地図ヨミWORLD〜世界の豆知識〜

世界にはたくさんの国や地域があり、それぞれ逸話が隠れています。そんな豆知識を持っていると地図を読むのも楽しくなるはず。

ただちに、滞りなくーベルリン

2023-01-11 00:00:52 | 旅行

中央ヨーロッパを代表する世界都市、ベルリン。

 

いまでこそ世界の大都市の中でも住みよい街として知られていますが、

かつては東西冷戦の最前線として両陣営の対立に翻弄され、

西ベルリンは東ドイツより建てられた高い壁に囲まれていました。

今回の記事ではこの壁が崩壊した1989年11月9日に焦点を当てて、

あの日にいったい何が起こったのかをご紹介していきましょう。

 

 

ベルリンの壁は1961年に突如として西ベルリンを取り囲むように建設され、

いくつかの例外を除き東西ベルリン間の交通は遮断されることになります。

この壁により西ベルリンは東ドイツの真ん中で孤島のようになってしまった一方、

当時急増していた東ベルリンからの亡命が事実上不可能になったことにより

東西ドイツ間の関係の安定化に貢献したともされています。

 

この壁の建設によりひとまずは安定化した東西ドイツの関係ですが、

1980年代になりほかの東側諸国で民主化の動きが進むと、

東ドイツでもその動きが強くなり、再び多くの東ドイツ人が

ハンガリーなどを通じて西ドイツへと亡命をしていくようになります。

これを受けて東ドイツ政府は海外旅行の一部自由化を実施することになり、

1989年11月9日にこの施策について記者発表を行うことになります。

そう、これがベルリンにとっての「運命の日」となるのです。

 

 

もともとこの法案はプラハなどに滞留している東ドイツ難民問題を

処理することを目的として策定されたもので、

移住などを含む永久出国は認めるというものでしたが、

それでは逆に短期の旅行が認められないという矛盾が発生するため

短期の旅行も含めた出国が可能になる政令となっていました。

 

内容としては、

「外国旅行は目的などの諸条件を提示することなく申請することが出来る」

「警察は国外移住のための出国査証を遅延なく発給する」

「国外移住について東西ドイツ国境及び東西ベルリン検問所のすべてが使用できる」

「この措置については1989年11月10日からただちに効力を持つ」

といった内容で、この内容が発効前日11月9日に記者発表されることとなったのです。

当然ながらこの内容は東ドイツ国民の旅行の規制緩和を目的としたものであり、

ベルリンの壁は存続させることが前提である法令でした。

 

この記者発表を担当したのが東ドイツの政治報道局長である

ギュンター・シャボフスキーで、記者発表に臨む前に

エゴン・クレンツ書記長からこの法案のリリース用の文書を手渡されますが、

シャボフスキー自体はこの文書の仔細をよく理解しないまま

記者会見が始まってしまいます。

 

その記者会見で「この法令はいつから有効なのか」との質問が記者からされるのですが、

実際にこの法案が施行されるのは翌日の11月10日からであり、

また完全に自由化されるというわけではありませんでした。

しかしシャボフスキーは文書にある「ただちに」という言葉に引っ張られ、

記者の質問に「いまこの時から有効」という回答をしてしまいます。

またベルリンにおける国境管理についても、「国外移住において

ベルリンのすべての検問所が利用できる」という文言から、

「短期の旅行も含めすべての検問所から出国が可能」と発表してしまうのです。

 

つまり本来は「明日から出国要件が一部緩和される」という内容の法令が

「いますぐ誰でもどこからでも出国できる」という誤った内容で発表されてしまったのです。

 

 

この記者発表は東ドイツで生放送されていたこともあり、

東西ベルリン市民に大きな衝撃をもって受け入れられました。

記者発表が行われた直後には西ベルリン発で西側諸国にも速報が打たれ

アメリカなどでも大きく報じられることになります。

 

この国境が開放されるとの報道を受けた東西ベルリンでは

ベルリンの壁の検問所周辺に次々と市民が集まり始めます。

しかしながら検問所の係員には当然国境解放の指示はなく、

ある者は慌てて上官に問い合わせを行い、

ある者は翌日の指示を待とうと自宅に戻っていたといいます。

 

報道がされた午後7時以降はまだ東ドイツ側も数百人程度しか集まっておらず、

西ベルリンへの通行を求める人々に対しても検問所の係員は

これまでの制度に則り通行しようとした市民を追い返していました。

しかしながら午後9時を回った頃にはそれが数万人にまで膨れ上がり、

西側への通行を求めてシュプレヒコールを挙げるようになります。

この勢いに負けたいくつかの検問所では「国外退去」という名目で

徐々に東ベルリン市民を再入国不可の条件のもと西ベルリンへと送り出します。

西ベルリン側でも集まった数千人の市民が国境警備兵に解放をせまり、

午後11時頃には西ベルリン側の市民が次々とベルリンの壁に上り始めます。

 

