スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

【霊学的イエス論①】キリスト教はイエス教ではない

2010-08-16 00:14:22 | 高森光季>イエス論・キリスト教論
 キリスト教はイエス抜きにはありえない。
 これは誰もが認めることだろう。

 よくよく考えてみると、特異な宗教である。
 仏教では確かにブッダ=ガウタマ・シッダッタは開祖として崇拝されているし、その言葉は典拠とされている。しかし、ブッダ=悟った人はたくさんいたとされるし、重要なのは教えであって、ガウタマさん個人ではない。日本仏教になると、ガウタマさんより各宗派の祖師の方が前面に出てしまう。
 イスラームでも、ムハンマドは絶大な崇敬の対象だが、彼は「預言者の一人」であって、重要なのは彼を通して得られた「神の言葉=クルアーン」である。
 神道にいたっては、そういうような人物すらいない。

 キリスト教は、イエスは「神のひとり子」だという。全人類史を通じて、イエスだけが、唯一の神の子供であり、神と同格の存在なのだという。そしてそういう存在の出現は「一回きり」「空前絶後」だという。

 キリスト教信者の方々には申し訳ないが、この考え方は、幼稚で、非合理・無根拠で、傲慢だと私は思う。

 《聖書に関するキリスト教の根本的主張は、他の宗教の聖典とはちがい、そこに記されているのはたんに教祖の言行や教訓ではなく、まさしく神の言葉だ、というものである。〈神の言葉としての聖書〉という考えは、神はたんに自然界の事物を通じてではなく、歴史のなかでより親密なしかたで人間に語りかけること、さらに永遠のロゴス(言葉)である神が人間となってこの世界に入ったこと(受肉)を前提とする。したがって、信仰をもってキリストが人となった神であることを肯定しないかぎり、聖書を神の言葉として受けいれることは不可能である。》(『CD版平凡社世界大百科事典』稲垣良典)

 まあ、信仰は自由だから、どうぞと言うしかないけれども、私はこういう物言いを好きではない。というか、福音書の中でイエス自身が「あんたたちは神の子だよ」と言っているのを、どうやって読み違えるのか、私には理解できない。
 もうひとつ言えば、キリスト教の歴史の中で度々言われる「不合理ゆえに信ず」を、私は詭弁だと思う。パンがどうやってキリストの身体となるかをめぐっての神学論争は、愚劣だろう。まあ、それも「ご自由に」だけれども、私は奇妙奇天烈な言説こそ信仰の証であるという立場は拒否する。

 喧嘩を売っているわけだが、喧嘩を売るのは事情がある。
 私は共観福音書(特にマルコ伝)に書かれたイエスが好きである。人間的にも大好きだし、彼の説いた言葉(「とおぼしきもの」という留保をつけておくことにする)に、大いなる真理を感じる。それは人類の霊的言説として最高の部類に入るものだ(唯一ではない)とすら思う。
 しかしキリスト教はそれをねじまげ、毀損した。
 だから喧嘩を売りたいのである。(まあ、もうひとつ言えば、私の前世問題に関する事情があるのだけれども、それは言っても仕方のないことである。)

 キリスト教はイエスの宗教ではない。
 これは私が言い出したことではない。近代聖書学をまともに(つまり護教主義・教条主義を捨てて)学んだ人なら、多かれ少なかれ抱く感慨である。
 キリスト教には様々な派閥があるが、さすが言葉を重視する文明というべきか、「これがキリスト教の最大公約数ですよ」という文言がある。キリスト教最古の信仰告白として知られる「ローマ信条」(2世紀後半)にもとづいてつくられた「使徒信条」で、早くから「公同の信条」として用いられてきた。
 《我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に坐したまえり。かしこより来りて、生ける者と死ぬる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン》
 ここにはイエスの思想はほとんどない。というか、イエスが主張したことの肝心な部分はほとんど採用されていない。「イエスは神の独り子」は、イエスの死後数十年後に成立したヨハネ福音書が主張した思想であるし、「聖霊によりやどり処女マリアより生まれ」も、イエスの生前や死直後にはなかった、余計な思想というか神話である。「身体のよみがえり」に到っては、イエス自身はっきりと否定している。
 じゃあキリスト教とは何なのか。端的に言えば、イエスという事件にまつわる解釈であり、そこにはたくさんの異なった思想が入り込んでいる。ユダヤ教、洗礼者ヨハネ教団の思想、パウロの思想(パウロはイエスを直接知らないし、共観福音書も知らない)、福音書記者ヨハネの思想、中東の神秘主義的宗教思想、その他。

