スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

子どもは親を選んで生まれてくる

2011-02-09 10:25:46 | birch99的スピリチュアリズム周辺
堅苦しくなく、とっつき易い本があります。産婦人科のお医者さんの書かれた
’子どもは親を選んで生まれてくる ’(池川 明 著)という本です。

「ママのおなかの中は、暗くて、あたたかかった」

「ひもでつながれていたよ」

「トンネルをくぐって生まれたの」

「おなかの中からお母さんのおへその穴を通して外を見ていた」

「ぼくね、雲の上にいてね、ああ、あそこの家がとってもいいな、行きたいなと思
ってたんだよ。だからぼく、ここに来たんだよ。来てよかった!」


この本には、子どもたちの生まれてくる前の(前世の記憶も含めて)様子が、子ど
もたちの言葉で沢山散りばめられています。その言葉には、どれも素晴らしい輝き
があり、まさに小さな哲学者です^^

●要約

*生まれる前の記憶を語りだす子どもたちの語る内容は、細かい点は違っていても
 、だいたいのイメージは共通しています。

*それは、生まれる前は雲や空の上にいて、何人かの友だちとのんびり過ごしてい
 た、というものです。その世界は平和で穏やかで、神さまや天使や妖精たちが住
 んでいます。そしてふさわしい時期がくると、自ら望んで、どのお母さんのもと
 に生まれるかを決めて、トンネルやはしごを通っておなかの中に入るというので
 す。

*本書では、大きく分けて四種類の生まれる前の記憶を紹介しています。それは
 、胎内記憶、誕生記憶、中間性(いわゆるあの世)の記憶、過去世の記憶です。

*研究によると、誕生記憶の内容は、実際の誕生の時間、場所、居合わせた人、使
 われた器具、生まれ方などにおいて、事実とかなり多くの共通点があるばかりか
 、本人でなければ知りえない状況まで含まれていることが明らかになりました。
 (この研究は、’誕生を記憶する子どもたち 片山陽子訳 春秋社 などにまと
 められています。)

*アンケート調査の結果
・三人に一人の子どもに記憶がある。がしかし、子どもが自ら進んで話を始めたの
 は1%に過ぎず、ほとんどの子どもはお母さんの問いかけに答えるかたちなので
 、覚えていても大人には話さなかったという子どもも、沢山いたと推測されます
 。

・胎内記憶・誕生記憶は、六歳を過ぎると記憶の保有率が急に下がります。

・胎内記憶、そして誕生記憶でさえ、ネガティブな記憶よりもポジティブな記憶の
 ほうが圧倒的に多いようです。

・誕生記憶より胎内記憶の方が保有率が高い。(約10%ほど)
(要因としては、妊娠期間に比べて分娩時間がかなり短い。分娩中のストレス緩和
 ホルモンの分泌による痛みの忘却)

・帝王切開における陣痛の有無は、記憶の保有率にほとんど影響を及ぼさない。
(要因としては、記憶を残すホルモンと消すホルモンが同時に出て、そのバランス
 で記憶が決まる??)

・お腹にいたときお母さんに話しかけられた赤ちゃんは、胎内記憶・誕生記憶とも
 に保有率が高い。
--------------------------------------------------------------------------

本書のテーマは、子どもの過去世の記憶が符合するかの真偽を確かめるものではな
いとしていますが、霊界通信、退行催眠による中間性(いわゆるあの世)の記録と
照らし合わせても、表現は違いますが、子どもたちが言わんとしている事は、ほぼ
一致しています。


我が家の息子が生まれる前日、長女(当時3歳)は、家内に’明日、赤ちゃんが生ま
れるから早く寝るんだ’と言って寝たそうです。息子は家内のお腹の中からテレパシ
ーでメッセージを送っていたのでしょうか?それとも長女の守護霊が教えてくれた
のでしょうか?