この光景を目の当たりにした検問所の指揮官たちは

これ以上国境を封鎖しておくのは不可能と判断し、

午後10時45分、ボルンホルム通りの検問所が完全に開放されます。

続いてほかの検問所の次々と解放されていき、

ここに1961年8月13日に突如建設されたベルリンの壁が事実上崩壊するのです。

 

そして日付が変わる頃にはベルリン市民が持ち寄ったハンマーや建設重機で

どこからともなくベルリンの壁が物理的に破壊されていきます。

その横で東ベルリン市民は東ドイツ車にのり大量に西ベルリンへとなだれ込み、

西ベルリン市民はこの旧式の東ドイツ車に乗ってやってきた東ベルリン市民を

花や酒を片手に大歓迎を行います。

こうして1989年11月9日、ベルリンは第二次世界大戦後からの

長い長い分断の歴史に終止符が打たれることとなったのです。

 

そしてこの冷戦の象徴ともいえるベルリンの壁の崩壊は

アメリカとソ連による東西冷戦の終焉へと帰結し、

1989年12月、米ブッシュ大統領とソ連ゴルバチョフ大統領により

冷戦の終結が宣言されることになります。

 

このベルリンの壁崩壊は東ドイツの社会主義体制の終焉も意味し、

同年12月には社会主義統一党のよる一党独裁体制が崩壊、

大量の人口流出に見舞われた東ドイツ経済は大打撃を受けることになり

翌年1990年10月、東西ドイツの統一にまでつながっていくことになります。

 

こうして東西が統一されたベルリンは新生ドイツの首都となり、

鉄道や道路などで旧東西ベルリンをつなぐ工事が行われたほか、

ベルリンの壁の跡地などで大規模や再開発が進行し、

いまやドイツのみならず中央ヨーロッパを代表する都市となったのです。

 

なお長らくベルリンの玄関口として西側はテンペルホーフ空港と、テーゲル空港、

東側はシェーネフェルト空港がそれぞれ運用されていましたが、

21世紀になってそれぞれの空港がシェーネフェルト空港へと集約され、

改築後に新たにブランデンブルク国際空港として生まれ変わっています。

 

ドイツ最大の都市としてドイツ分断の歴史、そして冷戦をみつめてきたベルリン。

ドイツを訪れた際には一度おとずれてみたいですね。

 


東ドイツは混乱にーベルリン

2022-12-19 20:07:29 | 旅行

1961年、突如として西ベルリンを囲うように出来上がった壁。

この壁によりベルリンは引き裂かれたと同時に、

東西ドイツの関係の安定をもたらすという恩恵もありました。

 

建設直後は突然の封鎖で家族と離れ離れになってしまったり

無理矢理に壁を越えようとして命を落とす者もいましたが、

その後は東西ドイツの関係が改善に向かったこともあり、

東ドイツから西ドイツへの亡命者はこれまでより大幅に減ることになります。

しかしこのベルリンの壁は1989年、突然終わりを迎えることとなります。

 

 

上記のようにこのベルリンの壁の建設により東西関係は鞏固し、

以後1980年代後半まで安定した状態が続きます。

 

一方でベルリンの壁建設以降も相変わらず東西ドイツの国境は封鎖され、

それに加えてベルリンを通しても行き来が大幅に制限されるようになり、

ベルリンの壁も厳しい監視の目が張り巡らされており、

無理矢理亡命をしようとする人には命の危険も含め多大なリスクを伴うようになります。

そのため東ドイツから西ドイツへの逃亡を援助する「闇ビジネス」が横行するようになり、

東西ドイツ間で問題になるようになるのです。

 

そのため東西ドイツ両政府は「人道的措置」として

東ドイツの政治犯を西ドイツで買い取るという制度を作ることになります。

この対象となったのは政治犯として東ドイツに拘置された人で、

東ドイツにとっては反体制派を体よく国外追放出来ると同時に

なんと西ドイツからお金をもらえるという一石二鳥のビジネスでした。

また東ドイツは65歳以上の東ドイツ国民については

西ドイツへ自由に渡航が出来るようにします。

65歳といえば東ドイツでは年金の受給がスタートする年であり、

万一その人たちがそのまま西ドイツへ亡命したとしても

労働力ではないばかりか年金を払う必要もなくなるため、

むしろこういった老人を西ドイツへ押し付けようともしていたのです。

 

逆に西ベルリン側からも一定の制限があるものの

クリスマスなどの時期には家族に会うために

東ベルリンを訪れる許可が下りるようになり、

東ベルリンから西ベルリンへも家族の葬儀などの場合には

特例的に渡航が認められた例もあったようです。

 

こうして壁の存在と両国間の緊張緩和により、

東西ドイツは互いに牽制をしあいながらも

共存の道へと進んでいくこととなります。

 

 

