スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

人類の進化(1)

2011-03-25 00:15:27 | 高森光季>人類の進化

 またまた今来学人さんに挑発(笑い)されましたので、まとまりに欠けると思いますが、一私見を書いてみます。しかし、何と言う大風呂敷の題名か(笑い)。

      *      *      *

 スピリチュアリズムが中心に置いている主題は、一般に「魂の死後存続(永遠性)」と「現界と霊界との交信(交渉)可能性」の2点だと言われますが、これと並んで重視しているのが「成長・進化」という主題です。
 魂はこの世においてもあの世においても成長・進化していく。個々の魂が成長・進化していけば、それから構成される類魂全体も成長・進化していき、それを統括・包摂する本霊も成長・進化していく。地上の人間が、幼稚園・小学校・中学校・高校・大学(・大学院)と進学していくように、魂は、幼稚な地上世界を卒業すれば(非常にしばしば落第はするものの)、その先のさらに高度な世界へと進んでいき、究極的には「彼岸=絶対存在=神」へと帰一する、その長い長い道のりを歩いているというのです。
 (ちなみに、神は永遠不変の実在かどうかは疑問です。一宇宙の創造前と、それが長い成長・進化を経て神に帰一した後で、神ははたして不変なのかどうか。まあ、こんなことは考えても無意味ですが。)
 この考え方でいうと、この世も霊界の霊も、やはり成長・進化し続けている。

 ただし、「界」自体が成長・進化していくのかということは、ちょっと疑問が残ります。いくら幼稚園児が卒業しても、後から幼稚園児は入ってくるから幼稚園はなくならない。そういう可能性もあります。今の地球にいる未熟な魂が次々と卒業しても、次により低い世界から進化してきた新入生が入ってくる。どうもそれはあるようです。ただ、地球上に現われる人類全体も、やはり成長・進化していくようでもあります。
 霊信には、「地球世界は、未熟な魂の勉強の場である。そのうち地球は消滅するかもしれないが、そうなれば勉強を終えられなかった魂のために、また別の似たような世界が創られる」という主旨の教えもありますし、「地球に生きる人類は、未来には、もっと霊的になるだろう」という主旨の教えもあります。
 ちょっとその話はややこしくなるので、今は置いておきます。

      *      *      *

 「進化」というのは、太古からある普遍的な考え方ではないようです。「進化」概念は近代のイデオロギーだと批判する人もいます。
 このあたりはどうも難しい。
 「社会の進化」というのは、確かにはっきりした形ではなかったかもしれません。プラトンは国家のイデアを論じたけれども、そこへ向かって社会が段階的に進化していくと考えたわけではなさそうです。ウィキペディアによると古代ローマの思想家ルクレティウスが「宇宙、地球、生命、人間とその社会が発展すると論じた」らしいけれども、それが大きな影響力を持ったかどうかは不明。ユダヤ教は、ヤハウェへの信仰が社会全体に拡がれば、メシアが来て素晴らしいことが起こると唱えたけれども、それはむしろ「終末論」ですね。キリスト教も、キリスト信仰が拡がれば地上に神の国がもたらされると考えたけれども、これを「社会進化」と言えるかというと、無理がありそう。12世紀末のフィオーレのヨアキムは、キリスト教の歴史は三段階(①父=神と律法の時代、②子=キリストと教会の時代、③聖霊=個々人の信仰の時代)として展開し、1260年から聖霊の時代が始まるという説を唱えましたが、直後に異端とされました【注】。インドでは、六道に代表されるような「生存の階層」を考えたけれども、社会全体がそうなっていく(現世が天界になる)などとはこれっぽっちも思っていなかったでしょう。「歴史」という考えを重視した中国でさえ、社会は「堯峻の世」が最高で、それにいかにして近づくかという「後ろ向きの進歩」を考えた。仏教の一部では、「正像末」論といって、仏陀の教えが忘れられ失われていくからだんだん社会も人間も悪くなっていくといった歴史観すらありました。
 個々の魂が成長・進化するという考えは、ごく一般的な「年齢による成長」の延長としてはあったのかもしれません。孔子の有名な「われ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」は、まあ自画自賛の言葉らしい(笑い)ですけど、成長の理想型を示しているとも言えます。成人で終わりではなく、一生を通じて成長していくということを示したという点では、すごい思想かもしれません。面白いのは、日本の民俗信仰の霊魂観で、「死後、魂はあの世に赤子として生まれ、この世と同じ年齢階梯儀礼を経て、成長していく。それを現世の人はお祝いし、励ます(死者供養は生者の年齢階梯儀礼と同じ形式)。そして60歳(還暦)になると、魂はいっそう高級なものに生まれ変わる。個別名を失い、『祖霊』という集合体となって子孫たちを守護する役割になる(山へ行って山の神となり、春には田の神となって降りて来て作物を守り、秋には帰る)。現世の人はこれに伴って『祭り上げ』(供養の終了)をする」というものがあります。これ、単なる成長だけではなく、階層を超えた進化があるということで、さすが日本人は霊的感性を持っているなあと感心します。一方、こういった人間の成長論が、昔の西洋世界にあったのかどうか、ちょっと勉強不足でよくわかりません。

