スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

宗教批判

2011-08-21 01:07:01 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学

 仏教についていくつか批判(言い掛かり?w)のようなものを書いてきました。こちらの勉強が不十分なこともあって、そろそろやめておこうと思いましたが、どうも私の内で、あるいはどこか上で、収まりきらないものがあるようで、もう少しだけ続けるかもしれません。

 これまで、イエス論とかブッダ論(論にはなっていないか)の素描をして、キリスト教や仏教に対してある種批判めいたことを書いてきましたが、それは単に私が喧嘩好きということではなくて(まあ生温い宥和主義は嫌いですが)、スピリチュアリズムの視点から、あるいは人類(大きく出たなあ)と「霊的世界」との交渉史という視点から、その偏りと弊害をどうしても見てしまうからです。
 たとえばキリスト教は、「唯一・独占」とか「罪・贖罪儀式」とか「終末論」とか「再生否定」といった点において(ほかにもたくさんあるでしょう)、霊的世界へのまなざしを歪めてきた。それらの「思想」は、ある時代のある人々にとっては意義あるものだったかもしれませんが、現代という時代はまた違った情況にあるわけで、それをそのまま固守するのは愚かだと思います。
 そしてこのことは仏教についても同じでしょう。
 そういう批判をすることは、それを信仰している人を敵に回し、スピリチュアリズム(というか広く霊魂研究)に無用な反感を招くだけだと言われるかもしれません。しかし、スピリチュアリズム自体に、宗教批判は含まれています。
 ステイントン・モーゼズとキリスト教をめぐって激越な論争を繰り広げたインペレーター霊は、次のように言っています。

 《真理は常に時代の要請と、その時代の人間の受け入れ能力に応じたものが授けられる。一見矛盾するかに映ずるのは真理そのものではなく、人間の心に原因がある。人間は単純素朴では満足せず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。時の経過と共にいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなってしまう。矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなり果てる。やがてまた新しき啓示が与えられる。が、その時はもはやそれをそのまま当てはめる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り崩さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾はない。が、矛盾する如く思わせる古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を顕さねばならぬ。人間は己に宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。》(近藤千雄訳『霊訓』第1節)

 「神の啓示」たる真理が「この世的なものとなり果て」堕落するという見方には、認めない人も多いでしょう。しかし、当初の「素晴らしい思想」が、追随者たちによる「暴走的な展開」(組織化や権威化なども含めて)によって歪められ、当初の革新性を失うということは、認める人が多いのではないでしょうか。だとすれば、「何やら複雑なるもの」「勝手な推論と思惑」をそぎ落として、本来の「啓示」を見ようとする作業は必要なものでしょう。

 シルバー・バーチ霊の言葉を引きましょうか。

 《それぞれの教祖が霊覚でもってその時代の民衆の成長、発展、進化、慣習、鍛錬、理解力等にふさわしいビジョン、インスピレーション、悟りを手にしました。それがさらに受け入れる用意のある者に受け継がれていきました。それは一部とはいえ真理であることに間違いはありませんでした。ところが残念なことに、そのささやかな真理が(人間的夾雑物の下に)埋もれてしまいました。真理のもつ純粋な美しさを留めることができなかったのです。まわりに世俗的信仰、神学的概念、宗教的慣習、伝承的習俗などが付加されて、玉石混交の状態となってしまいました。やがて神性が完全に影をひそめてしまいました。》(近藤千雄訳『シルバー・バーチの霊訓』第5巻、60頁)

 《スピリチュアリズムの活動は、放棄された信仰の瓦礫の中にあって人類が懐疑と猜疑のために全てを拒絶してしまうことなく、実と殻、事実と神話とを選り分けて、どの宗教にも包蔵されていながら幼稚な人間的想像の産物の下に埋もれてきた霊的真理に目を向けるように導くという、大きな使命の一環なのです。》(同第12巻、23頁)

 《地上の人間は、古くから伝えられたものだからという、ただそれだけのことで、古い教えにこだわりすぎます。真理と時代とは必ずしも手を取り合って進行するものではありません。子供の時に教え込まれた大切な信仰を棄てるのが難しいものであることは私もよく知っております。しかし、理性が拒否するものは、いかにいわれのあるものであっても棄て去ることができて初めて魂は自由になれるのです。》(同、77頁)

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 もう一つ、宗教批判をすることには、「向こうへ行った時」の問題として、意味があるようです。それは、あまりに強固で融通性のない信仰が、死後の魂の成長を妨げることがあるということへの警告です。

 シルバー・バーチ霊は言います。

 《現実は、大多数の人間が身につけるべきものをロクに身につけようともせずに地上を素通りしております。ですから、イザこちらの世界へ来た時は何の備えも出来ていないか、さもなければ、一から学び直さなければならないほど誤った思想・信仰によってぎゅうぎゅう詰めになっております。》(霊訓1 P162)