 イエスの思想とキリスト教との乖離・矛盾を指摘した言説は少なからずある。
 近代聖書学の知見をもとに、「逆説的反抗者」「時代を先取りした人間」というイエス論を展開した田川建三氏の著作『イエスという男』(初版1980年)は、その代表例だろう。
 正直に言えば、私は田川氏のその本に衝撃を受けたし、そこに描かれた「人間イエス」の主な部分に、全面的な共感を覚えた。
 けれども、「違うだろう」と言いたいところもある。何よりも、田川先生の立場は無神論・唯物論に近い。僭越ながら私はそれに反対である。私はスピリチュアリストであって、神も霊魂も天使も認める。
 スピリチュアリズムの立場から言えば、イエスは人間である。そして優れた霊能者である。さらに非常に高次な霊的教えを説き、高次に霊的な生き方をした。イエスの言動の記録はそれをある程度正当に伝えている。
 こういうことを言うと、正統キリスト教徒からは「神の子にして人類一回切りの奇蹟なのだから霊能者うんぬんはけしからん」と言われるだろうし、近代イエス学者からは「古代の神話をそのまま捉えるのは阿呆である」と言われるだろう。しかし、スピリチュアリズムの見地から言えば、イエスが起こした超常現象は、かなり素晴らしいものであったにしても、基本的に霊能者が起こす霊的現象と同じである。霊能者は人間であるし、最高の人間ともなりうる。「神の子」の視点からアクロバティックに読み替える必要もないし、奇蹟は古代神話だと切り捨てる必要もない。

 だから、僭越ながら、そういう視点を踏まえて、私なりのイエス解釈を述べてみたい。そして、それを通して、宗教というものが抱え込んでしまう陥穽をいささかなりとも明らかにできればと思う。
 またまた長々しくなるが、一風変わった読み物としてお付き合いいただければと願う。

最新の画像もっと見る

11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
イエス・キリスト (へちま)
2010-08-21 10:14:04
私は最近、イエスは地上に降誕した神であると思うようになりました。スエデンボルグを読み始めたころは、イエスが神であるという記述に違和感を覚えたのですが、年をとると幼稚になるのでしょうか?
神とは全知・全能の創造者であり、唯一の生命であると定義すれば、神は唯一人であることは自明です。キリストが多神礼拝を禁じている内意は、自分自身を神のようなものであると考える自己愛を戒めているからです。最も法外な自己愛に取り付かれて自分自身が神にようなものであるという信念を抱いたネピリムという古代の人々に関しては私のHPを参照して下さい。
イエスが神であるかの真偽は天界へ行かなければ確認できませんので、議論は避けたいと思います。
返信する
Unknown (高森光季)
2010-08-21 13:41:59
へちま様へ

信仰は自由ですから、個人的に何を信じても批判されるべきではないし、私ももちろん批判するつもりはありません。(ここで批判しているのは、公共的な思想・世界観としてのキリスト教です。)