 何の話だかわからなくなりました(笑い)。まあ要するに、個人の成長という考え方は一般的にあっただろうけれども、社会の進化、人類の進化というような考え方は、確かに、ヘーゲル・マルクス、ラマルク・ダーウィンにならないと出て来ないのかもしれません(ウィキペディアには「1826年に匿名の記事がラマルクの進化思想を称賛した。このとき初めて現在的な意味で「進化」が使われた」とあります。ただ、生物進化論の evolution は「展開」の意味で progress の意味はもともとはないとされています)。
 だから、近代イデオロギーであって、一時代の神話である――かどうか。
 これは一概に言えないわけで、近代イデオロギーの中にも、「妄想」と「真理」とはあり、近代イデオロギーだから嘘、ということにはならないでしょう。むしろ、近代になって初めて人間が獲得した「真理の一表現」かもしれません。

      *      *      *

 話が全然進まない(笑い)。
 で、進化とは何か。進化が変化と違うのは、価値観が入っているということです。
 ヘーゲル・マルクスの社会進化論では、「止揚」されて出現した新しい状態は、前のものより優れているという捉え方があったわけですし、ダーウィン自身は進歩という概念はなかったようですが、その後の進化論では「人間という高度な種はどうして生まれたか」という価値判断はあったでしょう(科学にはこうした価値判断はあるべきではないので、今の進化生物学では「価値観」は慎重に取り除いているようですが)。
 低い段階から高い段階へ行く。この「高低」は何が決めるのか。
 マルクス(主義)では「富の分配が公正になされ、万人が経済的問題から解放されること」(?)
 ダーウィン(主義)では「種が高度になり、環境変化を克服できる能力を持つこと――その頂点として知性と道具を扱う人間」(?)
 まあ、どちらもいまだに人類がめざしている価値かもしれません。
 ただ、マルクスの方法は間違いだったということが明らかになってしまった(人間の知性では社会をコントロールできない)。
 ダーウィンの自然選択説や漸進的進化説は疑問が唱えられるようになり、また、進化論が科学になっていくに従って、「高低」といった価値は排除されていくことになった(今の進化生物学は、ダーウィンとはかなり違ったものになっているようです)。
 ある意味では進化思想は「失敗した」ことになります。
 (ちなみに小生は一時進化論批判に首をちょっと突っ込んだことがあります。まあ結局は小生のような文系素人では確かな主張はできないので放り出しましたが、小生の感じでは、ダーウィニズムはボロボロだと思います。そのことは機会があったらメモとして載せてみたいと思っています。)

 しかしながら、この二つの潮流が原動力となって、19世紀では「進化」思想はかなり優勢な思潮となったと思われます。社会はめざすべき形態がある、人類という種はさらに高度になる。それがめざす価値は、もっぱら「世俗的力」というものだったけれども(ダーウィニズムは人種の優劣という考え方でナチスまで行った)、科学技術が驚異的に発達した世界において、それは疑うべくもない価値だったと言えるかもしれません。

