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【「私」という超難題】(19) 個人性と個性

2012-09-04 00:14:34 | 高森光季>「私」という超難題

 シルバー・バーチ大師の言葉に、こんな驚くべき内容のものがあります。

 《進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていきます。おわかりですか。個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在というのは霊魂に具わっている神的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方、個性はますます発揮されていくわけです。》(『シルバー・バーチの霊訓』第4巻、78頁)

 (原語は何でしょうかね。「個性的存在」は character 、「個人的存在」は personality でしょうか。「characteristic being」「personal being」なんて表現はあり得ないか。)

 「霊魂に具わっている神的属性の表現形式」

 すごい言葉です。それぞれの霊魂は、「絶対者」が持つ様々な性質のうち、ある種の性質を、「顕われ」「形」「動き」として表現している。
 太陽の白色光が、虹となって無限のスペクトルに輝くように、それぞれの霊魂は、聖なるイデアの中に含まれるあまたの色のうち、「ある特殊な色」をごく小さな輝きとして身に帯びている。
 もっと言えば、われわれは神の子であるが、一人として同じものではなく、それぞれ別な「神のごくごく一部」をもらって生まれてきたものだ、と。

 それが地上においては(そしておそらく地上に近いいくつかの霊界においては)、他者と出会い、自らを確認したり、ぶつかり合って相互研鑽したりして、体験・思い・感情・叡智を蓄積し、成長を果たしていく。そのための手段あるいは表現が「個人」存在というものだ、と。
 そして「類魂」説にもあるように、魂が成長していくと、仲間の魂の体験・思い・感情・叡智を共有するようになる。「個人」の壁は徐々に薄くなっていき、「類魂」がそれに代わって「特殊性」の表現となっていく。より豊かで強いものとなったその「特殊性」は、より巨大な「個性」となる。われわれ個の魂は、その巨大な個性の構成部分となっていく。こうした構造は、霊的レベルを高めていけばいくほど、顕著に、大規模になっていく。

 個人性は多様性を生む。そして再びそれが統合されると、類魂の個性はより豊かなものになる。類魂の個別性は再び多様性を生み、さらにそれが統合されて「心霊族」の個性を豊かにする。そういうことなのかもしれません。
 (そうすると、われわれの自我は、類魂の中で類自我となり、心霊族の中では大自我となるのでしょう。ただしこのプロセスはわれわれにはなかなか理解できないもののようです。)

      *      *      *

 これは「群的存在」「集合的存在」となっていくということでしょうか。
 それは、「人間より原始的な存在」である各種生物の存在様態と同じになってしまうのではないか。

 一般の生物(犬猫イルカなどの高等生物ではない生物)は、魂の個別性を持っていないとされます。一応生きている時は個別体ですが、そこでも魂に当たる部分は「群魂」あるいは「種の魂」とつながっている。蜘蛛が微細な脳しかないのにあれだけ華麗な巣を張れるのも、蟻が一糸乱れぬ行動を取り複雑な巣を構築できるのも、群としての魂から情報を得ているからでしょう。そして彼らの魂は死後すぐに群魂に回帰して個別性を消失する。たぶん個別の生の記憶はある程度群魂に蓄積されるのでしょう(たとえば人間と親しんだ記憶が多くなれば、群全体も人間に親しむ傾向を帯びるとか)。
 これに対して、犬猫イルカなどは、かなり魂の個別性がある。そして場合によっては死後も個別性を一定期間保つ。飼い主のところに霊として顕われたり、守ったりということが実際あるようです。けれども、人間のように、死後も永く個別として成長していくのではない(一部の犬猫は人間に生まれ変わることもあるようですが)。

 人間は、どうも究極の一歩手前くらいまで、個別性を失わないようです。私は高次の霊界へ進んでも、私の個別性を持つ。ただし、それは独立・隔離されている個別性ではなく、類魂と記憶・思い・感情・叡智を共有しつつ、「一即多、多即一」であるような性質になっていく。
 高等下等とか、良い悪いではなく、人間はこうした宿命を持たされているのでしょう。
 だから「集合的性質を増す」といっても、「元に戻る」ということではなく、ちょうどケン・ウィルバーが「プレ/ポスト」の問題として表現したように、次元が一つ上の「集合性」になっているのだと思われます。
 (こういうあり方は、非常に譬えは悪いですが、巨大な軍事作戦をする超近代的軍隊のようなものとイメージできる気もします。それぞれは交信を取り合って、個別の相手と全体の状況を全員が把握できるようになっている。一人一人は空・海・陸の持ち場でなすべきことをなしていて、それが絶妙に構成されて作戦は展開される。どこかが遅れれば別のところが加勢し、重要ポイントでは一斉にトップ・ギアになる。一人一人は個別性を失っているわけではまったくない。しかしそれらが総合されて、「巨大な戦士」となっている。そんな感じでしょうか。[しかし譬え悪すぎだろ。])

