スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

来客に

2010-08-15 23:56:37 | m.taizo>日常から
近所の古本屋で遭遇した元同僚との世間話が長引きそうになり、立ち話もなんだからと軽い気持で部屋に招きいれ、ヤッカイなことに気付きました。パソコン周囲に積み上げられていたり、棚に収まっている本の多くがスピリチュアリズム関連書籍で、所蔵本というのは個人の趣味や志向を無防備に晒しているものなのでただでさえあまり見せたくないものなのですが、それでもスピリチュアリズム学習以前はそれほど気にしておりませんでした。

昔からの習慣で元同僚を気安く招き入れたものの、『天使と妖精』『地上人類への最高の福音』『迷える霊との対話』『天国と地獄』、こうしたタイトルの本を見せてしまうのには抵抗があって、妙な宗教に勧誘されると警戒されるのではないか、とか、余計なことが心配になってくるわけです。

こちらが大事にしているものだからこそ、というのもありますし、他人がそうしたものと接するタイミングとしてこの状況はどうなんだろう?という思いもありました。元同僚からすれば「よく知らない元職場の先輩に招かれたところ“精神世界本”がそこらに転がっていてドン引き」あたりになるのかもしれません。

警戒されるのがとにかくイヤで「そこらへんの本、あんまり気にしないで」「宗教とかじゃないので」などと、つい先走って言ってしまったのですけれども、最近では「宗教ではないので」を決まり文句に強引な勧誘に励むいかがわしいセミナーが横行しているらしいですし、誤解されないにしても、なんだか隠さないといけない後ろめたいものみたいにスピリチュアリズム関連本を扱ってしまって余計によろしくなかったなと。

二十歳前後だったかな、渋谷の大型書店で当時仲良かった友人に精神世界コーナーに連れて行かれ「誰にも言ったことがないのだけれど」とエドガー・ケーシー本を読んでいることを告白されたとき、その友人の普段と違う真剣そのものの眼差しと口調に、当時の自分としてはトートツな話で、その迫力に気圧されつつ「ああ、そうなの」とただ軽く受け流しただけでした。

そのことについてはその後お互いに触れることもないまま、ケーシー本についてもついぞ読むことはありませんでしたけれど、ただ、当時は彼の気迫のようなものに気後れこそしたものの、そこに不純なものは感じなかったし決して不愉快な印象も受けませんでした。この時のことを時々思い出すことがあって、エドガーケーシーについては未だに読まないままですけれども、自分がスピリチュアリズムを受け入れるようになった今改めて思い返してみると、この時の経験もなんらかのカタチで現在の自分に繋がっているような気もしていて、それは何よりも彼の真剣さによってもたらされたものだろうと考えています。

それに比べて、元同僚に対して私の取った態度というのは、ある種の自己保身からただお茶を濁したというだけでして、相手が受け入れるとか拒否反応を示すとか以前に、せめてもう少し自然に振舞うべきでした。


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