スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

六道説批判

2011-08-23 00:15:37 | 高森光季>仏教論・その他

 私の見解では、ブッダの探究はウパニシャッド以来のテーゼを引き継いで、それに答えを出したものだというものです。それは
 《人間は何度も生まれ変わる。それを脱け出る(卒業する)には、叡智が必要である。》
 というものでした。(別にこの見解は特殊なものではないでしょう。)
 そしてこの前半の「基本前提」は、仏教のその後の発展においても継承されたと考えています。主題後半の「叡智」の探究も、あくまでこの前提に立ったものだったと。(けれどもそこに「無我」という問題が出てきて非常に複雑なことになってしまった。私はそれを余計な迷路だと思っています。)
 そして、このテーゼは、近代に入っての「死後存続研究」においても、おおむね「事実と合致する」ものだとわかってきています。(ただし、「叡智」という解釈は少しずれるかもしれません。スピリチュアリズムでは「魂が様々な経験を積んで成長し、もやは地上で学ぶことが必要でなくなったら」という表現になるでしょう。)
 そして、ブッダの提案した「欲望・執着の断滅」というテーゼ(ジャイナ教もそうだと思いますが)も、一定の正当性は持つものだったと言えると思います。我欲は物質への固着を招き、精神の拡大(融通性、統合的知性、他者への共感など)を阻害するものだからです。ただし、「生に対する完全なる拒否・厭離」という姿勢は、行き過ぎであったのではないかと思います。ここには、「早く輪廻を超脱したい」という急進主義が見られます。高慢というのは言い過ぎかもしれませんが、いきなり高みをめざし過ぎではないかと。そしてこの「スピードアップ」主義は、密教や日本の念仏往生、即身成仏といった思想まで行き着くことになります。スピードアップ自体が間違った教えだとは言えませんけれども、あまりに程度が過ぎると問題なのではないでしょうか。

 そうしたことはあるにせよ、ウパニシャッド-仏教の基底にある非常に単純素朴な教え、「我欲を離していって成長し、この世を卒業しましょう」という教えは、「霊的な真理」だったのではないでしょうか。
 (なお、輪廻と無我をアクロバティックに整合させようとしている人たちもいるようですが――たとえばウィキペディアの「輪廻」の項の「仏教における輪廻」参照――、先に引いたインペレーター霊の言葉を再掲して済ましましょう。《人間は単純素朴では満足せず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする》。また、近年の再生研究、前世記憶研究を示すこともできるでしょう。)

      *      *      *

 しかし、この仏教の輪廻観は、その後変な方向に展開します。
 まずは「六道」という世界観です。これはどうも、かなり後代になってできたらしい。私は専門的に勉強してませんので、ウィキペディアの引用で誤魔化します。
 《成立がもっとも早い、最古層のグループとして分類される経典に、ダンマパダ、およびスッタニパータがあり、これらの経典にも輪廻思想が登場する。ダンマパダにおいては単純に、善趣(良き境遇)と悪趣(悪しき境遇)として説かれている。スッタニパータでは悪趣として具体的に、地獄が説かれ、そこでは獄卒によって様々な責め苦にあわされるという。
 部派仏教の時代になると、世親(ヴァスバンドゥ)の『倶舎論』に、天・人・畜生・餓鬼・地獄の五趣(五道)輪廻の説が見られ、命あるものは、この五趣を輪廻するものとされた。
 後にこの五趣に、闘争にあけくれる境遇として阿修羅が加わり、これら天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を、あわせて六道と称するようになった。
 後代になり大乗仏教が成立すると、輪廻思想はより一層発展した。自らの意のままにならない六道輪廻の衆生と違い、自らの意思で転生先を支配できる縁覚・声聞・菩薩・如来としての境遇を想定し、六道とあわせて十界を立てるようになった。》
 (ところで、阿修羅は人界より下でしたでしょうか。ずっと上だと思っていました。どこかでそう習ったのだと思うのですが、よくわかりません。ま、どちらでもいいですが。)
 (また、別に「三界」説[欲界・色界・無色界]もあるようですが、成立時期や六道説との関係は私は知りません。)

