スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

“エリート”になってください。(新年のご挨拶)

2011-01-01 00:01:11 | 高森光季>その他
 謹んで新年のお慶びを申し上げます。
 いつもご訪問くださっている方々、ありがとうございます。

 ここにいらしてくださっている人の大半は、少なくとも「霊魂がある」という考えを「ばかげた妄想」と切り捨てる人ではないと推察します。
 また、お金や能力や成功に色気むんむんの「スピリチュアル」愛好家でもないと思います。
 霊魂の問題を理性的に探究し、現世の利益ではなく「真理」を求めている人、スピリチュアリズムの様々な「霊のメッセージ」に感動し、そこに素晴らしい真理があると思っている人、主観的な信仰のみではなく、理性的・公共的・客観的な地平で「死後存続」「霊魂実在」を支持し、それをほかの人にも伝えたいと思っている人、ではないでしょうか。

 現在の社会は、半ば無意識的に「唯物論“教会”支配」のもとにあります。「物質に基盤を持たないものが存在する」と主張することはタブーであり、正統的な場(学術界、出版・メディア界)からは排除されます。そう、それはまるでヨーロッパ中世の「教会の支配と異端弾圧」のような構造になっています。科学の信奉者はそうした過去の宗教支配体制を愚劣なものとして描きたがり、自分たちはそこで「真理を主張して弾圧された」英雄たちの後継者だと自画自賛したがりますが、今、自分たちの立場は、弾圧する側になっているのだということには気づきません。「現行の法則に違反するものは存在してはならない」という態度は、「聖書と正統神学に違反する考えや表現はあってはならない」とした中世の教会権力の態度と変わりません。
 “教会の聖職者”でない一般大衆は、半ば無意識のうちに、正統神学に加担します。むしろ彼らこそが積極的に異端を告発し、魔女狩りを行なうのです。個人個人が「どちらが正しいか」を真剣に吟味することもなく、強い者になびき、少数派をたたきつぶそうとするのです。

 こうした中で、「異端」である霊魂説を主張し、広めることは、苦労を伴います。それは皆さん、もう充分ご存じでしょう。圧倒的少数派であり、圧倒的劣勢なのです。
 けれども、だからこそ、霊魂説に真理を見いだした人、スピリチュアリズムの霊信の中に至高の美と善を見いだした人は、自分の立場と役割に自覚を持ってほしいと思うのです。
 滅亡の瀬戸際にある叡智、本当は求められるべきものでありながら見捨てられている真理を、自分たちが担っている“のかもしれない”と。
 (ここで「のかもしれない」という表現を使ったのは、自己絶対化を避けるためです。個々人はそれが至高の叡智であり真理であることを信じている、にもかかわらず、それを公的局面では絶対化しない。かつての宗教のように「我のみ真」とは言わない、ということです。)
 もっと端的に言えば、スピリチュアリズムのメッセージを理解でき、感動できたのは、使命を託された、あるいは「呼び出された」、ということなのではないでしょうか。

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 ですから、あえて挑発的な言い方をしますが、スピリチュアリズムに心を震わせた人は、「エリート」の自覚を持ってもらえたらなあと思うのです。
 エリートというのは悪い言葉のように聞こえますが(特に「平等」に反するように取られますが)、もともとラテン語では「神に選ばれた者」という意味であり、「自分の利害得失と関係なく他人や物事のために尽くせる人」を指します(ウィキペディア参照)。
 (ちなみに、エリートの語源は、ギリシャ神話に登場する死後の楽園「エーリュシオン」[Elysium, Elysion。神々に愛された英雄たちの魂が暮らす世界]から来ているそうです。)
 スピリチュアリズムに共感した人は、多数派、つまり“普通”ではなく、圧迫される側、つまり不利な立場です。それは、「誰もが通ろうとする広い門」とは違う道へ歩き出したということです。
 ただ共感・感動しているだけでは、まだ受け身の立場です。しかし、それを自覚して、引き受けることによって、その立場は使命・役割になります。普通の人ではできないコミットメントを引き受けることになります。そして「そこにおそらく真理がある」「それに奉仕すべきだ」と確信することで、エリートとしての自覚が生まれます。

