スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

ちょっとわからないような②

2011-09-04 00:15:36 | 高森光季>その他

 前のエントリ「ちょっとわからないような」に、Glass Ageさんからご意見をいただきまして、少し問題がはっきりしてきた感じがします。
 「よくわからない」ままに投げ出したので、だらーっとした問題設定になってしまった(笑い)ようです。
 まずは、「存在論」つまり「そういうことはあるか」という点、そして「当為論」つまり「それが望ましいか」という点は、分けなければいけませんでしたね。また「存在」も「当為」も「条件付け」があるかないかも分ける必要があるかもしれません。

 ええと、まずは「条件付け」の方からです。
 あそこで書いたのは、とりあえず、「死の床で」という話でした。具体的には、あと1、2ヶ月とかで死を迎えると宣告された場合とか、もうすぐそこに死が来ている場合ということです。人生を生きているさなかにおいて、「全面的な諦念」があり得るのか、いいのか悪いのかは、また別の話にしないとわかりにくくなってしまいますね。
 で、そこで「存在論」つまり「あるかないか」ということ。
 ①唯物論の帰無仮説(以下、「消滅説」と呼ぶことにします)を信奉している人が、「私はもうすぐ消滅する」と思いつつ、それを「OK、それでいい」と心底思う(不安・恐怖なしに消滅を受容する)ことができるのか。

 Glass Ageさんのご意見を斟酌すると、「特に死後存続説に依拠せずとも、人生において“全面的諦念”を獲得した人もいて、そういう人は、死を間近にしても『OK』と言うだろう。ただしそれはごくわずかな、魂のレベルの高い人だろう」ということではないかと思います。(「突っ張っているだけ」という見方はちょっと置いておいて。)
 それは正しいのでしょうけれども、ちょっとそこでわからなくなったところがあって、
 ・そこで「OK」を言える人は、それ以前の人生で何らかの「さとり」を得た人だけか
 ・それとも、けっこう多くの人が、そういうふうに「OK」と言えるようになるのか
 ということです。
 もちろん、千差万別、人によりけり、情況によりけりでしょうけれども。
 このあたり、実態はどうなのでしょうかねえ。
 「そんなことはまずない」と言えるかどうか。

 なんでこんなことをうだうだ述べているかというと、「ターミナル・ケア」の問題(広い意味での)があるからです。
 多くの人が、死後存続説などを知らなくとも、そしてそれまで執着ばりばりで生きてきても、病気をして死んでいく過程で、「OK」を言えるようになるのなら、「ターミナル・ケア」の中で「霊的なケア」をする必要は特にないことになるかもしれません。
 逆に「ごくわずかな人」だけしかそうならないのなら、何らかのケアが必要になるのかもしれません。
 で、「OK」を言う場合、「全面的諦念」でも「死後存続への希望」でも、どちらでもいいのか、当人のその時の心境が「OK」ならそれでいいのか、といういささか霊的に深い問題もあります。

 キューブラー=ロスが先鞭をつけた「ターミナル・ケア」が、あれだけ大きな反響を呼んだということは、多くの人が、なかなか「OK」が言えずに苦しむということがあるからでしょう。
 で、キューブラー=ロスは「死の受容」の段階として「否認→怒り→取引→抑鬱→受容」というプロセスが見られると述べました(あまり固定的に考えてはいけないと思いますが)。
 この最後の「受容」が、どういうものなのか。「死後生」へのかすかな希望なのか、あきらめ・全面的諦念なのか、もっと違うものなのか。

 その後のターミナル・ケア論の一部では、そこに「霊的な問題」が入ると主張されました。患者は、肉体的・心理的な苦しみだけではなく、「霊的な」苦しみも抱えている。それに対して、何らかのケアが必要ではないか、と。霊的な苦しみとは、「意味」とか「永遠」とか「信仰」といったものへの欠如の感覚でしょう。
 もちろんこれは患者に何らかの信仰を「植え付けよう」とするものであってはなりません。一時、ターミナル・ケア運動を進めた勢力の中にキリスト教徒がいて、「『受容』で終わってはいけない、その後に『希望』が続くべきだ、そしてその希望を与えるものこそキリスト教だ」などと傲岸不遜に言っていまして、私は辟易した経験があります。「人の弱みにつけこんで自分の宗教を弘めようとする」のは、弘めようとする側は善意のつもりなのかもしれませんが、いつも宗教批判の筆頭に挙げられるもので、宗教の側(スピリチュアリストも含めて)は細心の注意が必要だと思います。

 スピリチュアリズムもあえて含めて言えば、宗教は、この受容のプロセスを容易にする「実利的効果」があります(スピリチュアリズムの立場から言えば、それはあくまで枝葉であって、そのためにスピリチュアリズムがあるわけではありませんが)。ただ、これも千差万別で、なかなか受容に行き着かない人もいないではないでしょう。
 で、ここで、宗教、というか死後世界についての何らかのビジョンがなくても、「受容」はあり得るのか、という問いも出てきます。
 仏教の「すべては過ぎ去っていく」をここに含めるのかどうかは、よくわかりません。浄土へ行くとか仏になるとか輪廻するといった「死後のビジョン」を主張する仏教なら、一般的な「宗教」に含められるでしょうが、「無常・無我・空」の仏教はどうなるのか、それで「受容」が可能になるのか、よくわかりません。――すべての断念(全面的諦念)が可能か(特に一般人で)という問いには、このあたりも含まれているわけです。