 《(最後の審判の日を待つ霊や死んだことを認めようとしない霊について――)そのような霊が私たちにとって大きな悩みのタネの一つなのです。そういう人たちはその審判の日をただ待つばかりで、その信仰に変化が生じるまでは手の施しようがありません。死んだら大天使ガブリエルのラッパが聞こえるまで待つのだという思念体を事実上地上の全生涯を通じて形成してきております。その思念体をみずから破壊しないかぎり、それが一つの思想的牢獄となって魂を拘留し続けます。死んだことを認めようとしない人も同じです。みずからその事実を認めないかぎり、私たちもどうしようもないのです。》(霊訓5 P46-8)

 マイヤーズ霊は、もう少し恐ろしい言い方をしています。

 《第四界において……ある鋳型にはまった類魂の一局面に捉えられてしまうと、その魂は永くその鋳型から抜け出られなくなるからである。/そうした例としてある特殊な世界にはまりこむ場合をあげたい。たとえば狂信的な仏教徒やキリスト教徒たちはこうした地上時代の信念の溝の中に落ち込んでいる。それというのも、そのグループの他の類魂たちも同じような観念の鎖に縛られてしまっているからである。そのためにその魂たちは進歩せず、キリスト教徒や仏教徒をつくりあげている一思想ないし一記憶の世界に留まり続ける。まるでタコの足にしっかり捕えられてしまったようである。タコとはすなわち、死後の世界について彼らの持つ地上的観念、つまり地上でつくりあげた世界観にほかならないのである。/こうした状態が進歩を妨げることはお分かりであろう。それは他の比喩をもって言えば、知的な「さなぎ」の中に住んで過去の地上的観念に生きることになるからである。旅する魂がそれらの観念を自分の意志で検討できるようになることは必要なことであるが、それに捕われたり閉じこめられたりしないことが大切である。》(『不滅への道』第6章)

 《彼を再生の運命を逃れた正真正銘の仏教徒であると仮定してみよう。地上にあっては彼は通常人の罪は一つも犯さなかったが、未来のことに心を使い過ぎた。さらに悪いことに彼は未来永劫までを考え詰めてしまった。従って来世においては彼は孤独に住み、地上生活のあいだ彼を閉じ込めていたサナギの中に永遠に住む傾向がある。停滞し、植物的満足ともいうべき状態にとどまるのである。おそらく仏教天国〔涅槃〕に到達したとの幻想に執着し続けよう。にもかかわらず彼の地上的世界観は第三〔幻想界〕、第四〔形相界〕の意識界へ進んでもなお彼を制約し続けるほどであろう。彼は神聖なことどもについての瞑想を続けるかもしれないが、神や大宇宙を真に認識するに至らないであろう。彼は鈍く消極的になり、あたかも夢から覚めず眠り続ける人のようである。》(『人間個性を超えて』第14章)

 (ただし、インペレーター霊はこの点については楽観的な言い方をしています。「狂気の如き熱意をもって生涯守り抜いた教義も、肉体より解放されれば一言の不平を言う間もなくあっさりと打ち棄てられる。生涯抱き続けた天国への夢想も、霊界の光輝に圧倒されて雲散する」『霊訓』第19節。大きなスパンで見ればそうなのかもしれませんが、「本性は魔法の杖にて一度に変えるというわけには行かぬものなのである。性癖というものは徐々に改められ、一歩一歩向上するものなのである」ともありますから、本性となった教義信仰は、解放に時間が掛かるでしょう。)

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 スピリチュアリズムも宗教であって、同じ穴の狢ではないか、と言われるかもしれません。
 弁解に聞こえるかもしれませんが、スピリチュアリズムは基本的に「霊界情報」「霊に関する知識」であって、絶対性を主張するものではありません。スピリチュアリズムが唯一「信条」とするところは、「霊魂は死を超えて成長の道を歩む」というものだけです。スピリチュアリズムはそれを事実として知らしめようとした運動であり、その一点だけが、譲れないものとして――いわば基本信条として――あるわけです。その他の問題、たとえば生まれ変わりの仕組みとか、霊界の多層構造とか、類魂問題とか、霊界と現界の交渉方法とかは、あくまで情報(ただし現地にいる人の情報)であって、参考にすべきものではあっても、絶対的信条にすべきものではありません。異なる、信憑性のある情報が出てきたら、それは充分検討すべきだと思います。
 また、スピリチュアリズムが宗教批判をする際も、それは「信条間の戦争」ではありません。「スピリチュアリズムが集めた事実・知識・情報からすると、これは違うのではなかろうか」「その信条は理性に受け入れがたい」「信条体系に矛盾があるではないか」といった批判です。やみくもに「こちらの信仰の方が正しい」と言っているわけではありません。

 「人の信仰をハンマーでぶち壊してはいけません」とシルバー・バーチ霊は言っています(霊訓11巻、122頁)。もちろん、人のところへ出向いていって、「そりゃ違うぜ」と言うつもりはありません(言ったかな?w)。人はどういう信仰を持つことも自由です。ただ、キリスト教や仏教といった、巨大な組織・権力・影響力を持った宗教に、唯物論的な「そんなの幻想」という批判ではなく、「霊的」な視点から批判をする者がいても(しかも無一物の人間ですしw)、まあいいのではないでしょうか。


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