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【生きるヒント】⑥この世は闇鍋

2011-05-12 00:09:04 | 高森光季>生きるヒント
 人間は皆同じ……ではない。
 このことは知っておくべきことであるし、精神衛生の面でも役立つ知識だと思います。

 人間は誰もが人間として平等であるし、誰もが人権や尊厳を持っている。これは当然の前提でしょう(と言ってもこうした善い考え方が行き渡ったのはごく最近だし、まだ行き渡っていない地域もあります)。
 しかし、人間の中身は、実に千差万別。Aさんにとって好ましいことはBさんには嫌なことかもしれない。Cさんにとって最重要の課題は、Dさんには「は?」となるかもしれない。

 「そんなことはわかってる」と多くの人は言われるかもしれません。でもこれ、けっこうわかってるようでわかってないところだと思うのです。
 たとえば、「あの人はこうするべきだ」と思う。そして「なぜこうしないのだろう」と非難したくなる。あるいは、「これはあの人の役に立つはずだ」と思う。そして相手が喜ばないと「なんと冷たい、わからんちんの人間だ」と悲しくなる。さらには、「あの人はあんなに成功してうらやましい」と思う。そして「自分はもっと優れているのに恵まれないのは神様の意地悪だ」と拗ねる。……
 他人のことを思いやることは立派なことですけれども、こういった思いは、むしろ自分で自分を苦しめるものですよね。
 で、精神衛生上有効な呪文は、「皆違うんだからしょうがない」。

      *      *      *

 この話は、単に精神衛生の問題ではなくて、霊学的に重要な話です。

 現行の科学主義的唯物論では、人間の違いは「遺伝」と「環境」によって生まれると考えます。
 もちろんそれらの要素は確かに影響があるでしょうけれども、人間というものはそんなものではない。
 たとえば、同じDNAを持った一卵性双生児の研究というのがありまして、同じ環境に育っているのに、(もちろん似た性格や生き方をする場合もありますけれども)一方は高潔な法律家になり、もう一方はかなりたちの悪い犯罪者になったというようなケースがあります。この違いは遺伝と環境では説明できない。唯物論者はおそらく「どちらが先にドアを入るか」などの環境要素だと強弁するかもしれませんけれども。
 一卵性双生児でも、場合によってはまったく来歴の違う魂同士ということもあるのですから、こうした違いが出るのは、当然でしょう。

 人間というのは、遺伝や環境の産物ではなく、「霊魂」です。
 で、霊魂は、様々な来歴を持っている。何回(何十回?)も生まれ変わりをしている古い魂もあれば、初めて人間として生まれた魂もある。
 また、霊魂は「類魂集団」に属しています。この集団にはどうもそれぞれに「個性」というか、「傾向性」というものがあるようで、属する集団が異なれば、魂の色合いも異なります。

 そういった様々な性質の霊魂が、物質という共同の場で、人間という生物学的には同じ形態を持って、出会っているのが、「この世」です。

 あまりにも異なった人間同士が近く接すると、摩擦が生じます。人間が生きていく上での苦労というのは、かなり多くが人間関係から生じるわけで、似た者同士ならスムースに行く事柄が、異なった人間同士だと、様々なトラブルを引き起こす。お互いに「ったくあいつは」とぶつぶつ言いながら(笑い)、暮らしていくのがこの世の定めです。
 魂が死後に赴く世界では、そうではない。魂は似たような発達段階、似たような志向性を持った魂と共に暮らすようです。これは楽でしょう。楽しいでしょう。
 けれども、それでは「魂の成長」にはならない、と言われています。異なる魂がぶつかり合い、傷つけ傷つけられしながら、苦悩していくのが、「魂が人間として生きることの意味」だということです。

 つまり、「この世は闇鍋」ということです。(あ、闇鍋って知らない若い人もいるかもしれませんね。これは余興の一種で、それぞれが持ち寄った材料を薄暗がりで鍋の中にぶち込んで煮る。そして箸でつかんだものは食べなければいけない。そういうパーティです。できるだけ変なものを持ち寄るのが面白いわけで、まあ、中にはタワシなどを入れる不届き者もいたとか。)
 様々な性質の魂のごった煮。相手はどんな魂なのか、出会ってみないとわからない。いや出会ってもなかなかわからない。
 そこでぶつかり合い苦労していくのが人間の生きる道であり、成長への道だと。

 だから、合わないヤツ、気に入らないヤツ、生理的にムリ!というヤツがいるのは、当たり前のことです。
 当たり前のことだから当たり前だと腹をくくる。気に入らない相手も、「魂の老若や属している霊団(=霊統)が違うのだから、仕方ない」と思う。むしろそういった相手と出会えるのがこの世の特権なのだから、積極的に相手がどういう魂なのか、自分とどう違うのか考えてみる。
 そういうふうに考えれば、多少の余裕が出てくるのではないでしょうか。
 さらに「ぶつかり合いも魂の鍛錬」と捉えられれば、立派なものでしょう。

 いやいや、精神衛生の話ではなかったのです。このことは、ちょっと霊学的な「謎」とも絡んでくる問題なので、先に進まなければなりません。続きは次回に。

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