 もうひとつ、ちょっとわからないことは、もしかすると、日本人は、特定の宗教を持たなくても、「受容」にすっと行く人が多いのではないか、ということです。論拠やデータもなしにこういうことを言うのは気が引けますが、そこらへんのおじいちゃん・おばあちゃんが、病の床で、従容として死を迎えるといった話も、けっこうある(あった)ように思います。まあ、日本人は言葉に出さずとも、「向こうへ行く」「みんなが待ってる」といったイメージを持っているのかもしれません(無意識のスピリチュアリスト?)。あるいは「じたばたしない」「潔く」といった美学があるのかもしれません。(今の老人世代はどうかなあ?w)

 まあ、われわれスピリチュアリストは、「死後存続」は真実だ(と確信している)からということもありますが、それが多くの人に受け入れられれば、死の不安・恐怖もなくなって(少なくなって)、死に向かう人は楽になるだろうし、向こうに行っても適応がスムーズになるだろうという「功利的意義」からも、それを弘めようとしているところがあるわけです。死の床に出向いていって、「これを信じると楽になれますよ」とやってはいけないだろうけれども、なんとか、「魂が死後も存続することは、ある程度の証拠があるんですよ」くらいは言いたい。
 (実際問題として、私は親しい人たちが死の床についたら、スピリチュアリズムを宣伝するという形ではなく、何とか「魂は死なない」ということを伝えるような、“何か”をしたいという思いがあるわけです。)
 ただ、その対抗説として、「全面的諦念」(あるいは仏教の「無」の境地?)というのもあるのだろうか、またそれは「消滅説でも可能だ」という考え方もあるのだろうか、と疑問に思った次第です。(ここでも仏教の「無」思想と唯物論の消滅説は、似てくるのか違うのか、という疑問もありますね。仏教者によるターミナル・ケア運動もあるみたいですが、このあたりはどう言っているのでしょう。それとも「聞く」に徹するのでしょうか。)

 「死の床」の問題ではなく、一般的な「生きる」場面において、「全面的諦念」はあるのだろうか、それは望ましいのか、という問題(おお、大問題w)は、また次回(あたり)に。


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2 コメント

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就寝中に (law)
2011-09-05 00:22:30
こんばんは
初めてで恐縮な上に,ざっくりですみません。

確か江原氏(私はエハラーじゃありません!)が「すべての人は,睡眠中にシルバーコードはつながったままで霊界に毎晩行き,霊的エネルギーを補充している。そのとき見た霊界の様子を死後思い出すが,それは死後困惑しない為に役立っている」というようなことを述べています。
別に,交霊会の記録の中には「痛みを伴ったり急死の場合には(適応に)時間がかかる」「生前の間違った死生観が邪魔をする場合があり,例えば「(例の)ラッパが鳴るまで墓場で待つという頑固な霊を説得するのに手を焼かされた」「正しい霊的真理の普及が急務で,霊界からのプロジェクトが進められている」と読んだことがあります。

>実際問題として、私は親しい人たちが死の床についたら、スピリチュアリズムを宣伝するという形ではなく、何とか「魂は死なない」ということを伝えるような、“何か”をしたいという思いがあるわけです。

とありましたが,その通りですね。この間私実験したんです。実は(十善戒にもありますが)自身の「怒り」をなくしたくても出来ず悩んでいて行き詰まりました。もし守護霊が本当にいるなら最良のアドバイザーのはず。でも霊媒なんて早々信じられない。そこで寝る前に静かに祈りました。ただ夢の中ででも良いからお会いしてお話できませんか?と。翌朝起きたらすっかり穏やかな人間に変わっていました。といっても自身の心の変化なので説明のしようがないのですが,自分にしか解らない感動でした。毎晩見る夢はその晩は見ず,いつになく満ち足りた朝だったことも付け加えておきます。
修行とかしてませんから精神統一とか無の境地にはなれない凡人ですが,就寝中はチャンネルが合いやすいのでしょうか??私のような凡人でも「確信できる・わかる」体験ができるという意味では是非試して頂きたい実験です。
もちろんそれ以来悩みがある時は(心の問題でも病の治癒以来でも)気軽にやってしまっている私です(笑)
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lawさまへ (高森光季)
2011-09-05 16:54:16
コメントありがとうございます。

前半はおっしゃる通りだと思います。
後半、とてもいいお話ですねえ。
睡眠、そして祈りは確かに霊との交流が可能になる場面ですよね。
われわれももっと睡眠、そして祈りを役立てるのがよいのでしょう。

小生の場合、問題を抱えて、寝た後に、回答がふっと湧いてくるというのはよくありますが、お願いごとはどうもなかなか……うちの先生は厳しいのか、生徒が劣悪なのか(笑い)。もっと謙虚に純真にお祈りしなければいけないのかもしれません(笑い)。

そういえば、この前、夢で、マスターみたいな感じの人が出てきて「インドの精神文明というものは、言葉などで表現されたものの上に、そういったものでは表現できない厖大な領域がかぶさっているのだよ」と言われて、それをちょっと覗かせてもらうと、何やら極彩色の複雑な幾何学的景色があって、すごいと思いつつ何の事やら意味不明。でも、はあ、なるほどねえと思ったというのがありました。
あ、いや、だからどうということではありません(笑い)。ただ、睡眠というか、夢に問うのはなかなか面白いことだということで。
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