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【霊学概論】(25)類魂と守護霊

2011-06-13 00:05:39 | 高森光季>霊学概論


◆類魂と守護霊

 このあたりからスピリチュアリズム霊学の核心になっていく。
 「霊界に残してきた私」「部分再生」「多面体の順次出現」といった問題は、霊魂というものの神秘的な性質(「私」というものの「非モナド性」)を示唆するものであるが、これらのことと密接に関係しているのが、「類魂」の問題である。
 類魂(グループ・ソウル)は、「ソウルメイト」という表現で前世療法の研究者たちの間でもきわめて頻繁に言及される。その方面では、「ともに生まれ変わりし、関係しながら成長していく複数の魂」という意味で用いられる。とりわけ、その特殊形である「ツイン・ソウル」は、ワイスのロマンティックな事例によって、現代の流行語のようにさえなっている(ただし、ソウルメイトやツイン・ソウルは、必ずしも多くの人が夢見るような宿命の恋人というわけではない。毛嫌いしている職場の上司ということさえあるかもしれない)。
 こうした概念を初めて明らかにしたのがマイヤーズ通信である[不滅への道、第六章]。
 それによると、魂というのはばらばらな独立体ではなく、一つの大きな霊の分枝のようなものだという。魂は現世ではそれぞれ別個の個体であるが、「死後の世界」へ行くと、同じグループにいる仲間の存在に気づくようになる【26】。これらの仲間は、多くの場合、一緒に現世に出て、親子であったり夫婦であったり友人・仕事仲間であったりすることもあるが、まったく見知らぬままの場合もある。身近に生きている場合は、互いの成長に必要な役割を果たすことも多い。そして「死後の世界」へ戻ると、再び集まって互いの地上経験を伝え合ったり、今いる世界に見合った探究を共同して続けたりする。この類魂の数はまちまちであり、一桁である場合もあれば、二桁ということもある。
 だがそれはまだ類魂の本質的な働きではない。後に述べる「高次の霊界」へ進むと、類魂は互いの感情的体験や知的体験を共有するようになる。一つの魂が経験することを、類魂の中の別の魂はみな共感できるようになるのである。こうなると、個の独立性は稀薄になってくる。また、体験の幅は大きな拡がりを持つ。たとえば三十の魂の体験を自らのものにすることができれば、その多様さはとてつもないものになるし、それらを統合してなされる精神的活動はさらに巨大なものになるだろう。こうして「多即一」の性質を身に付けた魂は、さらに高次の霊界で、自らの源泉である「本霊」と融合することになる。
 これは前に批判した「宇宙意識との合一」に似てくるように思われるかもしれないが、そうではない。本霊への融合によって個性は消滅するのではない。霊的中枢としての個の主体は存続を続け、それなりの個的活動を続ける。また、本霊自体もまだ個別性を有した存在である。「絶対への参入」は、さらにはるか先のことであり、想像を絶した世界(高次の霊ですら把握できないという)のことである。
 こうした霊魂の「多即一」という本質は、生まれ変わりや霊魂分割の問題に反映している。過去生の私と現世の私とは、ある意味では別人である。通常の自己同一性の範囲にはない。しかしその過去世の魂と現世の魂との間には霊的な連続があり、現世を超えた世界では融合同一となる。また現世に生まれている魂の一部は霊界にも存在する。通常それは意識されないが、霊界に戻れば再び融合する【27】。ある魂の一部と他の魂の一部を融合し新たな魂として現世に送り出す「部分再生」も、現世レベルで言えば別の魂だが、同様に霊界では再び元の魂に戻される。さらにこうした関係は同じグループに属する複数の魂にも通用する。それはある次元までは別個の魂であるが、高次の霊界では、融合していき、ついには本霊の中で一つになる(ただし消滅ではない)。
 このようなありようは、はっきり言って人間の理性では理解できない。われわれは個の殻に閉ざされていて、他の魂との交流・融合など不可能であると考えている。「私」「自己」も、その殻を前提に考えている。だが、魂はそのような「独立体」ではないのであり、それをうまく把握することはわれわれには至難の業なのである。
 人間の意識というものは、いまだに非常に小さく、脆弱なものである。われわれは自らの心に起こっていることすら、うまく把握できていない。「無意識」の領域には、ある程度の超常的な現象を起こせる能力や、前世ないしは類魂の体験記憶が埋められており、それは何らかの形でわれわれの生を導いているかもしれないのに、それを意識で把握することはできない。このような小さな意識でいくら「自己同一性」を紡ぎ出しても、それは限定されたものでしかない。もし人類がこの先、劇的な心の進化を果たすことがあるなら、「自己」についての意識も大きく変化するにちがいない。
 しかし、魂のこうした「つながり」は、われわれにとっては救いとなるだろう。われわれは「孤独」ではないし、「孤独」になり得ない。意識では捉えられなくとも、われわれには、共に成長の旅を続ける仲間がたくさんいる。そして、われわれがなすことすべては、自分という小さな枠を超えて、所属する類魂全体の経験を豊かにしていくことになる。われわれの魂の体験は何一つ無駄になることはなく、永遠に失われることもないのである。これは大いなる救いではなかろうか。

