと思われることと思いますが、やはり古来称えられてきたお経は、それなりの意味をもった言葉の羅列です。

「呪文だ」とも「意味のない言葉」だとも言っていません(笑い)。これ、喧嘩売っているのでしょうか(笑い)。たとえば「法蔵菩薩は阿弥陀仏になった」という説は、信憑性というものがあるのでしょうかということです。

>仏教を信じると、というか、真宗の教えを信じる人は、死後への恐怖心が少ないといわれます。死んだら極楽浄土へ往生できるからです。

「真宗の教えを信じる」というのは、より正確に言えば、「弥陀の第十八願を信じる」ではないでしょうか。大切なのは弥陀の慈悲を信じることであって、「教え」を信じることではない、むしろ「教え」は不要というのが法然・親鸞の主張の中核だと思いますが、違いますでしょうか(私としてはなぜ真宗に教学があるのか実は不思議です)。

>生きている人は、往生が定まるといわれます。(現生正定聚といいます)

「信が定まる」だけで成仏がもう決まったということですね(「諸仏等同位」はもう言わないのでしょうか)。信が定まった後に、罪や悪を犯すことはないのでしょうか。また、信が定まればそれまでの罪や悪(前世のものも含む)は帳消しになるのでしょうか。この考えは、私は仏教の教えに矛盾すると思いますし、また道徳を破壊するものになると思います(過去エントリの「浄土の話(6)宗教の破壊」http://blog.goo.ne.jp/tslabo/e/bc3745b781a4abc2ea12cb3ac2818795 参照。)

>信憑性を保証する事実や証拠は、いわゆる妙好人といわれる人々の生き方を見ると自然になんとなくわかるのでは、と思います。

残念ながら私には「自然になんとなくわかる」のは無理なようです(笑い)。妙好人の信仰生活を私は素晴らしものだと感じますが、信憑性とか証拠といった問題レベルとはまったく別の次元になると思います。妙好人を範とするなら、信憑性とか証拠といった問題は無視するのがよろしいかと思います。懐疑精神や知性・理性をあたうる限り捨てて、信心と感謝に生きるのが妙好人ではないかと私には思えます。(ついでにいささか余談の暴論を言えば、信仰と感謝に生きる生は、実はその人が属している宗教にはあまり関係しないものであって、非難だらけの新宗教カルトにも、そうした生はあるのではないかと思っています。)もちろん、そうした生を私は否定するつもりはまったくありません。

こうした事々に関しては、このカテゴリの過去エントリにいろいろ書いてきましたので、よろしければご高覧ください。ご批判や間違いのご指摘などもありがたいです。
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餓鬼 (今来学人)
2011-08-25 21:09:37
はじめまして。実はわたしも地獄などは観念的なものと思っていたのです。人の心のありようだと(よく喩えにある人によっては膿で満ちた河か、あるいは透明で清浄な河と見てしまうように)。UFO、幽霊のように変性意識で解決される方もいらっしゃいますが、そうとも思えないんです。

毎晩、私ら職員を含め行者は職場(つまり寺)で夕暮から夜にかけて施餓鬼を行いますが、その時間になると職場で飼っている(というか住み着いている)猫がどこからともなく急に現れて、いっしょについてきて施餓鬼する方向をじーっと見てるんですよ。終るとまたどっかにいっちゃうんですが(笑。どーも我々の眼に捉えることが出来ない何かがいるようで面白く見てます。その意味で人間界、畜生界、それと餓鬼界もこの今すんでいる「この」世界に存在しているような気がして仕方がないんです(笑。

真言を除くお経はその意味内容を説明する責任が我々にあるように思います。容易に一般の方には説明しがたい内容のものもありますが(真言宗だと理趣経など)、檀信徒とともに読経するお経はその対象となるかと。
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Unknown (慈慧)
2011-08-24 15:37:45
こんにちは。
浄土真宗のお坊さんのはしくれです(笑)。
私の独断と偏見?のお答えかもしれませんが…。
また、他のお坊さん方は、特にお他宗の方は
また違うお答えをされると
思いますが…。


人間は、死んだら極楽浄土に往生して
仏様になるそうです。(往相回向といいます)
仏様になったら、今度は還相回向のお働きで
この娑婆世界に帰ってきて、
衆生済度のお仕事をされるそうです。

さとりとは、ああ、これまでの自分は
迷っていたと気づくことだと、
ある先生がおっしゃっていました。

何のためにさとるのかは、
自分が迷った愚かな生き方を
しないためではないでしょうか。

さとると、心がとらわれから離れて
自由になると思います。

さとったかどうかは、それまでの自分は迷っていたと
自分が気づくことによってわかるのではないでしょうか。
顔つき、目つきや表情、言動などから、
ああ、この人はさとったとわかる人もいるようです。

一応、誰でもさとれる可能性はあると思います。
(ご存知のように一切衆生悉有仏性といわれます)
でも、「仏の三不能」といわれるように、
100%全てではないかもしれません。

仏様(如来)とか菩薩は、私はいると思いますが、
それが姿形のあるものかどうかはわかりません。
阿弥陀如来は色も形もない存在だそうです。
永遠の命を持ち、無限の光を放つ存在が
本当の阿弥陀如来のお姿といわれます。
真宗の七高僧の中にも、龍樹菩薩や天親菩薩など、
過去に実在の人物で菩薩と呼ばれた人たちがいます。
仏様のような人、菩薩のような人、なら
いるのではと思います。
法然上人は親鸞聖人にとって、勢至菩薩の化身と
されたそうです。

地獄や極楽は、その人の心の中にあると思います。
受験地獄とか通勤地獄など、その人の心が
作りだす境遇だと思います。

お葬式は、生きている人の心のけじめをつけるためにも、
やはりした方がよいのではと思います。
親鸞聖人が、自分が死んだら賀茂川の魚の餌に
せよ、といわれた話は、御存知のように有名ですが、
残された遺族や知人が故人を偲ぶ意味で、
やはり何らかの儀式をした方がよいのではと
私は思います。

お経やお念仏は、呪文だと思われても
仕方のない部分はあるかもしれませんね。
意味のない言葉の羅列を聞くことに
何の意味があるのかと思われることと思いますが、
やはり古来称えられてきたお経は、
それなりの意味をもった言葉の羅列です。

仏教を信じると、というか、
真宗の教えを信じる人は、
死後への恐怖心が少ないといわれます。
死んだら極楽浄土へ往生できるからです。
生きている人は、往生が定まるといわれます。
(現生正定聚といいます)
そうしたところからくる安心感が
生まれてくると思います。
また、自分の自我執着心を認め、
自分の悪を見つめるところから、
謙虚な生き方につながるのではと思います。

信憑性を保証する事実や証拠は、
いわゆる妙好人といわれる人々の生き方を見ると
自然になんとなくわかるのでは、と思います。

つまらないお答えですみません。
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