しかしながら1980年代も後半になってくると

資本主義vs社会主義という東西冷戦の構図にも変化が訪れ、

その波は東側陣営にいた東ドイツにも押し寄せることになります。

 

1985年、ソ連ではゴルバチョフが共産党書記長に就任し、

ペレストロイカと呼ばれる社会主義体制の改革に着手します。

これに伴い、同じ東側陣営に属する国々でも改革が進んでいきますが、

東ドイツはこれを拒否、ゴルバチョフと対立することになります。

というのも、東ドイツにとっては社会主義体制の維持こそが

国家の存続意義となっていたからなのです。

1949年のドイツ分断以来、東ドイツは西ドイツと対立するにあたり

その「社会主義」のイデオロギーこそが西ドイツとの相違となっていました。

つまりその相違を捨ててしまうことは西ドイツとの分断国家であることの

意味を失ってしまうことにつながり、それは国家の崩壊を意味します。

そのため東ドイツは東側陣営に広がっていた改革の波に抗い続け、

マルクス・レーニン主義を貫いていくことになります。

 

一方でほかの社会主義国では次々と社会改革が進んでいきます。

1989年にはポーランドで行われた自由選挙で共産党が敗退し、

同年ハンガリーでは改革派の首相の就任により変革が進んでいきます。

そんな中、東ドイツでは自国の改革の遅れが国民の不満を招き

国外移住を求める申請がこれまでの数十倍に膨らんでいくのです。

 

こうして改革が進む他の東欧諸国とは一線を画していた東ドイツですが、

やはりこの改革の波の影響を受けざるを得なくなります。

その代表的なものがハンガリーの国外旅行自由化でした。

冷戦下では東西陣営の国境は「鉄のカーテン」と呼ばれており、

人や物の行き来が厳重に管理されていました。

しかし民主化が進む東側諸国ではこうした規制も少なくなり、

ハンガリーも1989年に国外旅行が自由化され

かつて鉄のカーテンの一部を構成していたオーストリアとの国境も開放されます。

一方で東ドイツではこうした規制緩和は進んでいませんでしたが、

同じく東側諸国であるチェコスロバキアやハンガリーには

比較的簡単に旅行にいくことができました。

そのため、ハンガリーとオーストリアの国境が開放されたことを知った東ドイツ国民は

陸路にてチェコスロバキアを経由してハンガリーへ到着、

そのままオーストリアに抜けて西ドイツを目指そうと画策したのです。

しかしながら当初この国境の開放はハンガリー国民に限られていたため、

東ドイツ人は国境を越えて西側であるオーストリアに辿り着くことが出来ず、

10万人近い東ドイツ人がハンガリーとオーストリアの国境地帯に滞留することになります。

困ったハンガリーのネーメト首相は西ドイツのコール首相及び

ソ連のゴルバチョフ書記長の了承を得て東ドイツ人にも国境を開放、

東ドイツ人は国境を越えてオーストリア経由で西ドイツへと向かいました。

こうしてハンガリー経由で西ドイツへ亡命が出来る合法的なルートが構築され、

そこに自国の改革の遅れに不満を持つ東ドイツ人たちの心情も相まって

再び東ドイツは人材の大規模な流出に直面することになります。

そして1989年10月、東ドイツは隣国チェコスロバキアとの国境を封鎖することになるのです。

 

この東ドイツの強硬策はゴルバチョフの支持を得ることもできず、

当時東ドイツの最高指導者であったホーネッカーは失脚、

後任として書記長に就任したクレンツは国民の支持もほとんどない中、

民主化デモと人材流出で大混乱に陥る東ドイツの立て直しを図ります。

実際、医療や建設などにかかわる専門職の人々がいなくなりインフラが停滞し、

鉄道やトラックなども人員不足で物流もままならない状態になっていたのです。

 

そんな状況で東ドイツは一定の国外旅行を認める法案を作成、

西側諸国へも含めて出国規制を緩和することとしますが、

出国には国の厳しい許可が必要なことなど相変わらず制限が課されており、

人民議会により否決されてしまいます。

これを受けて、クレンツは再び恒久的な出国を認める新しい法案を検討し、

一定の国の管理は受けるものの、これまでとは異なり西ドイツも含めた西側諸国へ、

短期長期関わらず渡航が可能になるというものでした。

もちろん「国の管理」とあるように誰でも自由にというわけではなく、

出国を希望する者は事前に東ドイツ政府への申請が必要であることに変わりはなく、

当然ながらベルリンの壁も存置ありきで進められた法案でした。

この法案により1989年11月10日に東ドイツの国境が開放されることになり、

その記者発表が前日の11月9日におこなれることとなったのです。

 

そして迎えた運命の日、1989年11月9日

この日になにが起こったのかはまだ別の記事で。

 


