ちょっとあちこち嗅ぎまわっていたら、こんな文章に出くわしました。
《釈迦は、これらの苦しみ〔四苦八苦〕を直視し、乗り越えるために長い間努力した。そしてついにどんなことに出会っても、平静な気持で人生を送れる境地に達した。これが悟りである。したがって、釈迦の解決すべき課題は来世にあったのではなく、現世にあったのである。悟りを得た者が、すなわち仏である。逆にいえば、仏に成るというのは悟りを得ることである。当然ながら、長期間の工夫と努力が必要である。また、人間は悟りを得ることができる存在であるという認識が前提にある。》
僧侶でも仏教学者でもないですが、仏教関係の研究をしている権威・名声の一応ある学者さんの文章です(個人を誹謗するのが目的ではないので、名前は出しません)。
僧侶でも仏教学者でもないので、いわゆる「一般的理解」でしょうけれども、どうもこういった捉え方は、広く受け入れられていると同時に、専門仏教界でもかなり支持されているのではないでしょうか。これに似た言説はその筋から何度も聞いたような気がします。
しかしねえ……
根本を見落としているというか、矮小化しているというか……まるで、グランド・キャニオンが養老渓谷になったみたいな気分(笑い)。
結局、「他界」問題(超越界)を一切切り捨ててしまうから、こういうことになるのでしょう。
そしてさらに言えば、こういう視点から過去の仏教を論じても、肝心なところが抜け落ちてしまわないか、という危惧もあります。
仏教は確かに「他界」排除という傾向があります。しかし、それを抜いてしまったら、仏教全般の活動は理解不能でしょう。
何度も書いてきましたが、釈迦の思想は「輪廻」という前提抜きでは成立しません。そして、諸仏教の活動は、仏菩薩や浄土という超越存在・超越世界抜きでは成立しません。
* * *
じゃあお前はどう言うのか、と当然言われそうですので、現時点での意見を言います。
釈迦の探究課題は、「いかにしたら苦でしかない六道輪廻を超脱できるか」であり、その解答は「悟り」と呼ばれる「何か」(叡智? 体験?)を獲得することであった。ただ、「何か」とはどういうものか、どうやったら獲得できるかは曖昧なまま残された(輪廻を超脱するとどうなるかも言及されなかった)。その後の仏教は、この問題意識の上に、「無神論vs有神論」「空(反実体)論vs仏性(イデア)論」「個人救済(達人宗教)vs大衆救済(大衆宗教)」「内向的探究vs外向的探究」といった激しく相対立する極を抱え込み、さらには呪術、迷霊鎮撫といった要素も含み込んだ、巨大なカオスとなった。ただし輪廻超脱という主題はかろうじて残っていた。しかし、近代になって「輪廻」が排除され、仏教は仏教でなくなった。
異論反論は当然あるでしょう。しかし、「輪廻」問題抜きに仏教を語ることは、仏教の自殺だと私は思っています。
(ちなみに、「輪廻」というのは一種誤訳で、原語は「サンサーラ」、「流れ」だそうです。何かぐるぐる回るというとちょっと特殊なイメージになってしまいますね。)
* * *
輪廻の問題は、取り外しのできる「思想的オプション」ではありません。それは端的に言えば、霊的事実です。ところが、現代仏教は、一時「差別戒名問題」で苦労したトラウマから、それを避けよう避けようとしています。
東大名誉教授・仏教学という最高権威の人の言葉を引きましょうか。
末木文美士『思想としての仏教入門』(トランスビュー、2006年)からのものです(174-180頁)。(OCRなのでこの前みたいな誤植があるかもしれませんw)
《差別の思想
インドのカーストの差別は、業と輪廻の説に密接に結びついている。業と輪廻についてはすでに触れたが、行為の善悪によって次の生の境遇が決まり、それを永遠に繰り返すというものである。その際、生まれ変わる境遇としては、上は天の神々から、下はさまざまな動物や、さらには地獄が考えられ、それを六道に整理する。この業-輪廻の思想が差別に結びつく。というのも、低いカーストやカースト外の不可触民に生まれるのも、やはり悪い行為をなした報いと考えられるからである。
