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【「私」という超難題】(2) 真性異言事例における「再生」と「憑霊」(下)

2012-08-08 01:02:26 | 高森光季>「私」という超難題

 スティーヴンソンが調査した真性異言事例「シャラーダの事例」に関して、「憑霊」が強く疑われるということを前回書きました。
 他の真性異言事例ではどうなのか。ここでは、日本で調査された事例に関して考察してみます。催眠療法家・稲垣勝巳氏が報告している「ラタラジューの事例」です。(詳細に関しては、同氏の『「生まれ変わり」が科学的に証明された!』(ナチュラルスピリット、2010年)や、ブログ「稲垣勝巳生まれ変わりの実証的探究http://ameblo.jp/katumi-i/」を参照。)
 この事例では、クライエントの「里沙」さんが、退行催眠によって、天明三年(1783年)の浅間山噴火災害で犠牲になった「タエ」という少女と、19世紀にネパールでナル村村長として生きた「ラタラジュー」という男性との、計二人の生涯を「前世」として想起したとされます。そして、ラタラジューの生涯を想起している際に、クライエントは当該人物そのものに人格変容を起こしたように見受けられ(このことは「タエ」想起状態でも同様)、ネパール人とネパール語によって意味の通る会話をしています。クライエントがネパール語を学習した可能性は棄却されています。
 非常に難解なケースです。稲垣氏はこの事例に関して、やはり催眠状態で出現する「守護霊」と呼ばれる話者による解説や、その後に超常的な経緯によってもたらされた「霊信」(霊的存在からの教唆)とされるものによって、独自の生まれ変わり理論による解釈を展開しています。

 このケースでは、里沙の人格は退き、ラタラジューという別の人格らしきものが出現し、ネパール語での会話を行なっています。ただし、里沙の意識は完全に消滅するのではなく、かすかに継続して起こっている出来事を認知しているようです。
 当然、このケースでも、「憑霊」が疑われるわけですが、これに関して稲垣氏はいくつかの点を挙げてそれを否定しています。
 ①里沙の意識が完全に消失していないこと。
 ②里沙がラタラジューに対して自己同一性を感じていること(自分の前世だと受け入れていること)
 ③「守護霊」と呼ばれる話者が、「生まれ変わり」だと述べていること。

 しかし一方で同氏はラタラジューやタエは里沙とは「別人格」であり、真性異言現象は、「別人格である前世人格」がクライエントに「憑霊した」ことによって起こるとも述べています。一般的な「記憶想起」では真性異言のような現象は起こらない。それが起こるのは、かなり根底的な「人格変換」が必須であるということのようです。
 そして同氏は、タエやラタラジューや里沙は「魂の表層を構成するもの」であって、それは「深奥にある魂そのもの」の「部分」であるとしています。
 別人格であるが「魂」としては同一。

 さあて、難しい問題になってきました。

 現世に顕われている人格は、その奥にある「魂(霊)」の部分的顕現であるという命題は、スピリチュアリズムの霊信にもあります。
 たとえばマイヤーズ通信には次のような記述があります。
 《仏教徒が輪廻転生について語る時、それは半分の真実を語っているのである。そして半分の真実とはしはしば、全面的誤謬よりも不正確であることが多いものだ。私という存在は二度とこの世には再生しないのである。がしかし、わが類魂の中に加わろうとする新しい魂が、私が織り込んでおいた模様ないしカルマの中にしばしの間入り込む。私はここで「カルマ」という語をはなはだ漠然と用いている。というのも新しい魂が受けつぐのはカルマ以上のものであり、また以下のものである。つまり、私とは一個の王国のようなもので、さらに言えば王国の一構成員のようなものなのである。》
 ただし同通信は一方で「地上で全く物質的生涯をおくった人々が、知的で高次な形の情緒生活を体験するために再生しなければならないのは明らかである。言い換えれば『動物的な人』の段階にある人はほとんど例外なく再生する」とも述べていて、これは矛盾と言えば矛盾です。
 また、シルバー・バーチは「魂の多面体」論を述べています。
 《物的な尺度で物事を考えるからそれが問題であるかに思えてくるのです。地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分にすぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えています。一つのダイヤモンドには幾つかの面があり、そのうちの幾つかが地上に誕生するわけです。すると確かに一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドの一面と他の面との間には物質という壁ができて一時的な分離状態になることは確かです。》(霊訓4 P61-2)
 《あなたは一個のダイヤモンドの数ある側面の一つであって、各々の側面が全体の進化のために異なった時代にこの物質界へ顔を出していることも有りうるのです。》(霊訓9 P132-3)
 《インディビジュアリティはパーソナリティよりはるかに大きなものです。死後に生き続けるのはパーソナリティではありません。パーソナリティはインディビジュアリティによって投影された影にすぎません。……一つの大きな魂(インディビジュアリティ)があって、それに幾つもの部分的側面があります。それらが別々の時代にパーソナリティとして地上に生をうけます。が、寿命を終えて霊界へ戻ってきた時も一個のインディビジュアリティの側面であることに変わりありません。》(霊訓10 P115-8)

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 「私」は私であるが、私ではない。同一律(AはAである)の破綻。(埴谷雄高さんが追求したテーマですねw)
 この問題は、シルバー・バーチが言うように「物的条件によって制約された人間の理解力では到底理解できない」問題なのかもしれません。
 「私とは何か」という問題は、人間には理解不可能。人間の足らないオツムでゴリゴリと考えても、しょせんは詮無いこと。
 ということなのでしょうか。