 まあ、ここでも「単純素朴では満足せず、何やら複雑なるものを混入する」傾向が見えます。また、「人間の想像力は地獄に関しては生き生きと働くが、天国に関しては茫洋としてしまう」という箴言(誰だかは忘れました)があるように、「人間をいじめる世界」はつい、たくさんできてしまうようです(笑い)。
 天界(界とは言わないのかな)というのも、調べてないのでよくわかりませんが、もともとは古代インドの「神々の世界」だったのではないでしょうか。本来はそこへ行くことだって大変なことだったものでしょう。ところが、仏教ではそこも「輪廻の苦しみ」を免れず、「衰える時は甚大な苦しみがある世界」で、そこから下の世界へ落っこちてしまうこともある、「苦の世界」だということになった。そして、解脱とは、そこをも超えるすごい超脱なのだと説くようになった(もっともさとりにも深浅があるだろうということで、そこにさらにレベルを付け足したわけですが)。結局、いささか悪意に取れば、天界=神々の世界というものをひどく価値低下させ、自分たちの営為はそれをも超えるものだと(人間は天界の存在より下のくせに)宣言したわけです。
 まあ、こういったものが、何らかの「その世界に実際いる存在からの情報」によっているのか、単に妄想した(失礼)だけなのか、そのあたりはどうなのでしょうか。

 確かに、死後存続研究での情報では、「よい死後世界」「悪い死後世界」はあるようなので、それをいろいろと表現するのはやむを得ないところかもしれません。ただ、「畜生」というのは、これはちょっとどうかと思います。
 人間が他の生物に生まれ変わるかというのは、難しい問題です。スピリチュアリズムの霊信では、「ない」と言います。確かに「魂の成長」という観点から見て、人間の魂がカエルやトンボになることで、よい学習ができるかといえば、それはないのが当然でしょう(PCのOSを洗濯機のICに載せることはできないように)。ただ何事にも「絶対」は主張できませんし、ごく稀に、霊的存在(死者霊を含む)が動物のエーテル体を利用して、生者や現実に働きかけるということもないではないらしい(神道では特定の動物を「神の眷属」と捉えることがあります。また民間説話や2ちゃんねるの書き込みにはこういった話がけっこうあります)。それは生まれ変わりとは違うとは思いますが、死者の魂が何かを学ぶために、ずっとある動物に「半・憑依」して時間を過ごすことが絶対ないとは言えず、それは一種の生まれ変わりだと強弁すればできないわけでもないので、困ったところです。
 まあ、そういった奇妙でごく稀な例外を除けば、人間は人間として生まれ変わるのであって、「畜生」に落ちるというのは、非合理説として排除していいものだと思います。この思想は「殺生をしない」(祖先父母が虫に生まれ変わっているかもしれないから)という善い道徳の基盤になった点では意味があったかもしれませんが、ジャイナ教のような過剰な形になったり、人を脅す役割を果たしたりと、マイナス面も否めません。

 ではスピリチュアリズムあるいはその後の死後存続研究では、「多層であるあの世」はどう言っているのか。これは実はかなり難しい問題です。霊信でも様々な説があるからです。かなり多数の階層を説くもの(インペレーター)もあり、「そういうくっきりと仕切られた階層はない」とする説(シルバー・バーチ)もあります。何度も引用しているマイヤーズ通信では、「現実界-(幻想界)-形相界-火焔界-光明界-(彼岸)」という説を述べています。
 これは悩ましい問題ですが、「霊界という広大な世界を簡単に地図化することはできない」「それは人間には理解できないし、知っても意味がない」ということで、深入りは諦めるしかないようです。ただ、私はマイヤーズ通信の階層説(彼は自身、形相界まで行ったとし、その上は「一種の瞑想状態で探った」「行った人から聞いた」と述べています)。は、イデア論との整合性もあり、基本的な原理としては非常に示唆深いものではないかと思っています。