 こういう経緯をバーチさんは「個人的存在や利己性は薄れていく」と表現しているのだと思われますが、「一方、個性はますます発揮されていく」と言います。
 普通、様々な特殊が合わさっていくと、ちょうど多様な波長の光が集合して白色光になるように、特殊性はなくなっていくようなイメージがあります。
 でも、違う、と。個々の魂は群魂となっていくことで、いっそう個性を発揮するのだ、と。
 これは、群魂(類魂)自体が、非常に強い個性を持っているということを示唆するものではないでしょうか。

      *      *      *

 個々の魂と、それが属する類魂は、ある特性を持っているのか。
 これは面白い主題です。
 ひょっとすると、たとえば、人を癒すという特性を持っているとか、戦いを常とする特性を持っているとかいう魂・類魂があるのかもしれません。
 実際、霊からの通信の中には、そういう「魂のタイプ」を主張するものもあります(たとえば、マイケルという霊からの通信をまとめた『魂のチャート』。ただ、この内容に私自身はあまり共感しませんでした)。
 一部で言われている概念に「霊統」というものがあります。個々の魂は、ある霊的系統に属している。その系統とは、キリスト教とか仏教という系統、物理学者とか社会学者という系統、芸術家とか好色者(笑い)とかいう系統など、非常に様々であり、個々の魂はその系統の領域で活動し、成長していくのだ、ということです。

 正しいかどうかはわかりません。
 一方でマイヤーズ通信は魂の全方位的な発達を賞揚しています。それは「魂の六つの様態――愛する人と孤高の人、快楽主義者と禁欲主義者、聖者・賢者とただの人、これらのすべての面が彼の中に含まれていなければならない」ということです(詳しくは拙稿「マイヤーズ・マトリックス」参照)。ある特性に傾くよりも、様々な特性をバランスよく持つことが重要だという見解のようにも見えます。

 生まれ変わる主旨にしても、たとえば、何回も芸術家として生まれ変わってひたすら美の探究を深めていくというような道もあるでしょうし、暴君として生まれたり職人として生まれたりして多様な要素を身につけていくような道もあるでしょう。
 これもわかりません。同じ傾向を繰り返す魂も、違う傾向を体験していく魂も、両方あるのかもしれません。私の周囲の前世記憶を持っている人たちの話を聞いてみると、けっこう顕われとしてはバラバラであるほうが多いような感じがします。ただ、そこに何となく、傾向という強いものではないにしても、色合いというようなものが見いだされるような感じもします。このあたりはもっと研究できれば面白いと思います。

      *      *      *

 われわれがここに生きているのは、「神の子」として、「絶対者の小さな小さな断片」として、成長進化を続け、神の創造に参与するためです。
 その成長進化、創造への参与は、もしかすると全方位的なものではなく、ある「傾向」、「個性=特殊性格」を、強めていくことによってなされるものなのかもしれません。
 美を求める魂は美を、真を求める魂は真を、美と真の融合点を求める魂はその融合点をめざして、特殊性格を持った進歩の歩みをするのかもしれません。
 奉仕を求める魂、支配や秩序を求める魂、知恵を求める魂、肉体や物質の意義を求める魂、……そういった魂がいるのかもしれません。
 そうした大雑把な分類では捉えられない、微細な色合い、波長というものを、それぞれの魂は持っているのかもしれません。

 われわれがめざすべきなのは、個別的存在=自我の安定や拡大なのではなく、個性=魂の色合いの発見と育成なのではないでしょうか。
 何がほしいとか、こうなりたいとかではなく、私が持っている魂の個性とは何か、それをどう伸ばして「神の創造」に参与するか、それが「自己の探究」なのではないでしょうか。