これはインドのことだけではなく、日本でも江戸時代、被差別に布教する際、そのような境遇に生まれたのは前世が悪かったからであり、それゆえ現世の境遇を甘んじて認め、その代わりに現世でよい行いをして来世によい生まれを得るようにと勧められた。このように、業-輪廻の思想は差別を固定化し、よい境遇の人には自分が恵まれていることを合理化し、悪い境遇の人にはその境遇に甘んじるように諦めさせる役割を果たしてきた。社会的な階層だけでなく、身体の欠陥や夭折、その他さまざまな不幸もこうして説明された。》
《業-輪廻説をどう見るか
いずれにせよこの後、業-輪廻の説は、いわゆる因果応報説として東アジアでも定着してゆく。しかしその際、本当にそれが正しく受け入れられているかというと疑問がある。例えば、「親の因果が子に報いる」という言い方がなされるが、これは自業自得の原則からいうと奇妙である。また、死後四十九日経て輪廻するという説に従うならば、その後生きている人たちがいくら功徳を廻向しても、もはや意味はないはずであるが、実際には一周忌から三回忌、七回忌と続き、日本の中世以降は三十三回忌まで行われる。これは仏教自体の原理からは説明できず、むしろ、人が死んで祖先神に一体化してゆくという、日本の民俗化した発想から説明される。
このようにみてくると、はたして業-輪廻の説をどうしても受け入れる必要があるかどうか、もう一度検討し直す必要があろう。仏教は、業-輪廻の説を前提とするインド思想の流れの中にあって、必ずしもそれを前提とせずに理解できる要素が少なくない。
もちろん業-輪廻の説が持つ優れた点も認めなければならない。業-輪廻の説は、私たちの中に巣食う、醜く頑固な欲望の由来と、その癒しがたさを教えてくれる。前章で触れた「無始の無明」とは、こうして現世に生まれる以前から、その始めさえも分からないほどの過去世の積み重ねの中で蓄積されてきた無明のことである。それは現世でさらに一層悪化の度合いを深め、未来永劫にわたって続いてゆく。その深さに気づくとき、私たちは慄然としないわけにいかない。その絶望から、はじめて人生を真剣に考えてゆく端緒が得られるのである。
しかし、にもかかわらず業-輪廻の思想が差別の固定化を招いたり、あるいは場合によっては、仏教が人々を脅すのに用いられるとしたら、非常に危険な思想である。不幸に苦しむ人に向かって、あなたの不幸は過去の業によるのだから、その業を断つために必要だといって、理不尽な要求をして、人の不幸を食い物にする宗教もないわけではない。
業-輪廻の説は、先に触れた大乗経典の神話的言説と同じレヴェルの言語とみるべきであろう。それは事実を説明する言葉ではない。事実として自分が過去世にいつどこでどのような境遇であった、というのはおよそナンセンスで、証明できない。しかし、私たち自身の内側を省みるとき、現世だけで解決のつかない問題があまりに深く根差している。それは「無始の無明」と同質のことであり、私の心の奥底の、由来の知れない何ものかである。その次元ではじめて現世を超えた業ということが意味を持ってくる。それを事実の問題と取り違えないことが、仏教が差別の思想に陥らないためにも重要であろう。》
まあ、決して理解されることはないでしょうけれども、輪廻は「事実を説明する言葉ではない」のではありません。また「差別の思想に陥らない」ようにすることと、「輪廻を否定する」ことは同一ではありません。繰り返して言えば、輪廻の問題は、取り外しのできる「思想的オプション」ではありません。それは霊的事実であり、仏教の大前提だと思います。
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なんか「壊れたカメラでも文鎮にはなる」みたいな論理ですねw。
われわれは宗教者に「何と交換に」お金を払うだろうか、という問いは、考えるべき問いかもしれません。
震災のことは取りあえずは置きますが、こういう非-唯物思想的な発言をしているにもかかわらず、上記の如き発言は文献学者の限界を意味しているように思います。「言語」に拘泥しているところはまさしくそのような印象を持ちます。現在は東大を自主退職されて、自由に発言されてます。もう一度この点について聞きなおしてみたいものです。