二人はタイプは全く違いますが、今でもとても仲がよいです^^

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13 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Amazonのレビュー (真言坊主)
2011-02-09 12:57:32
ご無沙汰しております。この本に関して興味がありAmazonで調べていたのですが、気になるレビューがあります。これに関するご意見などを頂けたらありがたいです。

霊学概論出版して頂きたい。。柳田民俗学とも連なるような気がしてます。
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レビュー (高森光季)
2011-02-09 19:41:21
>真言坊主さま
Amazonのレビューの「気になる」というのは、虐待とかレイプとかのことでしょうか。

>birch99さま
レビューに「本書で男の子が精子だった時の記憶、女の子が卵子だった時の記憶という話が出てくる」とありますけど、本当ですか? 小生、読んでいないので。

返信する
仏教のカルマ(独り言) (真言坊主)
2011-02-10 10:08:52
はい、そうです。あbirch99さまの書いたものですね。失礼しました。

ちなみに仏教では生まれ変わりの際にカルマ論に基づいて(倫理的な)善悪の行為により(その当人にとって)好ましい・好ましくない結果をもたらすというようなことを言います。

ただしそれが差別思想をもたらすというようのはよく言われることです。その場合、例えばAさんという人がどういう視点からカルマを捉えるかかがポイントになります。Aさんが過去から現在の今をカルマの観点から捉える場合、私が今こういう境遇にあるのは過去のカルマのせいなのかと捉えれば、差別思想に繋がっていきます。一方で現在から未来の私をカルマの観点から捉える場合が、人生をaffirmativeに見れるので本義に近いと言われています。しかし現在の日本の仏教徒はこういったカルマ論を積極的に用いることを避けています。私の宗派でも差別思想(特に差別戒名の問題など)に対する勉強会などが同和教育などによって行われています。

ところが同じ仏教でもチベット仏教になるとそういうわけではないんですよね。ダライ・ラマや有名なリンポチェの本を読むとまずはカルマを仏教の基本的な教義として紹介しています。インド仏教の基本的な考え方により近いのがチベットの仏教ですからそれが王道なんだと思います。私もこっちに与したいのですが、日本の長い歴史と文化を考えると相当な努力を行う必要があるなぁと感じてます。

独り言というかぼやきです。
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Unknown (真言坊主さんへ)
2011-02-11 08:25:38
こんにちは。コメントありがとうございます。amazonのレビューを
見てきました。☆1~5まで様々な感想が書き込まれていますね。と
いうか極端に分かれているようです。

ご自分の人生に照らし合わせての感情的な感想が多く、とても近視眼
的ではありますが、スピリチュアリズムに関する事柄を人に伝える
時に浮き上がってくる意見と近いので、とても参考になりました。

私たちがいろいろな地点から山を登って真理を目指しているとしたら、
この世には、登り始めの人もいれば、真ん中辺りまで登っている人も
いる。頂上付近まで到達している人もいるでしょう。

そんな様々な人のいるこの世で、この本の中の人生差別とも捉えられる
ような箇所に関しては、当然いろいろな意見が出されると思います。

例えば、流産を経験したときに、「何で私がこんな目に合わなければ
ならないのか」と思う人もいれば、「この出来事が私に何を伝えよう
としているのか」と思う人もいるでしょう。

地上のとても厳しい環境や状態に置かれている渦中においては、その
状況を誰か(人・国など)のせいにすることで何とか生きている人も
いるでしょう。

カルマの問題を持ち出せば、状況の良い人は、浮かれ夢み、状況の悪い
人は、ふざけるな、そんな事信じられるかとなります。しかし、劣悪な
状況から光明を見出す人もいます。そんな人の場合の方が霊的な真理が
より深く根付く場合が多そうです。

少しまとまりがなくなってきましたが、要するに読者が何処まで山を登って
いるかによって受け取り方も違ってくるということでしょうか。特に多くの
人に関わる出産の問題ですから、なおさらの事だと思います。
返信する
Unknown (高森光季さんへ)
2011-02-11 08:39:10
いつのまにかイトミミズみたいなのになって、
それはものすごくたくさんいて、肩とかにバシ
バシあたる。ぼくは、数えきれないほどいっぱ
いあるものの一つ。レースしているみたいに、
泳いで走っている・・・

から始まって、受精、細胞分裂、自分がお腹から出る様子までを子どもの言葉で語っています。

「精子の記憶」として記述されていますが、
降りてきた霊が見ていたような感じですよ。
返信する
カルマ問題の難しさ (高森光季)
2011-02-12 01:16:34
>真言坊主さまへ
「私は親から虐待を受けてきた。それでも私はこの親を選んで生まれてきたというのか」という問いに、どう答えるか。
霊的に考えると、事実としては「たぶんyes」ということになるのでしょう。
「たぶん」というのは、人生の大きな悲劇や幸運は、たいていの場合、その人への課題としてあらかじめ設定されたもの(カルマ)であるけれども、まれに「偶然のアクシデント」のようなものが絶対ないわけではないから(すべてが決定されているわけではないので)。100%と断定はできないでしょう。
「わたしが視覚障害(先天にしろ後天にしろ)なのは、自分で選んだのか」という問いの場合も同じでしょう。
ただ、それを「あなたが選んだんだよ」とは、やっぱり言えない。人間には、他の人のカルマがどういうものかはわかるべくもないから。
また、仮に事実として選んでいたとしても、その選んだ「あなた」とそれを憤慨している「あなた」とは、同一ではないから(どちらも「あなた」なのに)。

