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【生きるヒント】⑦魂の老若と霊統

2011-05-13 00:26:39 | 高森光季>生きるヒント
 どうもこの地球上に生まれている人間には、すでに何回(何十回?)も生まれ変わりをしている魂もいれば、まだ若い魂もいるらしい。

 老若というのは、なかなか論じにくい問題です。自分を棚に上げて「若い魂は」などと言うと、傲慢に取られます。別に老若は価値ではないのですけど(古いということはそれだけ何回も落第しているとも取れますねw)、ちょっとそういう誤解を生じかねない。
 まあ、それでもあえて、いろいろなところからの情報を総合すると、こういうことがあるようです(ちょっと表現は自己流です)。
 ・若い魂――「純粋/頑固」「活力/荒々しさ」「行動的/無思慮」「自由/迷走」
 ・古い魂――「複雑/不純」「洗練/弱々しさ」「諦観/不活発」「不惑/孤高」
 これはあくまで極であって、もちろんこの途中の「青年時代」「成熟時代」というものもあるようです。
 人の魂はもちろん、自分の魂の老若など判断できないのだから意味がない、という意見もあるでしょうけれども、ひょっとすると何かの参考になるかもしれません。世の中で秀でた活動をしている魂を見て、「ああ、自分もこれからああなれるな」とか「まあ、そういうことはもうやってきたから」とか思えば、気が楽になるかもしれません(笑い)し、美しいスローガンを掲げていながら低俗な活動をしている人たちを、「ああ、まだ若いから仕方がない」と思えるかもしれません(笑い)。

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 また、その魂が属している「類魂集団」自体の性格・傾向性も、どうもあるらしい。
 「類魂集団」の問題は、より重要で、複雑な問題のような気がします。
 これは時々、「霊統」というような言葉で表現されたりもします。
 たとえば、同じ宗教的な志向を持っていても、「外在する絶対者」を志向する魂もあれば、「内在的な聖性」を志向する魂もある。もっと具体的に言えば、キリスト教的な考え方が好きな人もいれば、仏教的、あるいは神道的な考え方が好きな人もいる。それはどうも、遺伝や環境ではなく、魂の色合いのようなものとしてあるように思われる。……
 これはけっこう地上では対立の要因になります(宗教戦争という意味ではなくて)。傾向が違うと、なかなか相容れません。うまく理解・共感もできないとすら言えるかもしれません。
 宗教的志向だけではなくて、もっと一般的に、社会性を重視する魂、対人関係を重視する魂、知や美を追究する魂、表現や創造を求める魂、といった色合いの違いもあります。こういった志向性も、ひょっとすると、「類魂集団」自体の性質なのかもしれません。

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 このあたりは、ちょっと際どい話になっていきます。際どいというのは、私的に得た情報なども含まれていますので、学術的とか客観的な考察ではないということであり、まあ、話半分に聞いておいてもらった方がいいということです。

 類魂集団というのは、いったい幾つくらいの魂から構成されているのか。
 これについては様々な説があります。マイヤーズ通信は30くらいとしていますが、もっと多いとする情報もあります。
 こういう食い違いは、情報の信憑性を損ねるものだと考えるむきもあるかもしれませんが、必ずしもそうだとは言えないでしょう。少数の集団もあるかもしれないし、かなり多数の集団もあるのかもしれません。また、レベルでの区切りによっても変わってきます。会社組織で譬えれば、「課」は十人単位だけれども、部になると百人単位になり、会社では千人単位になり、グループ企業全体では万単位ということもあるかもしれないわけで、「最小ユニット」で見るか、それをいくつか合わせた「中ユニット」で見るかによって、数字は変わるかもしれません。(また、ある魂の過去生をそれぞれ「一人格」と捉えると、数は当然増えます。現在地上に出ている魂は30だとしても、それぞれが10回生まれ変わっていて、それを別人格と捉えると300ということになります。こういう数え方は変だとしても、最小の類魂集団には300の人生が含み込まれていると考えると、ちょっと面白くはないでしょうか。)