 ともあれ、とりあえず問題なのは「生まれ変わり」に関する「あの世」です。仏教では、天部=神々の世界を含む六道すべてに輪廻が適用されるとします。スピリチュアリズムでは、「この世の魂が死後に一定期間過ごし、また戻ってくる世界」(よい世界と悪い世界とがある)と、「もうこの世に戻らなくてもよい世界」とがあることを示唆しています。また仏教では「輪廻を超えた世界」は「仏の絶対世界」(そう言明されている?)ですが、スピリチュアリズムでは「この世に戻らなくてもよい世界」の上に、さらにいくつも「高級霊界」があり、絶対世界へ行くのは無限にも近い旅の後のことだとします。


【仏教】            彼岸       天――――――――――――人-畜生-餓鬼-地獄
                          └────────輪廻──────────┘


【スピリチュアリズム】 彼岸-光明界-火焔界-形相界-(幻想界)-現界-より重い物質の世界
 (マイヤーズ通信説)                      常夏の国
                                  地獄的世界
                                     └─輪廻┘
                               └───より広い輪廻可能性────┘


 仏教の六道世界は、とにかくあちこちを行ったり来たりするわけで、それをポンと抜ければ(一番彼岸に近い天界からだけでなく人界からも抜けられるという考え方のようです。畜生界から抜けるのもあるのでしょうか)、即・絶対界ということになるようです。(彼岸=仏の世界から「衆生済度」のために現界に肉体を持って生まれ変わるという考えもあるようですが、これが頻繁に適用されるものなのかどうかはわかりません。)
 これに対してスピリチュアリズムでは、多くの魂はすぐ上の幻想界へ行っては戻ってくる。その幻想界は「願望が実現する素晴らしい世界だがやがて飽きる世界」であったり、「劣悪な欲望に自ら苦しむ世界」であったりします(この幻想界を確固とした“霊界”とするかどうかは微妙です。レベル的に地上界と同じとか低いとかいう場合もあるわけですから)。これが一般的な「輪廻」です。(ただし、その上の形相界に行き、再び学習や教導のために現界に戻ってくる場合や、現界よりもっと物質性が濃厚な世界へ生まれ直すという場合も、稀にはあるようです。)むしろ、ブッダ時代の単純な「善趣・悪趣」に近いとも言えます。
 そして何よりも、こういった「単純な輪廻観」は、スピリチュアリズムの霊信(向こうにいる住人からの情報)や、前世記憶研究(特に「中間生」研究)の情報といったものによって、「おおむね事実」だと言えると思います。(そういった情報は一切顧慮する必要はないとするのはあまり柔軟性を持った理知的な態度だとは言えないと思いますけど。)

 一度定説として成立してしまうと、それを廃棄することは容易なことではないでしょう。しかし、「畜生に生まれ変わる」といった非合理な説や「哲学のための哲学」のような煩瑣説は、過去の謬説として忘れ、再び単純な輪廻思想に戻るべきなのではないでしょうか。(余計なお世話ですかw)
 どうか、輪廻(再生・生まれ変わり)に興味を持つ人は、哲学的な抽象論ではなく、「事実」に目を向けてほしいと思います。スティーヴンソンの研究、マイケル・ニュートンの研究、そして日本では稲垣勝巳氏の実証的研究、そういったものに目を向けてもらえたらと思う次第です。


最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ミミズなど (今来学人)
2011-08-24 05:49:29
ありがとうございます。たしかに同一命題ではないですね(恥ずかしながら)。スピリチュアリズムの観点からのご教示は参考になります。