 われわれの魂がつながりを持っているのは、共に生まれ変わりをする類魂ばかりではない。われわれにとって最も身近な霊的存在がいる。それが「守護霊」(Guide, Gardian Angel, Guiding Spirit など様々な表現がある)である。
 こうした霊的存在の概念は、スピリチュアリズムの専売特許というわけではない。キリスト教の民間信仰には「守護天使」というものがあったし(都市や職業・芸術の守護神などもあった)、カタリ派には地上の個人の「魂」を守る当人の「霊」が天界に存在するという考えもあった。世界の様々な土着信仰にもこうした存在は見られる。日本では神仏習合思想の中に「倶生神」という概念があり、これは人が生まれた時から死ぬ時まで連れ添う神格だった(ただし悪行を記録して閻魔に報告するという嫌な側面が強調されたが)。「産土神」などもこれに類するものと考えることができる。
 スピリチュアリズムでは、「個人それぞれの守護霊」とのつながりを強調する。信仰の中心は「自らの守護霊」に対するものとなる。あくまでそれは「個々の魂」に寄り添ったものであり、しかも、慈愛に満ちた存在なのである。そしてこうした「守護霊」の存在についての教えは、スピリチュアリズムがもたらす最大の救いであるだろう。
 カルデック『霊の書』には次のようにある。
 《貴方の傍らにはいつも、貴方より優れた者がいる、その人は貴方に常に寄り添い助言を与え、進歩の坂道を登るのを支え助けてくれている。此の世のどんなつながりよりも深い縁で結ばれ、その情愛は、真実、貴方のために尽してくれる、その人が貴方の傍に居る。こう考える時――これ以上の心の慰めがありますかな?》[霊の書、二一四頁]
 《一人の守護の天使が一人の守護される者を持つ。父が子供を見守るようにその者を守護する。その子が正道を歩めば、これを喜び、その助言に耳を傾けぬ時は、これを嘆く。》[同、二一六頁]
 守護霊とは、同じ霊的集団に属し、すでに何度も地上生活を送り、成長を遂げた霊が当たるとされる。そうした霊は、もはや自ら地上経験に学ぶ必要はなく、未熟な魂を守護することを自らの成長の糧とする。グループ・ソウルの仲間ではなく、同じ本霊のもとにあるがより進んだ段階まで行った、いわば兄姉たちに当たる霊だと考えればよいのだろう。
 とはいっても、守護霊は何でも叶えてくれる都合のいい神様ではない。魂は自らの選択で生き、その責任を自らが担う。高い霊の言いなりになってうまく生きたとしてもそこには何も成長がない。守護霊は庇護する者の無意識に語りかけ、光の方向へ目を向けさせようとするが、物理的・具体的な手助けをすることはない。われわれがなすべきことは、心を浄めて祈り、内心に囁くその声に耳を傾けようと努力することだけである。
 ここには、スピリチュアリズムが宗教と大きく異なるところがある。宗教は教祖や教学への帰依を求める。特定の神格の絶対崇拝を求める。しかし、スピリチュアリズムは、そういったものはまったく必要ないと言うのである。それぞれが自らの守護霊に祈ればよい、それを通して魂に必要なすべてのことは与えられる。これもまた「守護霊」信仰の、大いなる救いではないだろうか。もっとも、信じられる偉い教祖様や、安心させてくれる組織や、崇高さを味わわせてくれる儀式や建物が欲しい人たちには、このような信仰は頼りないものにしか映らないかもしれない。


  【26】――マイヤーズ通信は、この気づきは死直後の「幻想界」ではなく、もう一つ高次の「形相界」でなされるというが、ニュートンの報告では、通常の死後世界(幻想界)でわかると言われている。どちらが正しいのか、両方ありうるのか、断定はできない。
  【27】――カタリ派では、カタリ派の秘義伝授を受けて天界に戻れば、アニマはスピリット及びその霊体と再統合する、それこそが救済であり「復活」であるという。渡邊、一九八九年参照。

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