わからないことはいっぱいありますね。
ダスカロスは「カルマの肩代わり」みたいなことも可能だと言ってますし。
本山博先生は、高度な霊的体験を積んでいけば、カルマの弁済が軽度化されるということを言っていますし。
いずれも私のような凡人には「!?」と思えてしまいますけれども。

カルマの法則はあるのだけれども、誤解や悪用にならないような、繊細な表現が必要で、それはまだできていないように思います。
現時点では、「人間にはカルマの法則をはっきりと把握する能力はないので、特に人のカルマに関して論じてはいけない」ということを明確にしておかなければいけないと思います。

>birch99さま
ありがとうございます。男児が精子で女児が卵子で、ということではないのですね。
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Unknown (真言坊主)
2011-02-12 10:11:52
birch99さま
>「何で私がこんな目に合わなければ
> ならないのか」と思う人もいれば、
>「この出来事が私に何を伝えよう
> としているのか」と思う人もいるでしょう。

これに尽きるように思います。しかしその霊的とも言える視点を理解して頂くのはなかなか難しいです。一番近い親類にも分かってもらえないし(笑)。布教者として失格。。(汗)

高森さま
憤慨している「あなた」の時点で選んだ「あなた」というのは消え去っているのでしょうか。消え去ってほしくないとは思いますし、何かその``兆候"を憤慨している「あなた」に与えてほしいもんです。
返信する
Unknown (高森光季)
2011-02-12 23:43:16
>真言坊主さま
またまた深奥を突いた問いをwww
その問題が解けるとかなり大きな展開でしょうけれども。
というか、むしろ仏教の方にこそ、そういう蓄積があるのではありませんか。
仏性論とか、機根論とか……。

ちょっとスレッド違いになりそうなのでここまでにして、また改めてこのあたりのことで記事を立てて見ます。
返信する
真言坊主さまへ (アラム)
2011-02-19 21:02:28
はじめまして。

チベット仏教では、転生には「輪廻」と「化身」があるようですね。

「輪廻」は盲目のまま、過去世における思念と行為によるカルマによって転生させられるもの。

「化身」は、自らの意志と選択によって、世界のため、他の者を救いたいがために転生するもの。

>憤慨している「あなた」の時点で選んだ「あなた」というのは消え去っているのでしょうか。消え去ってほしくないとは思いますし、何かその``兆候"を憤慨している「あなた」に与えてほしいもんです。

ニューエイジ系統では「ハイヤーセルフ」と呼ばれているもの、スピリチュアリズムでは「類魂」と呼ばれているものと関係してきます。

スピリチュアリズムの日本的なものでは、「幽界」、「霊界」、「神界」というように分類されていますが、この中の「幽界」が仏教で言う「六道輪廻」の世界に相当しています。

「幽界」層からの転生においては、地上に下りた魂は、その魂の「類魂」の「本霊」や「類魂の構成員」などの「より高級な自己」の決定によって、転生がなされているようで、「本霊の分霊」としての自分や「類魂」についての認識を持てないままに「転生」してくることになります。

「より高級な自分」は選択していますが、「地上的な意識、低我に囚われている自分」はその選択に気付いていないという状態になります。

「幽界」を脱し、「霊界」にまで到達すると、「類魂」についても認識し、「類魂全体の必要性」や「世界への貢献」のために、意識的に選択して転生することになります。
ちょうど、チベット仏教で「化身」として説かれているものと似ています。

「本霊」からは、常に「分霊」へ向けてインスピレーションなどを送っていますが、地上に下りた「肉体我と一体化している状態の魂」では、条件が整いにくく、「本霊からの働きかけ」に気付くことができないということになります。

退行催眠や今回の本のような子供からの記憶証言では、「自分で選んで誕生してきた」というものが多くなりますが、『生まれ変わりの村 ①~③』(森田健 著 株式会社 アクセス)では、仏教の「輪廻」と同じく、「何一つ自由意志が許されない、選択もできない」という「転生」の証言が集められています。