 そしてそれを知った時、私の前に現われるのは、「使命感」であり「世界への意志」なのでしょう。

 《一つだけ秘密のカギをお教えしましょう。叡智が増えれば増えるほど選択の余地が少なくなるということです。増えた叡智があなたの果たすべき役割を迷うことなく的確に指示します。われわれはみずからの意志でこの道を志願した以上は、使命が達成されるまで頑張らねばなりません。あなた方はこの道をみずから選択なさったのです。ですから他に選択の余地はないことになります。》(『シルバー・バーチの霊訓』第九巻、203頁)


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2 コメント

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トド様へ (高森光季)
2012-09-12 21:17:34
 いやあ、たいへん興味深いご指摘、ありがとうございます。
 六波羅蜜というのは、あんまりまともに考えたことがなかったので、意外というか、たいへん面白かったです。
 特に忍辱というのはこれまで全然わからなかった(単に patiance と理解していた)ので、ご指摘は興味深いものでした。
 堪能-密教というのも面白いご指摘でした。
 ちょっと改めて考えてみます。ううむ、難しそう。

 マイヤーズ通信の仏教批判については、別に「本当にお釈迦様の霊とお会いして、そのメッセージを伝えるためにそのように書かれた」ということではないと思いますから、受け入れなくても全然構わないものだと思います。スピリチュアリズムの霊信は、ある言い方をすれば「単なる一高級霊の見解」ですから。
 ただ、仏教といっても実に多様ですから、その或る部分を取れば「その命題は成り立たない」というようなことはいくらもあるのではないでしょうか。大乗仏教、特に密教や法華教には、厭世主義の色彩はないのかもしれませんが、お釈迦様の思想やその後の仏教の底流に、厭世主義は中核的なものとしてあるのではないかと私は思っています。このあたりは拙稿「イデアとしての厭世主義http://blog.goo.ne.jp/tslabo/e/a76ee110b56659b6558547ceabff3d0f」に書きました。
 《切に世を厭い嫌う者となれ。》(『スッタニパータ』)
 「正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ」というのもそういうことではないでしょうか。
 (この厭世主義についてはもう少し考えてみる必要がありそうです。もしかすると全くそれと無縁の人というのもいるようですので。)

 仏教については、このブログでいろいろと言いたい放題(難癖含めてw)書いてきましたから(カテゴリー「宗教論1・仏教」)、もうあまり言うことはないのですけれども、ちょっとわざと挑戦的な(笑い)ことを言いますと、
 ①「八正道」は、何のために実践するのか。
 ②仏教は「苦しまない」ための教えなのか。
……というあたりを問い続けているわけでして、要するに、
 「仏教とはよりよく生を生きる叡智」「心理学・精神衛生学」なのか、そうでないのか、ということです。
 それについて、私はどうしても、「仏教の中核は、苦である輪廻を超脱すること=もうこの世に生まれ変わらないこと」「さとりも八正道も余のことも、すべてはこの目的のためのもの」と思えるのです。もちろん、それは違うぜ、という人が多いでしょうけれども。
 (ただし、仏教が心理学をやることを否定するものではありません、念のため。)

      *      *      *

 引用いただいたご文章、感銘深く拝読いたしました。「親業」のお話も面白かったです。
 「現実を正しく見る」というのは、確かに心理問題の解決にとって、一番肝要なものだと思います(至難の業かもしれませんが)。というか、それをクライエントが本当にできれば、心理療法は半分以上成功、みたいなものでしょう。私は友人に心理療法家がいて、自分も少し心理療法を勉強したので、つくづく感じるのですが、まあ心理問題を抱えている人は、その「現実認識」に導いていくことすら困難な場合が多いですね。ただこのあたりもいろいろと面白い主題があるので、そのあたりはまた書けたら書いてみたいと思います(たぶん「私」問題と深く関係していると思っています)。