Ich bin ein Berlinerーベルリン

2022-12-17 21:36:25 | 旅行

Ich bin ein Berliner。

ドイツ語で「私はベルリン市民である」という意味です。

これだけ抜き取ると他愛もない自己紹介文のようですが、

1963年6月26日に30万人を超えるベルリン市民の前で発せられたこのフレーズは

東西ドイツ分裂の歴史に残る有名なものとなっています。

 

今回はベルリンの壁が構築されてからのベルリンのお話をしましょう。

 

 

1961年8月12日未明、突如として建設されたベルリンの壁。

一夜にして築かれたその物理的な境界線により、

東西ベルリンはわずかな検問所を除き完全に分離されることになります。

これに対して西ドイツ国民や西ベルリン市民、ブラント市長は猛烈に反発する一方、

アメリカや西ドイツ政府は冷静な態度でこの壁建設を受け入れます。

たしかにこの壁建設でベルリンは分断され中には引き裂かれた家族もいました。

その一方でこうした壁により行き来が大幅に制限されることは

東西両陣営が抱える諸問題に対する対処としては非常に有効であり、

一概に壁建設を非難することが出来ないという面もあったのです。

 

そもそも、この西ベルリンに対するスタンスについて

米英と仏独では立ち位置が少し違いました。

西ドイツは東ドイツや東ベルリンの存在自体を認めておらず、

あくまでドイツは単一の国家であり不可分であるとしていました。

そのためドイツの統一は東西冷戦下における最重要課題であり、

ドイツの統一こそが西側諸国、そして米英の大西洋同盟に大きな利益を与えるとして

東西ドイツ統一を目指していたのです。

しかしながらアメリカやイギリスはこの限りではありませんでした。

もしドイツの統一を目指すのであればどうしても

武力衝突の可能性も考えなければなりません。

しかし第二次世界大戦の記憶も新しい1950年代においては

かつての敵国であるドイツのために自国のリスクを冒すことに対して否定的であり、

またソ連の平和共存路線もあり米ソ関係が比較的安定したことなどから

仮にドイツが分断されたままでもその双方の地位が不安定でないならば

逆にそちらのほうが波風が立たずに都合がいいと考えていたのです。

 

そのため西ベルリンを取り囲む壁が建設された際も

この壁により東ドイツが抱える人材流出の問題が解決し

東西ドイツの関係が安定するならば咎める必要はないとの立場でした。

もちろんそれはソ連も織り込み済みであり、

東ドイツが壁建設という強硬手段に出たとしても

それを理由にアメリカが武力を用いた反発はしてこないとの判断から

フルシチョフは壁建設にGOサインを出したとされています。

 

一方でフランスはというと1958年に第五共和制がスタートし、

シャルル・ド・ゴールが大統領の時代でした。

この頃のフランスは米英とは一線を画す独自外交を展開しており、

むしろ米英の大西洋同盟には反発をしていました。

そのためフランスは西ドイツとの仏独協調姿勢を重要視しており、

この時期の東西ドイツ間の不安定な情勢は米英により

日和見主義が原因であると非妥協姿勢を強く打ち出していたのです。

 

 

ではなぜドイツ統一を目指すはずの西ドイツ政府が動かなかったのか?

というと、これには西ドイツのアデナウアー首相と西ベルリンのブラント市長の

確執があったからだったんです。

 

この西ドイツのアデナウアーは1949年に西ドイツの初代首相に任命され、

特に外交面ではフランスとの強固な協力関係の構築や

現在のEUの基礎となる欧州石炭鉄鋼共同体や欧州経済共同体の創設などにかかわり

「欧州連合の父」とも称えられる人物です。

主に1950年代に活躍しましたが、1960年代に入ると自身の権力に固執し、

国内からも批判が相次ぎその威信は低下していました。

一方で西ベルリンのブラントはリューベックにて私生児として誕生し、

ノルウェーやスウェーデンに亡命し反ナチス活動をしていた人物でした。

第二次世界大戦後にドイツへ帰国し1957年から西ベルリン市長を務めていました。

 

ブラントが西ベルリン市長になってから4年が経った1961年3月、

ベルリンの壁が建設される5か月ほど前に

ブラントはアメリカ合衆国を訪問することになります。

当時のアメリカ大統領は同年1月に就任したばかりのケネディ大統領で、

3月13日にはホワイトハウスでケネディとブラントの会談が実現します。

 

この会談は西ベルリンに対する姿勢を世界に示すチャンスであるとして

アメリカのラスク国務長官の進言により実現にこじつけたものでしたが、

就任したばかりの大統領が同盟国の国家元首や政治的リーダーを受け入れることがあっても、

市長クラスと会談を行うというのは外交慣習に反していることでした。

西ベルリンは西ドイツ領ではないものの外交は西ドイツが代行しているため、

アデナウアー首相をすっ飛ばしてブラント市長が会談を行うということになってしまったのです。

これに対してアデナウアーは不快感を隠すことなく、

また自身の政権運営の継続も上手くいかないことの焦りから

ブラントを公然と批判するようになります。

 