>神とは全知・全能の創造者であり、唯一の生命であると定義すれば、神は唯一人であることは自明です。
私が探究してみた限りでは、「全知全能」というのは定義曖昧で、場合によっては矛盾をもたらす言説だと思っています(確か近代の哲学者でもこの命題を「成立不能」としている人がいたはずです)。極言すると、これは人間や万物の自由活動を否定することになり、宗教そのものを否定することになりかねません。キリスト教でもこれを敷衍した「救済決定論」(ジャンセニズム)が生まれましたが、これはおそらく異端でしょう。
「唯一の生命」という定義もちょっと現代にはそぐわないように思います。非生命領域が存在するのか否かという問題になりますから。
そもそも「神」とは公共的な次元では定義不能で、おそらく唯一可能なのは「全宇宙が因果論的に成立しているのであれば、その第一原因」ではないかと思います。ただしこの条件説が正しいか、正しいとしても、第一原因を人間が把握できるか、交渉できるかというのは別問題です。
要するに、「神」というのは公共的な議論は不能ではないかと思います。

>キリストが多神礼拝を禁じている内意は、自分自身を神のようなものであると考える自己愛を戒めているからです。
この「キリスト」とは誰のことでしょうか。私が勉強した範囲では、イエスがこのように言っているところはありません。というか、当時のユダヤ教では「自分自身を神のようなものであると考える」思想は存在しなかった(ありえない)でしょう。
また、私がキリスト教を批判しているのは、キリスト教こそこの「自己愛」に陥っているのではないかということです。そしてそれは「われわれが奉じるイエスこそ唯一の神の子」ということから来る「最も法外な自己愛」ではないかと(もうちょっと厳密に言うと「唯一の神の子への独占的アクセス権」と言うべきかもしれません)。

公共的な言説として「イエスが唯一」と主張するのであれば、その根拠を示す義務があります。もちろん個人的な信仰は自由ですが、私は史料から考えるとイエス自身はそのようなことを言ってはいなかったと考えており、それを公共的な言説として表現できないかと考えているわけです。
別のコメント欄にも書きましたが、私はインペレーターの次の表現に共感します(インペレーターを絶対視しているわけではありません)。
《われらは一つの信仰を唯一絶対と決め込み他のすべてを否定せんとする態度にも、一顧の価値だに認めぬ。真理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねる。いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に誤れる夾雑物も蓄積している。》
《すべての啓示は人間を通路としてもたらされる。ゆえに多かれ少なかれ、人間的誤謬によって脚色されることを免れないのである。いかなる啓示も絶対ということは有り得ぬ。信頼性の証は合理的根拠の有無以外には求められぬ。……正しき理性的判断よりほかに勝手な判断の基準を設けてはならぬ。啓示をよく検討し、もし理性的に得心が行けば受け入れ、得心が行かぬ時は神の名においてそれを捨て去るがよい。そしてあくまで汝の心が得心し、進歩をもたらしてくれると信ずるものに縋るがよい。……》(モーゼス『霊訓』)

なお神については、TSLホームページ(http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/2-8..html)もご参照ください。
返信する
高森 様へ (へちま)
2010-08-21 16:13:35
私の宗教に関する知識は全てスエデンボルグとスピリチュアリズムに依るものです。
特にホワイト・イーグルは好きで、イエス・キリスト霊とか大神霊と表記されているものとスエデンボルグでの主イエス・キリストとは同じ神なのだと信じています。シルバーバーチであれば大霊でしょうか?
モーセの十戒でも多神礼拝を禁じていたと思います。キリストという私の表記が誤解を生んだかも知れません。
神の全知全能と人間の自由が矛盾するのではないかとの御指摘ですが、スエデンボルグに拠れば、人間の自由は神の摂理であります。人間に自由がなければ、自分自身の悪を知り霊的に成長することができません。例えれば、夏休みの宿題を自分でやらずに親が完成させては力がつかないということだと理解しています。
もし、死の間際に神を承認する呪文を唱えれば天国へ行けるとすれば、誰も苦労して悪を罪として避け、善を求める生活をしないでしょう。
粗っぽい話ですが、御容赦下さい。
返信する
Unknown (高森光季)
2010-08-21 17:31:46
へちま様