 ちょっと不勉強なのですが、アサーションは親業が元になったというのは本当でしょうか。どちらも行動療法から60年代くらいに出てきたのではなかったでしょうか。
 それはともかく、「親業が仏教の影響を受けている」というのは、実証できればすごく面白い話だと思います。ぜひ探究してみていただければと思います。
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マイヤーズマトリックスについて (トド)
2012-09-11 01:58:26
マイヤーズマトリックスで、六つの人間的価値がありましたが、私には大乗仏教の六波羅蜜とかなり共通点があるように思えてなりません。
愛-布施。自尊-忍辱。堪能-これは該当がないです。克己-持戒。求道-精進。叡知-智慧。
自尊については、忍がもともと認の略字を用いていたとのことで「私が受ける災難は私への指名」と考えれば、歯を食いしばって耐えるのではなく、納得して柔軟な心で問題に立ち向かうことと考えれば自尊-忍辱ととらえることもできると思います。
布施はもともと見返りを求めない利他ですので、まあ愛と言って良いと思います。以下、意味を考えると、たぶん同じことを言っているように思います。
それから、大乗仏教は、お釈迦様が説いた教えではないというのが近代仏教の結論なのかもしれませんが、私は第二法輪(大乗)、第三法輪(密教)という考え方を信じたいので、あえて言えば堪能-密教・・・と言えなくもないような気がします。
それから、マイヤーズは仏教が「生からの逃避」としましたが、それはかなり表面的な理解からではないかと考えてしまいます。
本当にお釈迦様の霊とお会いして、そのメッセージを伝えるためにそのように書かれたのなら、それをしっかり受け止めなくてはいけないと思うのですけど、まだ、充分に納得できない部分があります。
例えばですが、八正道の考え方は人間がいきる上で参考になる考え方を丁寧に、かつ、見事に解説していると思うからで、生からの逃避とはどうも納得できません。
それを理論的に説明できないのが申し訳ないのですが・・。

(長くて申し訳ありませんが、今年の当寺の時報に書いた文章をそのまま載せました。私が納得できた範囲内では、仏教は生きるための智慧だと思うので、そのニュアンスを伝えるため、すみませんが全文のせてしってます。)
優しさや思いやりがあれば、必ず困難を乗り越えられます~ダライラマ14世 
 去年の11月にチベット仏教の最高指導者ダライラマ14世(1989年ノーベル平和賞)が宮城県石巻市を訪れ、東日本大震災の犠牲者を慰霊する法要に出席しました。法要では災害の犠牲となった方々に祈りを捧げるとともに、「私は、この悲劇に際して、あなた方の悲しみと苦しみを分かち合うためにここにやってきました」と語り、そのご家族や周囲の方々に深い哀悼の意を表しました。
 そして、「逆境をチャンスにする」「逆境を菩薩道へと変える」実践法についてチベットの国の歩んできた道を例にあげて『入菩薩行論』の話をされました。

もしも改めることができるなら、憂うべきことなど一体何があるのだろうか。
もしも改めることができないのならば、憂うことで一体何の役に立つというのだろうか。

困難な時を過ごす時に現実を正しく認識しつづけているならば、その過程で自分たちの心の力も強くすることができること、自分たちに対する自信を保ちつづけ、いつも前向きに優しさと思いやり持って取り組んでいくならば必ず困難を乗り越えられるとおっしゃいました。
この言葉は私たちの生活の上でも大切にしたいことだと思います。優しさと思いやりを持ってそれぞれの方が人生の困難を乗り越えられ、良い年になりますように祈念いたします。

現実を正しくみる方法
ごく最近ですが、法事のお清めの席で、ある方から「いろいろなことを心配するあまり、いつも心が苦しい。どうしたら良いのか判らない。仏教の本を呼んでも、具体的なことが書かれていないので実践できない。」とおっしゃる方がいらっしゃいました。
私たちはこの方と同じように、日常生活や仕事の中でさまざまな心を騒がす出来事を経験したり、大きな悲しみにであったりします。そして悩んだり怒ったり、投げやりになったり絶望したり、怒りを他人にぶつけてしまったり・・・さまざまに心を苦しめてしまうように思います。
こうした時は、ダライラマ法王がおっしゃったように、まず「現実を正しく見る」ことができると良いのかもしれません。
「現実を正しく見る-正見(しょうけん)」は、お経の中では下記のように書かれています。

「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」

難しいですね。含蓄のある深い意味が込められていますが、確かに難しくて、具体的にどうすれば良いのか判りにくいようです。もっと簡略化してみると、「何の先入観もなくありのままに観察することによって、心を落ち着けること」という意味になると思います。