ミミズやボウフラとかを言葉として出してくるところをみると私は日本人(でしょうか)って動植物にたいする差異意識がないのかなって思っちゃいます。これって六道輪廻観が潜在的に染み込んでいるようにも思えちゃいます。

脱魂型、憑霊型の区別なんかは津城氏の著書などで初めて知ったのですが、こういう視点から仏教文献を読みこなす人が出て頂きたいものです。
返信する
雑談 (高森光季)
2011-08-23 15:07:09
コメントありがとうございます。

>瞑想から着想が得られた

それはそうだろうなと私も思います。たとえば阿弥陀浄土論なども、願望によるでっち上げではなく、何らかの霊界・霊的存在(これは仏教の概念ではペケかもしれませんがw)とのコンタクトによって生まれたのかもしれません。
ただそれは歪むことが多いし(脱魂型のビジョンは当事者の意識が強く出るので、憑霊型の情報提示――それも当然相当の歪みがありますが――よりは歪む可能性が大きいように思われます)、あまりそこから煩瑣な哲学・体系を導くのはどうかな、と、自戒も含めて思っています。凡庸な考え方ですが、やはり“現実”と常に突き合わせてみる必要があるかと。

>人間だけが特異な地位に居座っている

西洋の人間中心主義は確かにその悪弊を持っていると思います。スピリチュアリズムにもそれがないとは言えませんが、動植物霊はそれぞれに進化・成長を果たし宇宙の進化に貢献していると捉えていますし、人間なぞは幼稚な存在でもっと高度な(という言葉自体に語弊がありますが)存在は宇宙にたくさんいるよ、また、自然霊といったすごい存在も身近にいるよ、と言っているので、人間中心主義ではないと思っています。「差異はない」というのは、そういう意味(霊という意味)では差異はないと思いますが、存在様態は差異が(優劣ではなく)あるように思います。また、人間は他の生物に生まれ変わらないということと、人間が他の生物より優っているということとは、同一命題ではないでしょう。(私は一時生まれ変わるんだったらイルカがいいなあ、イルカはひょっとすると人間よりすごい精神性を持っているかもしれないなあ、と思っていたことがありますが――ちょっとニューエイジャーみたいで恥ずかしいですが――、どうもそうは行かないようですw)

生まれ変わり問題はとても複雑で、人間知性では把握不能とも言われていますから、あまり細部の詮索・議論をしても仕方ないのかもしれません。なかなか証拠の事実が出てきませんし。
ただ、ごく普通の人に生まれ変わりのことを振ってみると、「来世ミミズとかボウフラに生まれるの?」といった素朴な質問が返ってくる体験が多かったので、ううむと思う次第です(笑い)。

といっても、もう現代仏教では輪廻問題は不問になっているのかもしれませんね。六道なども「心の境域」を表わす神話です、というふうに言う人もいるようですし。
返信する
雑談 (今来学人)
2011-08-23 05:26:25
死後存続問題をメインとするスピリチュアリズムにおいて、仏教の六道輪廻説批判は高森さまの仰るように様々な問題を抱えているように思います。しかし文献的に実証できるわけではありませんが、マイヤーズの如き何らかの瞑想から着想が得られたという可能性も捨て切れません。アーラヤ識研究で有名なShmithausen教授はアーラヤ識の起源をそういったものにもとめています(Initial passageと言ってます)。決して哲学的なものではないと。一般の方から見た複雑きわまりない仏教教義もそういう視点を無視するわけにはいきません。

「人間が他の生物に生まれ変わるか」という点、仰るように難しい問題です。しかしスピリチュアリズムの「ない」はやや驚きです。ダライ・ラマは「西洋の思想には、ときとしてある暗黙の前提がある。それは生物の進化というストーリーのなかで、人間だけが特異な地位に居座っているということです。」その上で仏教では動物と人間が感覚を持つという点で近い生き物だとされています。両者に差異はないと。仏教を擁護するものとして(笑、私はこの点を主張しておきます。
返信する

コメントを投稿