 仮に、最小ユニットは30程度、中ユニットで1000くらいだったとしましょう。
 そうすると、現在地球上に70億の人間がいるとすれば、700万もの類魂集団「中ユニット」があることになりますね。
 この数百万の類魂集団は、果たしてすべて似たようなものなのか、それともそれぞれの集団によってかなり違いがあるのか。
 現世においても、民族や氏族や家族による「多様性」はかなりあります。だとしたら、霊的な次元では、もっと集団のありようも多様になっている可能性は高い。
 つまり、数百万ある集団によって、魂のあり方や、成長の道筋や、中間生(下部霊界)の様相も、かなり違うかもしれない。
 なんでこんなことを云々しているかというと、霊的な事柄に関する様々に異なる情報が存在するのは、こうした事情によるものではないか、そして、「人間の魂は死後も存続し、必要なら生まれ変わりをし、成長の道を歩む」といった「最低限の事実」はあっても、その先の様々な事柄は、類魂集団によってかなり異なる可能性があるということを指摘したいわけです。
 たとえば、「死後に赴く境域はどのようなものなのか」に関して、スピリチュアリズムでもその他の探究でも、いろいろな報告があります。私たちはつい単純に、そこは地上と同じような世界だから、その様相は一つだろうと思ってしまいますが、どうもそうではない。ある霊信の報告は、その霊が属している類魂集団に固有の「幽界」の描写であって、別の集団に属する霊は全然違う境域に赴くかもしれないわけです。
 また、やはり霊からの情報の食い違いとして知られていることに、「魂は何回くらい生まれ変わりをするものなのか」という問いがあります。これも「数回」という霊信もあれば、「数十回」「数百回」とする霊信・情報もあります。この問題も、あるいは集団によって異なるかもしれない。
 つまり、集団によって、比較的少数のものもあれば、多数のものもある、何度も生まれ変わって膨大な体験を集めるものもあれば、比較的少数回の生まれ変わりでよしとするものもある、そういう多様なあり方があるらしい。
 さらに、どのような地上の生を求めるかという点も多様であって、「ある特定の傾向を何度も繰り返す」ことをよしとする集団もあれば、「様々な面をバランスよく体験し成長していく」ことをよしとする集団もあるだろう、と。
 たとえば、ある類魂集団は、常に政治とか社会活動に邁進する地上生を選ぶとか、別の類魂集団は、特定の芸術とか思想とか宗教とかを繰り返し追求する、といったこともあるかもしれない。それとは違って、ある時には軍人を経験し、ある時には博愛主義者を経験するといったように、異なる様相の地上生を広く経験することをよしとする集団もあるかもしれない。
 地上の世界ですら、様々な個性を持った個人が寄り集まって複雑な「絵」を構成しているのですから、霊的な世界ではもっと複雑に、様々な霊魂集団が様々な個性を持って絡み合い、途方もなく複雑な「絵」を構成していることは、ある意味で当然なのではないでしょうか。神の想像力の実現は、同じ形の積み木を馬鹿みたいに重ねるようなものではないでしょう。

 もう少し具体的に見てみると、たとえば、何度も同じ国に生まれ変わる魂もあるようで、そういった魂は、その国の伝統的精神文化を守る役割があるのかもしれません。あるいは、特定の信仰形態を強固に保ち、この世でもあの世でもその興隆に寄与しようという魂もいるようです。たとえば、聖母マリア信仰を強力に持っている魂の集団は、この世でもそれを貫き、さらにあちらに行ってからも、聖母に関連する奇跡を起こしているのでしょう(グァダルーペ、ルルド、ファティマ、秋田……)。日本では「観音」に関連する霊団もあります(病気治療が主)。

 もしそういう可能性が高いとすれば、「万人にあてはまる霊的成長の手引き」といったものは、あり得ないことになります。シルバー・バーチ霊もこういったことは匂わせていて、「それぞれ探究しなさい」みたいなことを言っています。瞑想・祈り、そして奉仕ということを強調していますけれども、それはバーチ師の言葉に共感する人たち向けのものであるのかもしれません。マイヤーズ霊は、「博愛主義者・孤高の人・快楽主義者・禁欲主義者・聖者・賢者」の六つの人格をすべて発揮しなさいと勧めていますが、別の道もあるよというようなことを言っています。

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 人はぽつんと一人でこの世に放り出されているわけではありません。ほとんどの人は過去生を持っていますし、すべての人は何らかの類魂集団に属しています。そしてそれぞれなりに、追求すべき方向性、挑戦すべき課題を持っているわけです。
 だから、霊的探究の「中級」の問題として、「自分はどういった霊統に属しているか、どのくらい過去生を経験してきたか」といったことをおぼろげにでも知ることは、意味があるように思います。まあ、どうでもいいと思う人は別にそれでいいのですけど。
 これは別に霊能者のところへ行ってリーディングしてもらえとか、自分でトランス体験をして知れということではありません。そんなことをしなくてもできることです。
 それは、「自分の魂が何を愛し、何を求めているかを知ること」とか、「自分の人生に繰り返し出現してくる課題は何か」といったことを、じっくり考えてみればいいのだと思います。
 具体的なとっかかりとしては、過去の芸術、思想、歴史などで、取り立てて心を惹かれるものがないか探ってみる、ということもあります。そういうものを並べてみると、きっと何か「絵」が浮かび上がってくるはずです。
 ちょっと尻切れトンボですが、また何かの機会に。

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