スピリチュアリズムにおいても、スピリティズムでは、こうした「自由意志による再生」と「強制再生」についての両方について報告されています。

「二、三の友だちの手助けを借りて先週お父さんを現界のあるところに預けました。わたしたちの配慮を気づかずに間もなく再生できるよう取りはからってあります」
(『われらの住み家』 フランシスコ・シアンディド・ザビエル 著 重栖度哉 訳 日伯心霊協会 P266)

「思いきって再生させる場合もあるのですよ。病人にその勇気がなくても、友人たちは苦い薬を飲ませて助けるものです。自由は無限だと言っても、ある種の霊には、自分の義務を悟り、それを果たす時にだけはじめて自由への権利が主張できるのです」(同 P267)

「そのことはもうすっかり調べあげているのです。先輩たちもそれが一番よいと同意しているのです」(同 P266)

以上が「強制再生」についての報告です。スピリティズムでは「類魂」についての報告がありませんので出てきませんが、ここで「類魂」による選択も関与したと思われます。

「母はきっぱりと現界へいく決意を語り、親身に計画の一部始終を打ち明けはじめた」
(同 P265)

「もうずいぶん前からお父さんを引き上げたいと思っているのですが、それがどうしてもだめなのです。ラエルトは現在ではもう心が毒されて、疑い深い人となっています。いつまでもいまのままではおられず、もっと深い迷いに落ち込んでいくかも知れないのです」

「ほんとうに愛するものは遠くから手をこまねいてばかりはいられないものです」

「子供たちを悪天候にさらしておいて、どうして自分だけが王宮に住めましょうか」
(同 P265)

「わたしにはもうこれ以上離れてはいられないのです」(同 P265―P266)

「わたしはルドビーカのところに身を寄せて、お父さんがまっすぐな道を進めるように助けたいのです」

「近いうちにわたしは現界にいきます。そこで神にお任せした任務につくためラエルトに会うことになるでしょう」(同 P266)

「でも、お父さんを追っかけているあの不幸な女たちは、いっこうにお父さんを見捨てないのです」(同 P267)

「これから何年かたって、あの人たちはわたしの娘になるのです。あなたのお父さんを助けるために再生するのだということをお忘れにならないように」

「あの気の毒な女たちは無知と我欲のぬかるみのなかで、重荷を背負っているようなものです。やがてあの女たちの一人一人を母としての自分のお腹にいただいて、新しい試練を果たし、更生を実現させていきたいのです」
(同 P268)

「この時を境に、母はもうわたしのたんなる母ではなくなった。みなを神の子の道に立ちかえらせるためには、死刑執行人をも自分の子供に迎えることのできる救いの使者となっていたのだ」(同 P269)

以上が「自由意志と選択による再生」の報告です。

さらに、「自由意志と選択による再生」の別のケースにおいて次のように伝えられています。

「わたしたちに忘れられないことは、ラウラ夫人がなみはずれた心の預金をもって再生することです」

「ラウラの新しい肉体を構成する上に関係の深い、生理学上の根本問題について、再生技術者が細心の注意を払うよう促されました」

「ああ、ほんとうに、遺伝のことでひどい目にあわないよう、事前の配慮をお願いしていたところですわ」
(同 P274)

この「自由意志と選択による再生」の人も語ります。

「こちらで学びましたものを忘れないように、みなさまがたの心霊援助を念願しつづけています」

「でも大臣さま、一時の忘却に沈むことがわたしにはこわいのです。いくつもの傷がいえたばかりの、病人でもあるかのような不安な自分を感じます。ほんとうにわたしはもうカイヨウには苦しめられてはいませんが、でも傷あとはまだ残っています。ひっかくだけで、病気が再発するかもしれないのです」(同 P272)

「類魂」について認識していない魂にとっては、「魂の忘却」がやはり不安や恐怖をもたらすようです。

>しかし現在の日本の仏教徒はこういったカルマ論を積極的に用いることを避けています。

日本の仏教では、「ゴータマ・ブッダは『無我』を説かれたので、実体としての『霊魂』を認めていない」と説かれることが多いようですが、「永遠の実体としての霊魂は存在しない」と「輪廻転生」をどのように関連付けているのでしょうか。
真言坊主さまの宗派では、どのようにされていますか?

「カルマ論」では、「輪廻」が前提となるので、「霊魂が存在しない。永遠の実体は認めない」とのつじつまが合わないので、積極的に用いることができないのではないでしょうか。

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birch99さんへ (アラム)
2011-02-19 21:29:04
興味深い書籍の紹介をありがとうございます。

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