「人間に自由がなければ、」以下のご意見は私もまったく同感です。また、インペレーターがキリスト教を批判しているのは、まさしくこの点です。

私が言っているのは、人間には神を定義することも論じることも、公共的には不可能だというであり、望ましくないということです(かろうじて「否定神学(神は~ではないという論)」くらいかなと)。「全知全能」とかいう形容も、不要で誤解のもとだと。(これは私が神を信じているか否かとは関係ありません。)

「多神礼拝を禁止」とはスウェデンボルグの教えですか?
「多神教」と「一神教」は、神の概念が違います。たとえば神道では、神は、端的に言えばスピリチュアリズムの「高級霊」(自然霊を含む)のことで、それは多数いるのが当然です。それに祈ることは何の問題でもありません。
それを礼拝することが「自己愛」になるわけではないでしょう。
ちょっと私の理解力が足りないのかもしれませんが、「キリストが多神礼拝を禁じている内意は、自分自身を神のようなものであると考える自己愛を戒めているからです」というのは、どうも理解できません。出典はどこでしょうか。

一神教の問題点は、把握も交渉も人間には不可能な神を、「われわれが独占している」と思うことではないでしょうか。
スピリチュアリズムでも「人間には神は理解できない、われわれのような存在ですら明確にわからない」と言っています(インペレーターの霊訓)。「われわれだけが知っている、後は屑だ」というのは、公正な態度でしょうか。
どのような信仰も許されるでしょうが、こうした態度は公共的には非難されるべきだと私は考えています。

私がこうした場を通じて大事だと思っていることは、個人的な信仰を一方的に告白することではなく、知見や意見が公共的な意義を持ちうるかだと思っています。
へちま様にも、スウェデンボルグなどをベースに、「こういう根拠がある」「こういう解釈可能性がある」といったお話をいただければ、ありがたいと思っています。
返信する
一神教 (へちま)
2010-08-21 19:00:16
スエデンボルグの「遺稿-黙示録講解」の932-1028に挿入された「モーセの十戒」などの関する抜粋を以下に示します。

主は、これらの悪が罪として取り除かれない限り、人間のもとへ入って人間を導かれることはできないということである。なぜなら、それらは奈落のものであり、人間の許における地獄であり、地獄が除かれない限り、主は入って天界を開かれることはできないからである。
このことが富んだ人間に言われた主の御言葉により意味されるものである。

彼は永遠の生命について主にたずね、「自分は青年時代から、その十戒のいましめを守ってきました」 と言った。主は彼を慈しみ、一つのことが彼に欠けていると教えられた。すなわち「あなたは、その持っている全てのものを売り、十字架を取り上げなくてはならない」と教えられた。(マタイ19.16-22)

「彼が持っていた全てのものを売ること」は、彼の宗教(ユダヤ教の事項)を放棄しなくてはならず、また彼は自分自身のもの (神にまさって自己と世とを愛し、自分自身を導くこと)を放棄しなくてはならないを意味しているのである。

「十字架を取り上げる」とは自分自身のものから発している悪と誤謬とに反抗して戦うことを意味している。

主に従うとは、主のみを承認し、主により導かれることを意味しており、それでまた主は言われたのである。
「なぜ、あなたは私を善いと呼ぶのですか、神のみを除いてはたれ一人善くはありません」

十戒に列挙されている悪は、存在するあらゆる悪を含んでおり、十戒が十のいましめと呼ばれているのは、「十」は凡てを意味するためである。
第一のいましめである 「あなたは他の神々を拝してはならない」 は、自己と世とを愛さないことを含んでいる。なぜなら、各々の者の神とはその者が凡てのものにまさって愛するものであり、自己と世とを凡てのものにまさって愛する者は他の神々を拝するからである。

