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【「私」という超難題】(8) 私の中の小さな私

2012-08-15 00:30:59 | 高森光季>「私」という超難題

 私の中に、いくつもの「小さな私」がいる。こんなふうに感じている人は多いのではないでしょうか。
 卑近な例で言えば、酒を飲むと、ハンドルを持つと、人格が替わるとか(笑い)、仕事をしている時と家で家族と過ごしている時と、心の持ちようが違う(当たり前ですかね)とか。
 あるアメリカの心理学タイプ分析では、平常時(メイン)とストレス時(バックアップ)の人格をそれぞれ別に意識化するというやり方があります。私もやってみたことがありますが、両者はかなり違うものでした。
 困るのは、通常の私ではない方の私が、何かスイッチが入ったみたいに猛烈拡大して、通常の私を乗っ取ってしまうことですね。「つい我を忘れて……」こういう失敗は多くの人が経験しているのではないでしょうか。どういうことなのか、難しい問題です。

 もっと小さな断片もあります。ある特定の芸術作品(たとえばバッハとか)を鑑賞していると、あるいは楽器の音(フルートとか)を聞いていると不思議な気持ちになるとか、どうしてもこだわってしまう嗜好・趣味(海が好きとか山が好きとか)、あるいは逆の嫌悪感(尖ったものが嫌いとか)があるとか、特定の状況(衆目の前に出るとか)になると突然普段とは違う感情がうまれるとか。
 そういうふうに、「私」の中には、かなり「人格」に近いもの――「サブ人格」と呼べそうなもの――や、もっと断片的なものが、いくつも息づいているようです。
 そして、そういうものが私というものの色合いを作っている。中には、たくさんの時間をそれに費やし、人生を濃厚に色づけるようなものもあれば、ほとんど気にならないものもある(中にはおそらく意識に上らないものもあるでしょう)。関連しているものもあれば、対立するようなものもある。
 複雑な人だったら、その中に聖人もいれば貪欲者もいる、ピエロもいればヒーローもいる、愛の奉仕者もいれば暴君もいる、というような感覚も持っているのではないでしょうか。

 ニーチェの言葉に、「自由な個人というのは、自由な国家のようなものだ。その中に様々な異なる要素があり、時にそれは対立・論争している」という主旨のものがありますが、確かに、「中身一個」「どこを切っても金太郎」よりは、多様な要素を抱えている精神の方が、豊かさも自由度も優れているような気がします。

      *      *      *

 もしかすると、そうした「小さい私」のいくつかは、「過去生の私」なのかもしれません。
 生まれ変わり研究では、過去生の死因に関係することに恐怖症を持つという事例があります。水死した人は水を、高い所から落ちた人は高い所を、生理的に恐がることがあるというのです。恐怖が残るとすれば、愛や嗜好も残るはずです。私たちは前世人格の愛や嗜好をいくらかでも受け継いでいるのではないでしょうか。
 かつて私は砂漠の隠者として生きた。だから静けさや何もない砂漠が好きだ。あるいは大航海時代の船乗りだった。だからインドの音楽や熱帯の大海が好きだ。あるいは戦国時代の武将だった。だから人に命令し、人を使うのが懐かしい感じがする。……
 その中には、前世から、あるいは自分の類魂仲間から、受け継がれた「課題」、つまり「カルマ」も含まれているかもしれません。それは、一個のパターン記憶とか、思い・感情の「鋳型」とかのようなもので、それによって人生には様々な出来事が生じ、「私が学習すべき課題」が差し出されるのかもしれません。
 何度も生まれ変わりをした魂は、それだけ多数の「私の断片」を抱えていることでしょう。複雑な人というのは、そういう古い魂のことなのかもしれません。

 だとすると、自分の中の、好きでたまらないもの、心震えるもの、懐かしいもの、何か不思議な感じがするもの、あるいは逆に嫌な感じがするけれど気になって仕方がないものに、目を向けてみるのも、いいのではないでしょうか。そしてそこに遠い記憶を探ってみるのも、無駄なことではないと思います。「あれ、これはひょっとして昔自分がやっていたこと、よく知っていたことだ!」と感じるものがあるかもしれません。
 もちろんそんなことは証拠のないファンタジーだと言われるでしょう。傍から「あほか」と言われるでしょう。でも別にどうでもいいことです。それは自分の問題であって、他人はまったく関係ないことですから。
 そこに、「私」を作り上げている何かを、発見することがあるかもしれません。自分の魂の姿を、かいま見ることができるかもしれません。


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