そして起こったベルリンの壁建設。

8月12日未明、ブラントは遊説のため夜行列車で西ドイツ南部のニュルンベルクから

西ドイツ北部、デンマーク国境近くのキールに向かっていました。

しかしながらベルリンの壁の建設がはじまったという報せを受けて

途中駅のハノーバーで急遽下車、そのまま飛行機で西ベルリンへと戻りました。

同じ頃西ドイツの首都ボンにいたアデナウアーは

壁建設の一方を受けた後も西ベルリンには赴かずボンに留まり、

そのうえでブラントの出生などについてブラントに対して個人攻撃を行います。

 

結果的にアデナウアーは西ベルリンのみならず西ドイツ国民全体の顰蹙を買ってしまい、

その後の健康不安なども相まって1963年に首相の座をエアハルトに譲ることとなります。

その反面即座に西ベルリンへと戻って事態に対応したブラントの株は上がり、

冷戦の最前線にたつその姿は西ベルリンと西ドイツの市民の人気を集め

1969年に西ドイツ首相の座につくことになるのです。

 

 

そしてベルリンの壁建設から2年が経過した1963年6月26日、

アメリカのケネディ大統領が西ベルリンを訪問することとなります。

ベルリンの壁建設時はその対応に苦慮をしたケネディでしたが、

翌1962年にはキューバにミサイル基地を建設しようとしたソ連と交渉し

基地の建設中止を勝ち取ったいわゆる「キューバ危機」を乗り越え、

西ベルリンでもケネディへの期待が高まっていました。

 

そんな矢先の訪問は西ベルリン市民に熱狂的に迎えられ、

アデナウアー首相、ブラント市長とともに100万人の市民の歓声に応えます。

そして市庁舎前で行われた演説では30万人もの市民が集まり、

そこである有名なフレーズを口にするのです。

それが「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民だ)」というものです。

 

ケネディ大統領は上述の通り、東西ドイツの両国が安定しているのであれば

無理に統一への道筋を作ることはないと考えていました。

それはつまり西ドイツ及び西ベルリンの現在の地位が保障されるのであれば

東側はソ連に差し出しても構わないということでもあります。

しかしキューバ危機を乗り切ったケネディは西ベルリン市民の前で

壁建設時には見せなかったソ連や社会主義への敵対心を露わにし、

このベルリンの壁は貧しい東ドイツから自由で豊かな西ドイツへの亡命を防ぐために作られた

西側諸国の勝利の産物であると述べました。

そのうえでケネディは今後ベルリン、そしてドイツが再びひとつになることを望むと、

大統領就任後初めて東西ドイツの統一に向けた心構えを口にするのです。

 

そして、かつてローマ帝国で使われた「Civis romanus sum(私はローマ市民である)」という標語に準え、

「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民だ)」と述べ、

アメリカ合衆国のベルリン、そしてドイツに対する新たな決意を表明しました。

このケネディの演説は多くのドイツ人やベルリン市民の心を打ち、

この演説が行われた場所は後に「ジョン・F・ケネディ広場」と改称されています。

 

なおこの壁の建設により東ドイツから西ドイツへの亡命者は大幅に減り、

東ドイツ経済は一応の安定を見ることになります。

そして後のブラント首相によるソ連やポーランドなどの東方外交により

東西ドイツ間も雪解けが進み、1972年には相互にその存在を認め

翌1973年には両国は同時に国際連合への加盟を実現させるのです。

 

こうしてベルリンを引き裂きながらもドイツに安定をもたらしたベルリンの壁。

この壁がやがて崩壊するときのお話はまた別の記事で。

 


壁に囲まれた自由のショーウィンドウーベルリン

2022-12-16 07:10:20 | 日記

ドイツはもとより欧州を代表する世界都市、ベルリン。

 

このベルリンが冷戦中は東西に分裂していたのは多くの方が知っているでしょう。

前回までの記事ではベルリンがドイツの首都となった経緯、

そして第二次世界大戦後の世界秩序の中で翻弄されて東西に分裂、

1940年代終盤にはソ連の圧力により西ベルリンが兵糧攻めに遭うも

アメリカが飛行機をジャンジャン投入して物資を輸送、

見事ソ連の目論見を打ち破りベルリン封鎖を解除した、というところまでお話をしました。

 

今回はそのあとにベルリンが壁で囲まれるまでのお話としましょう。

 

 

さて、この時期東西に分かれていたのはベルリンだけでなくドイツ本国もそうで、

1949年に資本主義サイドの西ドイツ、社会主義サイドの東ドイツが成立します。

しかし当時は冷戦真っ只中でこの東西ドイツはいわばその最前線。

そのため同じ国だったにも関わらず1952年に両国の国境は封鎖されてしまいます。

しかし同じように東西陣営がにらみ合うベルリンについては完全に封鎖されておらず、

交通遮断を繰り返しながらも比較的自由に行き来が出来ていました。

これは単に「東側と西側を往来することが出来る」というだけでなく、

例えば物価の安い東ベルリンに住み給与水準の高い西ベルリンで働くという、

いわば国境を越えた通勤をしている人も数万人単位でいたとされ

毎日東西ベルリンの間を50万人以上の人々が通過していたとされています。

東西に分かれていながらもひとつの都市として機能していたんですね。

 