なお、スエデンボルグは天使(高級霊)は人間と同様に主の生命を受ける器であり、唯一の生命である神(主)以外を礼拝すべきではない、と述べていたと思います。もし複数の神を仮定すると、秩序と調和のある生命は不可能だと思います。これらの出典は忘れました。
返信する
Unknown (高森光季)
2010-08-22 00:00:14
へちま様

ご教示ありがとうございます。

>第一のいましめである「あなたは他の神々を拝してはならない」は、自己と世とを愛さないことを含んでいる。なぜなら、各々の者の神とはその者が凡てのものにまさって愛するものであり、自己と世とを凡てのものにまさって愛する者は他の神々を拝するからである。

これはスウェデンボルグの言葉なのですね(霊の言葉ではなく)。
ちょっと私には理解できないところがあります。ユダヤ教こそ、イエスに言わせれば「自己と世をすべてのものにまさって愛し」ていたような気がしないでもないですし。
ユダヤ教もイエスも「神をすべてにまさって愛せ」と言っていたと思いますが。そうすると自己と世を愛することになるのでしょうか。ちょっと論理的によくわかりません。
(なんか、スピリチュアリズムとはだいぶテイストが違う気もしますが……)

スピリチュアリストの中にも、キリスト教の神の唯一性を信じ、イエスを唯一の神の子と信じる人もいるようですので、そこはそれ以上、踏み込みません。
ただ私はその立場は採りませんし、「自分の神が唯一で、ほかは偽物」という態度を取る人には反対します。

もうひとつだけ付け加えます。スピリチュアリズムの霊信には、「イエスを神の子としてしまうことは、イエスの生き方を人間がめざすべき手本とすることを妨げてしまう(神の子だからあれだけできたので、人間には無理)のでよろしくない」という意見もあります(確かマイヤーズ通信だったと思いますがほかにもあったかもしれません)。私もこの意見に共感します。
返信する
追伸 高森さまへ (へちま)
2010-08-22 08:02:11
シルバーバーチの話を以下に抜粋します。

神、私のいう大霊はすべての存在に宿るのです。
私にはイエスを過小評価するつもりは毛頭ありません。今この時点でなさっているイエスの仕事を知っておりますし、ご自身は神として崇(あが)められることを望んでおられないことも知っております。

また、スエデンボルグは霊や天使と日常的に交わり、聖言に関しては主から直接教えを受けて書いたと述べています。(天使や霊は嘘や間違いを教えることがあるそうです)

一神教の良いところは、他人の神も自分の神も同じものだと信じられるところです。神の名前がイエスであっても大霊であっても仏であっても同じものです。「自分の神が唯一で、ほかは偽物」という態度を取る人は多くの神がいると勘違いしています。
返信する
Unknown (高森光季)
2010-08-22 15:16:58
へちま様へ

>一神教の良いところは、他人の神も自分の神も同じものだと信じられるところです。

そういう一神教があれば、いいものでしょうねと私も思います。
歴史上の一神教は、「自分の神が唯一で、ほかは偽物」という思想だったのではないでしょうかと言っているわけです。
理想であり、おそらく霊的真理であろう一神教と、「イエスのみが神の子、新約のみが聖典」という考え方は、乖離がありませんか、ということを言いたいわけです。
返信する
一神教 (アラム)
2010-10-29 00:17:49
>そういう一神教があれば、いいものでしょうねと私も思います。
歴史上の一神教は、「自分の神が唯一で、ほかは偽物」という思想だったのではないでしょうかと言っているわけです。

そうとは限らないのではないでしょうか。

「(1)神はただ一つ、”大霊”がおわすのみと心得よ。」

「大霊を畏敬せよ。それと同時に、他人がそれをどういう形で敬おうと、それを尊重せよ。
なんとなれば、すべての真理を手にした者は一人としていないのであり、自分が敬虔なる気持ちで敬っているものは他人からとやかく言われる筋はないのと同様に、他人が聖なるものとしているものには敬意を払わねばならない。」
(『レッドマンのこころ』 アーネスト・シートン 著 近藤千雄 訳 北沢図書出版 P33~P32より)