 エリートの最大の美点は、「自分の利害得失を顧みない」ということでしょう。自分たちが何かの試験に受かったとか、何かの地位に就いたとか、ましてやどれだけ儲けたかを自慢するのはエリートではありません。
 「めざすべき価値」があり、その価値のために自分はなにがしか自分なりの仕事ができると自覚し、その実現のために自分の損得を顧みず奉仕する。それがエリートです。こういう人々は、政治、行政、学問、芸術など様々な分野にいます(悪く言われがちな官僚の中にもたくさんいます)。そして彼らががいなければ、社会も文化も貧しくなる一方でしょう。
 政治・行政などの場合は別として、エリートは絶大な能力があって結果も絶大なものを出さなければいけない、というわけではないでしょう。文化的・精神的な領域では、物理的な量とか目に見える成果よりも、それぞれの場所や力量に応じて、どれだけ自分を超えた努力をしたかが重要なのではないでしょうか。
 大きな事業や目覚ましい活動をなしえなくても、圧倒的劣勢に耐えて信念を保ち、わずかでも周囲に伝えていく。成功の充実感や賞賛の喜びがなくても、やり続ける。それが「至高の価値」を守り、実現することだと信じる。それがエリートではないでしょうか。

 「誰もロウソクに火をともして、それをテーブルの下に置いたりはしない。明かりは燭台の上に置くものだ。」(マルコ4:21他)
 「塩はいいものだ。しかし塩が味気を失ったら何をもってこれに味付けよう。」(マルコ9:50他)

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 何かこのように言うと、「外に出て宣教してきなさい」と叱咤する宗教団体みたいだと思われるかもしれません。でも、そうではありません。
 昔ならともかく、現代では「お説教」や「勧誘」は好まれません。むしろ反感を抱かれることの方が多いでしょう。「信じるのは勝手だが人に押しつけるなよ」というのが、多数意見のようです。
 スピリチュアリズムでも「押しつけ」は御法度とされています。シルバー・バーチは、自ら「押しつけるつもりはない」と繰り返し言明し、またスピリチュアリストにもそれを戒めています。

 《受け入れる用意のない人に押しつけてはなりません。みずから求めてわれわれの手の届く範囲にまで訪れた人々に気持ちよく手を差しのべましょう。》(霊訓9 71-2頁)
 《霊的な知識を得た人がそれを正しく普及していく上において心しなければならないことは、それを無理やりに押しつけることによって肝心の霊界からの働きかけの邪魔になるようなことになってはいけないということです。》(霊訓3 122-3頁)

 シルバー・バーチは、教えを伝えるといったことより、とにかく奉仕しろ、人のためになることをしろ、と言っています。それはそれで厳しい命令です。日々の生活に追われ、あるいは家族を必死に養っている一般人が、自分を捨てて他人に奉仕することは、まず不可能でしょう。ホワイト・イーグルやインペレーターなどは、もっと穏便に「人に親切にしなさい」と教えています。いずれにしろ、自分の信仰を伝えるよりは、人のためになる行為をすることの方が重要だということです。

 だから、スピリチュアリストは、基本的には問われた時のみ答える、相手が興味を示した場合のみ語る、といった態度でいるべきなのでしょう。
 ただ、ちょっとした機会があれば、あまり押しつけがましくない仕方で、霊的なことを語りかけることは、よいことかもしれません。その人が聞こうとしなくても、その人の「後ろ」(守護霊や随伴霊)が聞いているということもあるかもしれません。あるいはその内容はその人の心のどこか片隅に残り続けて、ある日、ふっと発芽するかもしれません。
 多少いやな顔をされても、それはそれで。

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 全然自慢するつもりではないのですが、私は、『ホワイト・イーグル霊言集』や『シルバー・バーチの霊訓』などをいつも複数冊手元に持っていて、機会を窺ってはいろいろな人に贈呈してきました。どれだけの人が、それを実際に読み、何かを感じたかは、よくわかりません。無駄だったとしてもかまわないと思っています。(自己満足と非難されるかもしれません。また、どっかの教団の信者も同じことをやっているね、と皮肉られるかもしれません。まあ、いいですw)
 私自身は、人様の役に立つような霊能は持っていませんし、人を教導するような立派な人間でもありません。でもせめて、通路くらいの役割は果たせたらと思う。かっこつけではなく、自分が注目されることなどは余計なことで、スピリチュアリズムの知見や情報を人に届けられればいい。(宗教批判みたいなことも書いていますけれども、それはそれによって、ただ霊信をなぞるだけよりも少しでもはっきり、「霊的真理」のありかが示せればと思ってのことです。)
 こういうことを言うと僭越に聞こえるかもしれませんが、だから、何か「使えるな」と思えることがあったら、どうぞ勝手に利用していただきたい。以前、TSLホームページの内容をコピーして配ってくださった方がいましたが、それはとても嬉しいことでした。使っていただけるならありがたいわけです。