そのため1950年代に入ると自由を求めた東ドイツの若者などが

封鎖されている東西ドイツ間ではなく交通が保障されていた東西ベルリン間を通して

西ドイツに亡命するという事案が相次ぐことになります。

やがてこの西ドイツへの亡命は東ドイツ経済にまで影響を及ぼす事態となり、

なんとかこれを食い止めようとした東ドイツにより、

ある日突然西ベルリンを取り囲む壁が建設されることになるのです。

 

 

ではここで一旦東ベルリンと西ベルリンの立ち位置の違いについてご説明しましょう。

まず東ベルリンは第二次世界大戦後からソ連の占領地域でありましたが、

それと同時に東ドイツの正式な首都でもありました。

そのため実際にはドイツ再統一までソ連軍が駐留はしていたものの、

東ベルリンは東ドイツ領であり東ドイツ人が住む都市であったのです。

では西ベルリンはというと、「東ドイツに囲まれた西ドイツの飛び地」ではなく、

あくまで米英仏により共同占領地というポジションでした、

つまり西ベルリンは西ドイツ領ではなかったんですね。

そのため西ベルリン市民が持つパスポートは西ドイツのものとデザインは似ているものの

発行は西ベルリン市で、国籍も「西ベルリン市民」となっていました。

また西ドイツで行われていた徴兵制も西ベルリンにおいては対象外となっており、

徴兵制を嫌う西ドイツの若者が西ベルリンに移住することもあったそうです。

西ドイツと西ベルリンを結ぶ航空路もルフトハンザなどの西ドイツの航空会社は就航できず、

アメリカのパンアメリカン航空やフランスのエールフランス航空など

西ベルリンの占領国である米英仏の航空会社が運航をしていました。

ここはあくまで「米英仏の占領地である西ベルリン」だったんですね。

 

こういった東西ベルリンの特殊な政治的な立ち位置もあり、

先述の通り1952年に東西ドイツの国境が封鎖された後も

自由の往来が出来る状態が続いていたのです。

そのため東ドイツでは社会主義に基づき一党独裁制を嫌う

若者や技術者などが自由を求めてベルリン経由で西ドイツへ向かうようになり、

東ドイツでは労働力や人材の流出が顕著になっていきます。

その人数は毎年20万人から30万人にも及び、

第二次世界大戦後からベルリンの壁建設までには300万人が亡命したとされます。

当時西ドイツは東ドイツを含めたドイツ全域を自国領として主張していたため、

亡命してきた東ドイツ人にも自動的に西ドイツの国籍が与えられていたため、

さらにこうした動きに拍車をかけていたとされています。

 

 

この大量の人材流出に憂慮していたのは東ドイツだけではありませんでした。

そう、東ドイツの親玉であるソ連ですね。

当時のソ連の首相であるニキータ・フルシチョフは

東ドイツの若者や専門スキルを持った技術者などが国外へ流出し

それが東ドイツ経済を逼迫させるレベルにまで達している事態を重く見て、

このままでは東ドイツを安定した同盟国として維持できないと考えます。

そのためソ連は西ベルリンを占領している米英仏に対して、

西ベルリンを「非武装自由都市」とすることを提言するのです。

フルシチョフは西ベルリンを国連監視下の自由都市とすることで

西側諸国の影響力を排除することで

西ベルリンが西側への亡命の窓口になることを避けようとしました。

しかしながらブラント西ベルリン市長はこの提言を即日拒否します。

 

そうなると次第に焦りが見え始めるのが東ドイツです。

1961年初頭、東ドイツのウルブリヒト第一書記はソ連宛ての書簡にて

米英仏の西ベルリンからの撤退や西ベルリンにある西側メディアの閉鎖、

そして西ドイツと西ベルリンを結ぶ航空路の管理権を求めました。

もし東ドイツが西ドイツと西ベルリンとの航空路の管理権を掌握すれば

いざというときに両地域を結ぶ航空機をすべて停止することが出来、

簡単に西ベルリンを締め上げることが可能になるためです。

 

またこれと同時にウルブリヒトは西ベルリンを物理的に封鎖する障壁の建設を求めます。

しかしこれは西ベルリンを孤立させるというよりも、

東ベルリン、そして東ドイツを西側のショーウィンドウである

西ベルリンから隔絶するために建設を目論んだものであり、

これこそが人材流失を食い止める手段であるとウルブリヒトは主張したのです。

東ドイツはこの障壁の建設の許可をソ連に求めていたのですが、

このような強硬手段をとれば世界的な批判は免れずソ連の威信低下につながり、

フルシチョフはこのウルブリヒトの提案を受け入れるかどうか非常に苦慮することになり、

結論を米ソ首脳会談の後まで持ち越すこととしました。

 