 スピリチュアリズムもこの時代に生まれたわけで、おまけに初期スピリチュアリストに、ダーウィンと同時に「生物の進化」の考えを持ったウォーレスがいたこともあって、人類はさらに進化するという考え方をスピリチュアリズムも(全部ではないでしょうが)言っています。
 ただ、スピリチュアリズムは、「生命の発生」「生物進化のプロセス」「人間の誕生のプロセスとその意味」「人間社会の歴史的発展のプロセスとその意味」「未来の具体的社会形態」「人間という生物の未来」といったことに関して、具体的なことはほとんど何も言われていません。生物進化論については、「ホモ・サピエンスという生物種が、ふさわしい進化をした段階で、人間の霊魂はそこに入るようになった」とか、「未来の人間は霊的能力をもっと発揮できるようになるだろう」といった断片的な言及があるだけです。社会の進化にいたっては、「古代人はもっと霊の世界に精通していたし、霊的存在と密接に交渉していた」くらいのもので、将来はこういう政治・経済体制が望ましいなどという教えはありません。
 このあたりのことはまた別の論議が必要でしょうけれども、端的に言うと、個人個人の霊的成長が問題であり、またその成長の課題というのは個人によって千差万別なので、「こういう社会を作れば万人の成長が達成するよ」というようなことは言えないからでしょう。あるいは、ひょっとすると、前に触れたように、幼稚園や小学校それ自体は成長するものではないということなのかもしれません(「人類は生物学的にはこれ以上進化しない」という言及もあります)。また、生物学や歴史学、政治経済学は、人間が苦労して探究するもので、こちら(霊界側)から教えるものではない、ということもあるかもしれません。
 ともあれ、スピリチュアリズムは、魂は進化する、霊的存在もまた進化する、と言っているわけですが、地球とか人類とか諸霊界自体の進化に関しては、ほとんど沈黙しているわけです。がっかりと言えばがっかりかもしれませんが。

 この時代(少し後)の霊的思想で、社会進化史や人類の霊的進化を論じたのが、シュタイナーです。彼は霊視によって「超古代レムリア大陸」以来の人類史の精神的進化を論じ(ただしレムリア超古代文明説は神智学のブラヴァツキーが最初に提唱したもの)、またこれからの人間の進化方向や将来の政治体制の提案までしています。
 神智学やシュタイナー思想=人智学に関しては、私にはどうも理解できないところが多いので、回避します(笑い)。ただ、このあたりの超古代文明論や人類の「再・霊化」の思想は、現代のニューエイジ思想に大きな影響を及ぼしているようです(たとえば「アセンション」論)。

 もう一つ、人類の進化に関して、注目しておきたいのがC・G・ユングです。ユングの業績は膨大なもので、おいそれとは論じられませんけれども、彼が中心主題とした「個性化過程」というのは、荒っぽく言うと(怒られそうw)、「無意識の部分をいかに意識化していくか」ということで、人間の進化を「意識の拡大」として捉えている点は、非常に重要だと思います。

 と、何を書こうとしているのかわからなくなってきました(笑い)。
 ともあれ、以下は次回。

 【注】フィオーレのヨアキムについては、前にTSLホームページのラウンジに小稿を載せたことがあります。あまり誰も見ないだろうから、この後に別文書で再掲します。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (今来学人)
2011-03-25 09:46:47
挑発してないです。。(笑
しかし「進化」がいろんな角度から論じられていること、勉強させてもらってます。

宗教進化論は一宗教の信者からすれば差別を冗長しかねず、扱いには注意せねばなりませんが、大師(空海)の十住心論とも関係してきます。大師にとって、魂の進化の極みは密教との出会い、それによる菩提心の発露に尽きてしまうのかもしれませんね。魂=心とするならば。ただしあの世の魂のこととなると何もいわない大師。現世主義なのかな。。
返信する
Unknown (今来学人)
2011-03-26 05:46:48
冗長->助長です。。。汗
返信する

コメントを投稿