へちまさんの言われるような一神教も確かに存在したようですね。

「同じ神をわれわれインディアンも崇めている―その崇め方が違うだけ、ということなのでしょう。大霊がこの地球をお造りになった時、レッドマンにはレッドマンの方法を、ホワイトマンにはホワイトマンの方法を、お授けになりました。それぞれに人種が違い、生活が異なるからです」
「われわれはこれまでどおりの信仰を維持すべきであり、あなた方はあなた方の信仰を維持すればよいのです。お互いがそれぞれの手段で神に向かえばよいのであり、ケンカをしてはなりません」
「あなた方に信仰を押し付けるようなことをしません。あなた方なりの信仰に敬意を表します。それがあなた方の神の理解の仕方であると考えるからです」
(同 P26)

スピリチュアリズムの信仰の仕方と一致するのではないでしょうか。

返信する
Unknown (高森光季)
2010-11-21 20:08:15
 何か大意がうまく伝えられなかったようなので、改めて「一神教批判」について書いておきます。

 歴史上の一神教は、
 ユダヤ教の選民主義、自己中心主義(エスノセントリズム)
 キリスト教の異端弾圧、帝国主義(自己優位主義と拡張主義)
 イスラームの他宗教排撃
といったよろしくない展開を見せてきたことは否定できないでしょう。
 そして、それは単に社会的発展としてそうなったとか、文化・人種に原因があったということではなく、一神教というロジックの中に、そうした悪を助長する要素があったことも否定できないように思います。それは、
 ・一元主義
 ・真理の措定(言説の権力化)
 ・上記から導かれるアクセス権の独占
というようなものだと考えられますが、これについて論じると長々しくなりますので、ここではやめます。一元主義の問題については、TSLホームページの「現代の知の風景と霊学」に少し論じていますのでご参照ください。

 「誰もが全体を独占することはできず、様々な宗教の言説(自説も含めて)は、それぞれ神(真理)の部分に過ぎない」という立場は、おそらく20世紀の「文化多元主義」(19世紀の帝国主義の反省から生まれたもの)になって出てきたものだと思います。またキリスト教内の「エキュメニズム」運動のこれに並行するものだと考えられます。
 こうした説は、倫理的態度としては、それまでの自己中心主義を解消し、他者を(彼らが思っていた「遅れた文明」を含め)尊重する非常にすぐれたものだと思います。しかし、意味論的な言説としては、これは無理です。xはAであり、Bであり、Cであり、Dである、という無限の定義を認めると、結局xは定義できないものとなります。
 これは解決しがたい矛盾であって、多元主義・相対主義の立場に立つことと、神学の定立はどこかで矛盾をきたし、どちらかを放棄せざるを得なくなるのではないかと私は推測しています。で、私自身は、「公共的議論としての神学の棚上げ」をすることが必要なのではないかと考えているわけです。

 一神教を批判することは、倫理的態度としてよろしくない、それも自己中心主義の一つだ、という批判があるかもしれません。まあ、しかし、一神教は巨大な権力ですから、そういうものを批判することは有意義だと私は思っていますし、これからも一神教批判はしていくつもりです。ただ、それは、違う神学を提唱することではなく、「一元論は人間には不可能」「アクセス権の独占の主張は間違い」といった「メタ宗教」としての批判であるべきだと思っています。
 また、私はスピリチュアリズムは単に「新たな宗教」なのではなく、「メタ宗教」としてこれまでの宗教に対する批判を積極的に展開するものだと考えています。

 もうひとつ、私は、高級霊が述べている神論や宗教論を否定するつもりはありませんし、それは傾聴すべき教えだと(金科玉条として信じるのではなく)思っています。ただ、私たち人間は、そうしたことを語る資格はないだろうとも思っています。
返信する

コメントを投稿