 

そして迎えた1961年6月、オーストリアのウィーンにて

フルシチョフ首相とケネディ大統領との間で米ソ首脳会談が行われます。

ここでフルシチョフは改めてケネディに西ベルリンの自由都市化を提言しますが、

ケネディはこれに同意をしませんでした。

議論は平行線を辿り、最終的にフルシチョフが武力行使をちらつかせるも

ケネディも折れることなくこの提案を断固として拒否し、

結果としてベルリン問題は折り合いがつかないまま首脳会談は終わります。

そしてそうしている間にも次々と流出する東ドイツの人的資源。

このままでは東ドイツの経済は破綻してしまうー。

そうした焦燥感からウィーンでの階段から約1か月後、

フルシチョフはウルブリヒトの壁建設の許可を出すのです。

 

この決定を受けて東ドイツは西ベルリンを囲う壁の建設に動きだし、

1961年8月12日、ついに壁の建設が始まります。

日付が変わった12日の午前1時、東西ベルリンを結ぶすべての道路が封鎖され、

両地域を結ぶすべての公共交通機関が停止させられます。

それと同時に東西ベルリン、そして西ベルリンと東ドイツの国境には

有刺鉄線が張り巡らされ12日午前中には数か所の検問所を除き

全ての国境が封鎖されます。

こうして一夜にしてベルリンの壁は構築されたのでした。

 

この有刺鉄線の壁は数日後には石造りのものに建て替えられはじめ、

フルシチョフは西側諸国を出し抜いたことで自信を深め

これまでの平和共存路線から対米強硬姿勢へと変化をしていきます。

一方アメリカはこれらの壁建設がすべて東ドイツ領内で行われていたことから

今回の一件に関しては深い介入を避けていました。

それに加えて西ドイツのアデナウアー首相はソ連を批判するどころか

馬が合わないブラント西ベルリン市長を批判するなどしたため、

西ベルリンでは西側諸国に対する疑念と失望が広がっていくことになります。

 

それではベルリンの壁が出来るまでのお話はここまで。

ベルリンの壁が出来てからのことはまた別の記事で。

 


東西に分かれた運命の都市ーベルリン

2022-12-11 22:12:23 | 旅行

ヨーロッパを代表する世界都市のひとつ、ベルリン。

現在でこそドイツはもちろん中央ヨーロッパを代表する都市として

世界中の人々が訪れ、居住する都市となっていますが、

1990年代初頭までは西と東に分断されていたのは皆さんもご存知でしょう。

 

前回の記事ではこのベルリンの黎明期からドイツの首都となり、

第二次世界大戦で瓦解するまでをご紹介しました。

今回はこのベルリンの歴史で避けては通れない、

冷戦期における東西分断から統一、そして現代までをご紹介しましょう。

 

 

1945年5月2日、ベルリンのドイツ軍は攻め込んできたソ連軍に対して無条件降伏を行い、

10万人以上の死者を出したベルリン市街戦は終了し、ベルリンは陥落します。

そしてその約1週間後の5月8日にドイツは連合国側との無条件降伏文書に調印し、

ここにドイツは第二次世界大戦において正式に敗戦することとなります。

 

その際敗戦しドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国によって分割統治され、

さらのその首都ベルリンも上記の4カ国で分割統治される予定でした。

これはあくまでベルリンというひとつの都市を4カ国で分担して統治するというもので、

ベルリンという1つの都市を4つの都市に分割するものではありませんでした。

 

しかし第二次世界大戦末期からは米英仏とソ連との対立が鮮明になり、

資本主義諸国が中心の西側と社会主義諸国が中心の東側諸国が対立するという

新しい世界秩序が構築されていき、それはドイツ統治も例外ではありませんでした。

 

この敗戦したドイツに対して、ソ連はきっちり戦時賠償金を請求することを主張します。

もちろんドイツは激しい戦火に晒され国土はボロボロであり

とても「はいどうぞ」と支払える状況ではありません。

そのためソ連はドイツを社会主義に基づく計画経済の下に復興を行い、

その過程でドイツから戦時賠償金の返済を行わせようとしたのです。

 

それに対して米英仏の西側諸国は復興を最優先することを主張します。

つまり戦時賠償金は後回しにして、とにかくドイツへ支援や投資を行い、

ドイツを自由経済の下に経済回復を軌道に乗らせようとしたのです。

 

まさに社会主義と資本主義のイデオロギーの激突というわけです。

 