 ただし、そうなると、非常に重大な問題が逆に出てきてしまいます。
 それは、「死後存続」とか「生まれ変わり」ということの「証明」問題です。

 死後存続(survival after death)とか生まれ変わり(reincarnation)ということは、何らかの「主語」を伴っています。ごく当たり前に考えれば、「私」が死後も存続する、「私」が死した後再びこの世に生まれてくる、ということを意味するはずです。
 ところが、この「主語」が確定できない。何が死後存続し、生まれ変わるのかを、言うことができない。
 となると、「死後存続」や「生まれ変わり」の証明は、“不可能”ということになります。

 シャラーダやラタラジューの事例では、そういう過去に生きた人物たちの、記憶、性格、思いや感情、そして言語能力までが、「あたかも一個の人格と等しいものとして」、死した後も、つまり(現行の)物質的な基盤に依らず、保持され、ある特殊な条件のもとに、特定の人体を通して、再現されうる、ということは「証明された」かもしれません。
 ところが、この人格は、存続してはいるかもしれませんが、「特殊条件状態」以外では、生きていないように見えます。一般のスピリチュアリズムの霊信で言われるように、死後、その人生を回顧・反省し、霊界に行って何らかの活動をし、さらなる成長の道を進むために次の進路を模索する、というような活動をしていません。
 さらには、これらの「人格それ自体」は生まれ変わっていません。シャラーダがウッタラの人生を、ラタラジューが里沙の人生を、生きているようには見えません。ウッタラがシャラーダの、そして里沙がラタラジューの「次生」であるということを示すためには、別の手続きや説明が必要で、それは立証されていません。

 つまり、あくまで客観的な証明レベルで言えば、これらの真性異言事例では、「過去に生きた人物の主要な人格部分が存続している(保持されている)」ということがかなりの信憑性をもって証明されたことにはなるでしょうが、それ以上のことは証明されないのではないかと思われます。
 言い換えれば、これらは「物質的基盤を持たない人格様の存在=霊」があるということを明らかにしたものであり、それは「憑霊=霊の顕現」と証明レベルでは同等のものということになるのではないかと思います。
 ただし、「人格の主要な部分」が存続・保持されているとして、それが「私の死後存続の証明」になるかという、またまた難しい問題もあります(これについてはまた別に)。

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 なにか空理空論を展開しているように思われるかもしれませんが、これらの事例は、われわれ自身の問題として考えると、いささか軽くないものになっていきます。
 それは、今こうして生きている私、それが、死後、生前の記憶や思い・感情を保持したまま、霊界で活動することもなく、「次生」の人格と深く交じり合うこともなく、そのまま凍結したように存在し続けるということがあるのかどうか、という問題です。
 一般的に、自己の死を自覚せず、現世に執着を持ち続けると、霊界に行くこともできず、その人生の思い・感情を持ちながらさすらうことがあると言われてきました。つまり「未浄化霊」となるということです。
 しかし、そうでなくとも、「今の私」は、魂の部分、表層の構成物として、死後もそのまま留まり続けるのか。その死後人格が意識を持っているなら、その意識は永くその人格の中に閉じ込められ続けるのか。これはまるで「未浄化霊」と同じようにも思えます。
 これはぞっとする事態ではないでしょうか。
 それともこれは、限定された仮初めの自己、小さなパーソナリティに囚われた妄想なのでしょうか。未浄化霊などというものがそもそもないのでしょうか。

 シャラーダやラタラジューの事例は、特殊なケースだという可能性はないでしょうか。
 スピリチュアリズムのいくつかの霊信(マイヤーズ通信やカルデックやホワイト・イーグルなど)や、催眠による過去生研究(ウィリストンやマイケル・ニュートンなど)では、いわば古典的とも言える、ストレートな生まれ変わりのプロセスが説かれています。それは、魂は死後、直前生の回顧・反省をし、自分のレベルに合った霊界で一定の活動をし、その後、守護霊・指導霊との相談の上、生まれ変わるか、より高い霊界へ進むかを選ぶと言われています。こうしたプロセスの中で、直前生の記憶や思い・感情(つまり人格の主要構成部分)は、ある種の解体・浄化を経て、「さらなる成長の課題」に組み替えられ(いくぶん抽象的・パターン的なものになった記憶や思い・感情となって)、次生へと受け継がれていきます。次生の私は意識としてはそれに気付くことはないものの、魂レベルではそれを自覚しています。
 わかりやすい説明ですし、直観的には「いいな」と思える考え方です。
 こうしたプロセスであるならば、過去生の記憶が甦ることはあっても、過去生の人格が、別人格として現世人格に憑依するというようなことはないように思われます。(私の魂が、何らかの理由で、過去生の人格を意図的に“復元”して、それに霊的生命力を注入してあたかも人格のように見せるという可能性はあるかもしれません。しかし、その場合は過去生の人格は、すでに一度消失したものということになるように思えます。)
 シャラーダやラタラジューは、こうしたプロセスを経ていないのでしょうか。こうしたプロセスを経ないで、存在し続ける(直前生の記憶を保持し続ける)霊的(非物質的)人格というのが、たくさんあるのでしょうか。

 どちらかの説明が間違っているのか、生まれ変わり(や死後の魂の行方)には様々な様態があって、どちらの説明も部分的には正しいのか。それとも、人格という概念の意味合いがずれているだけで、同じことを表現しようとしているのか。
 わかりません。

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 どうも千鳥足でわけのわからない記述になったかもしれません。私自身も混乱して、うまく考えられないような感じです(何か心理的抵抗のようなものが働いているのかもしれませんw)。そのうち改めて整理することができるのか、無理なのか。それもはっきりしません。

 何が死後存続するのでしょう。何が生まれ変わるのでしょう。憑霊現象が起こっている時、そこには何がいるのでしょう。今ここにいる私はそれに対してどのような位置にあるのでしょう。
 そしてわれわれは、何が証明できるのでしょう。それともわれわれは何も証明できないのでしょうか。


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