では、ありのままに見るためにはどうすれば良いのでしょうか。
仏教の影響を受けつつ心理学の研究成果を基礎にしてアメリカで開発された「親業」をヒントにして考えてみたいと思います。
 親業では、「子どもの行動をありのままに見る」ことを薦めています。例えば、自分の子どもがおもちゃを片づけずにどこかに行ってしまった時、私たちは子どもに「なんで片づけないの!」とか「何度言ったらわかるの。早く片づけて!」「また散らかしっぱなしにして・・なんで判らないの!」と怒りながら言ってしまいがちです。
すると、子どもは片づけることよりも怒りをぶつけられたという思いだけが強くなってしまうため、嫌々ながら親の言うことを聞きますが、片づける習慣は身につきません。そして親に対する反発心だけは強まっていくという結果になることが多いようです。
親の気持ちとしては、「子どもに片づけをする習慣をつけさせたい・・」という愛情から始まったことなのですが、「何回言っても言う通りにしない」という怒りや、「部屋が片づかない、汚い」といういらだち等から、「あの子は親を無視している・・」「いつも反発ばかりしている」と第二第三の悪感情を沸き上がらせて、自分の心を苦しくしてしまうだけでなく、子どもとの関係も壊してしまうことが多いように思います。
では、現実をありのままに見た時、この事例はどうなるかいうと、「おもちゃが床に置いてある」ということだけです。したがって、それが問題だとすれば「おもちゃが床に置いてあると、私が踏んでしまう気がして心配なの・・」という気持ちを伝えるだけにします。すると子どもは悪感情を抱くことなく「そうか、怪我させたり痛くさせると可哀相だから片づけよう・・」という気持ちだけが強く心に残り、自分から片づけてくれる可能性が高まるとしています。
現実をありのままに見ることは、少なくとも第二第三の悪い感情を引き起こさないという意味で自分の心を楽にしてくれるだけでなく、子どもの心に痛みを与えることを防いでくれることにもなります。
その上で、片づけそのものについて親として心配があるのならば、ありのままに子どもに伝えます。「あなたが片づけの習慣を身につけられないことが心配なの」「何回も同じことを言うのは残念です」等々、自分の気持ちもありのままに認め、親としての優しさと思いやりをもって伝えることができれば、子どもも親の気持ちを理解してくれる可能性が高いと思います。

法王が「現実を正しく見る」とおっしゃったのは、そのような意味ではないかと思います。
自然の猛威・災害は既に起こってしまったことですから、もうどうすることもできません。そのことはありのままに認めるしかありません。大自然に対して怒りをぶつけても、自分ばかりが不幸だ・・と絶望しても、心の苦しみは除けません。大きな悲しみはありのままに受け止めて静かに悲しみ、その上で優しさと思いやりをもち続けて前進してくださいという考え方は、法王ご自身の経験に基づく信念なのかもしれません。
法王は、チベット亡命政府のリーダーとして、巨大な暴力(約600万人と言われたチベット人のうち約100万人が侵攻後殺され、国土は未だに占領下にある)にさらされながらも、決して絶望せず、暴力を振るう相手に対しても慈悲と平和を説きつづけ、チベットの自治の回復を中国政府や世界に対して主張しつづけています。法王は常に笑顔を絶やさず、穏やかに愛と慈悲と平和を説き、一人ひとりの心の目覚めを説く世界的な宗教指導者という印象が強いのですが、厳しい現実の困難と対決しつづけている政治的な指導者でもあります。

法王や大震災の被災者とはレベルが違いますが、私たちも、日常生活や仕事などで経験するさまざまな困難に対して、「現実を正しく見て、優しさと思いやりをもち続けて努力する」ようにできると心を苦しめないようにできると思います。そして、いつか困難を乗り越えられるのではないかと思います。
良い年になりますように祈念いたします。
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現状で私が理解して納得できた八正道のひとつですけど、こうして考えると、ダライラマとかは生からの逃避ではなく、真っ正面から向き合っているとしか思えないのです。
マイヤーズの文章をまだ全部読んでないのに、こんなことを書くのも失礼かと思いますが、どうも、その部分が納得できません。

※それから、親業について仏教の影響を受けたとはどの本にも、ネット上にもないと思いますが、訓練協会の方からも直接聞いてますし、創始者のゴードンが日本の僧侶の話し方を参考にして開発したという事実をもとにそのように書いてます。
話がそれてしまいますが、アサーションとかコーチングの元になった親業は仏教と近代の心理学が融合したコミュニケーション技術だと信じてます。

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