 「霊は無償で働いているのだから、あなたたちもお金を取ってはいけない」というのがスピリチュアリズムの基本的な考え方です。もちろん、霊的治療者などは、その活動を支えるため、交通費や高額でない時給はもらって当然だと思いますが、あやしい新興宗教のような金儲けは厳禁です。
 まあ、あからさまに言えば、何か活動をしようとすれば持ち出しになりますから、しんどいことはしんどい。何か報いがほしいなと思ったとしてもやむを得ないかもしれませんが、そこは「エリートのやせ我慢」(笑い)をするしかない。
 イエスさんはもっと厳しかった。
 「人に見せびらかして施しをするな。見せびらかして称賛されたら、そこで報いを受けてしまい、神からの報いはない。施しをする時には右の手がしていることを左の手が知らないようにしろ。人に見せびらかして祈るな。祭司連中のようにこれみよがしに祈ると、そこで報いを受けてしまう。祈る時には奥の部屋に入り、戸を閉めてから祈れ。」(マタイ6:1-6)
 「宴会をやりたいのなら、友人や兄弟や親族や金持ちの隣人を呼ぶな。彼らはお返しの招待をするだろうからだ。宴会をやるのなら、貧しい者、足の不自由な者、盲人たちを招きなさい。そうすれば、彼らはお返しができないから、あなたは幸いだ。」(ルカ14:12-14)
 何かご褒美をもらえるなどとは考えるな、そこで報われたらそれで「チャラ」だぞ、と。
 これはちょっと過激すぎる(あ、畳語か)表現かもしれないけど、そのくらいの覚悟でいろ、というのは、正しいのでしょう。

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 私は大した活動もできていないので、偉そうなことはまったく言えません。
 ただ、スピリチュアリズムに心を震わせた人間の一人として、同じく心を震わせた人たち、そして同じくなかなか活動ができないなあと自省している方たちに、「まあ何とかお互いがんばろうよ」と言いたい。もちろん、もっと力量のある人が出て活躍してくれることを切に願っていますし、特に、若い、勇気あるアカデミシャンがこちらに加担してくれればなあwといつも思っています。
 霊言を読んで感動した、教えられた、救われた、と感じた人は、もう一歩踏み込んで、そうした個人的局面を超えて、「知られざる真理を知った少数の担い手」として、何かを試みてもらえませんか、と言いたいのです。ブログで発信する(霊信の気に入った部分を紹介するとかだけでも)、何かパンフのようなものを作って機会があれば撒く、共感できる活動をしている人たちを支援する……
 道の厳しさに、失敗したり挫折したりするかもしれない。でもそれはそれでいいじゃないか。無駄玉になるのも覚悟の上、なんていうのはおおげさですが、スピリチュアリストなら、現世の成功失敗はあまり意味がないことは承知のことでしょう。
 たとえまったくの無駄だったとしても、日頃からスピリチュアリズムを第一に考えるということは、「生命の永遠性と霊的成長への確信」を魂に深く刻み込むことになるのですから、死後にも必ず役に立つもの、決して滅びることのない宝となるのではないでしょうか(もちろん、教条的になると逆効果ですけど)。

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 すでにある宗教に属されている方々には、ぜひ考えていただきたいのです。宗教は、現世を超えた見えない世界や死後も生き残る何かを基礎にしないと、ほとんど成り立たないのではないでしょうか。現代を支配する唯物論に追従して、浄土や天国や悟りや救いを現世内の問題にすり替えてしまうのは、宗教の自殺ではないでしょうか。そんなに唯物論が恐いのでしょうか。多数派の白眼視が恐ろしいのでしょうか。

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 どうも、新年のご挨拶のつもりが、テンション上げすぎました。すみません。
 皆様、よいお年をお過ごしください。

 (あ、それと、もしよろしかったら、このブログやTSLホームページの宣伝も、どうぞよろしくお願いします。左下にある「ランキング」のクリックもお願いします。)

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2 コメント

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今年もよろしく (JIJIRO)
2011-01-02 16:12:11
高森様はじめスタッフの皆様、いつもありがとうございます。
今年もどうかよろしくご指導の程お願い申し上げます。更新を本当に楽しみにしております。
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感動しました (Glass Age)
2011-01-02 22:38:26
高森さん、渾身のご挨拶ですね。
感動しました。
誤解を恐れない勇気ある書きぶりにも脱帽です。

今年も、TSLのみなさんから刺激をいっぱいいただきながら、自分のブログや日常生活の中で、精一杯がんばろうという気持ちになりました。
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