またこのドイツ政策以外ににもアメリカはヨーロッパの共産化を防ぐため、

西欧だけでなくギリシャやトルコなどへの支援を表明しソ連に対する封じ込め政策を進めます。

一方ソ連もドイツにおいて社会主義政策に基づく土地改革や通貨改革を行います。

こうした対立を受けて首都ベルリンの統治を主導権をどこが握るかという問題に発展し、

ソ連は周辺がすべてソ連の統治地域(その後の東ドイツ)であるという地の利を生かし、

ソ連統治地域に囲まれている西ベルリンへの交通制限を課すことを発表します。

逆にいえば第二次世界大戦直後は東西ベルリンは自由に行き来が出来たということなんですね。

 

それに対抗するべく西側諸国は米英仏の3カ国の統治地域のみにおいて通貨改革を実施、

ソ連はこれに激しく反発しさらに東西陣営の対立が激しさを増していきます。

そしてソ連は1948年6月、西ベルリンへの道路はもちろん鉄道や水路を含めた

全ての陸路と水路を封鎖してベルリンを陸の孤島にすることとなるのです。

これが世に言う「ベルリン封鎖」です。

 

 

このベルリン封鎖により、西ベルリンにはまったく物資が入ってこないことになります。

いわば兵糧攻めのようなものですね。

ソ連はこのように西ベルリンを孤立されることで西ベルリン市民の不満が鬱積し、

やがてそれが社会主義革命につながることを期待しました。

もしそこまでいかなかったとしても、200万人の西ベルリン市民を支えるだけの

物資を陸路と水路を使わずに輸送することは不可能であり、

いずれ西側諸国は西ベルリンを手放さざるを得ないというソ連の目算だったのです。

 

しかしこのソ連の目算は残念ながらはずれることとなります。

この記事では封鎖されたものとして「陸路と水路」という表現を使ってきましたが、

これには意味があり、実は「空路」は封鎖されていなかったのです。

西ベルリンはドイツ西部の米英仏の統治地域との交通のため、

ドイツ西部と西ベルリンをつなぐ3本の航空路を「ベルリン回廊」として

ソ連統治地域の上空を通過することを認めていました。

このほか西ベルリンとドイツ西部との間には高速道路アウトバーンが4本、

鉄道路線が4本それぞれ交通として確保されていましたが、

この高速道路と鉄道路線はベルリン封鎖の対象となったのにも関わらず、

3本の航空路は封鎖対象とならず依然として交通が確保されていました。

これはソ連政府も西側諸国との全面対決は避けたかったということと、

空路のみでは西ベルリン市民を支える物資の輸送が出来ないと判断したからです。

 

しかしここで屈してしまったら資本主義諸国の名折れ、

アメリカはこのソ連に対抗すべくこの残された空路を使って

西ベルリンに大規模な物資空輸作戦を決行することになります。

これがのちに「ベルリン大空輸作戦」と呼ばれるものです。

 

 

実際に西ベルリンでは封鎖直後から食料や物資の欠乏に喘ぎます。

この西ベルリンを支えるために必要な物資は食料や燃料なども含めて

1日あたり4500tあまりとされ、とても通常の輸送体制では

この大量の物資を輸送を賄うことなど出来ません。

 

そのためアメリカはC-47やC-54などの輸送機を本国からも大量に派遣し、

イギリスなどから派遣された輸送機とともに西ベルリンへの物資輸送任務に就任します。

またアメリカ本国ではこのベルリン回廊を模した飛行ルートを訓練ルートとして開設し、

この任務につく乗務員の訓練が行われるようになります。

このほか物資の積み下ろしや物資の手配なども体系的に整えられていき、

急速に西ベルリンへの大空輸作戦が整えられていくことになるのです。

 

こうした西側諸国の支援により西ベルリンへの物資輸送量は急激に増加し、

封鎖から半年後には1日あたり5000t以上の輸送量を確保することとなります。

またアメリカ軍は輸送中の機内から西ベルリンへパラシュートをつけた

お菓子を播くなどしたため西ベルリンではアメリカの好感度が非常にあがり、

ソ連の目算とは逆に西側諸国への信頼が絶大になっていってしまいます。

 

そのためソ連はこのベルリン封鎖作戦を失敗と認めざるを得なくなり、

封鎖から約1年後の1949年5月12日に封鎖は解除されることとなります。

 

この封鎖により当時主力であったC-47やC-54などの輸送機のほか、

より大型のC-74やC-82などが試験的に導入されるなど

大型輸送機の技術革新に大きな役割を果たしたほか、

3本の航空路で数分単位でやってくる航空機をいかにして捌くかという

航空管制システムにも影響を及ぼすこととなり

ソ連にとってはまさに「大失敗」といえる結果になってしまったのです。

 

こうして西側諸国と東側諸国との対立が決定的になり、

1949年にそれぞれ西ドイツ、東ドイツがそれぞれ成立し、

東西冷戦の下ドイツが東西に分断されることになり

それに伴いベルリンも東西に分かれることになるのです。

 

東西ドイツ分裂後のベルリンについてはまた次の記事で。