地図ヨミWORLD〜世界の豆知識〜

世界にはたくさんの国や地域があり、それぞれ逸話が隠れています。そんな豆知識を持っていると地図を読むのも楽しくなるはず。

東洋のモンテカルロとはいかにーマカオ

2022-11-30 07:54:10 | 旅行

さて、ギャンブルの都といえばみなさんはどこを思い浮かべますか?

アメリカのラスベガス、はたまた地中海を臨むモナコのモンテカルロか・・・。

アジアではシンガポールやソウルもイメージする人も多いかもしれません。

 

そんな数あるギャンブルの都で最もカジノの売り上げが多い街はどこでしょうか?

実はここ、マカオなんですね。

 

 

これまではアメリカのラスベガスが世界最大のカジノの町でしたが、

2006年にマカオの売り上げが69億ドルに達し、

ラスベガスの65億ドルを抜いて世界最高となりました。

それ以降もマカオのカジノ産業は成長を続けており、

2010年代後半には400億ドルを超える規模にまで到達しています。

ポルトガル植民地時代は香港の陰に隠れてパッとはしなかったマカオ。

中国返還を経てなぜ大きく成長したのでしょうか。

 

 

前回の記事ではマカオがポルトガルの統治を受けるようになった経緯や、

第二次世界大戦後に中国への返還を中国側に拒否され、

ようやく香港返還後の1999年に統治権を中国が回復したというところまで紹介しました。

今回はその中国への返還後のマカオに迫ってみましょう。

 

マカオが返還されたのは香港が返還された2年後、

1999年12月20日のことでした。

マカオは香港同様一国二制度が導入される特別行政区となり、

初代行政長官にはマカオでの暴動後に実験を握り「マカオの王」と称された

何賢の息子、何厚鏵が就任することになりました。

 

このマカオでカジノ産業が発展しはじめたのは2002年から。

当時マカオではドッグレースなどのギャンブルはありましたが、

全てスタンレー・ホーという実業家が牛耳っていました。

しかし2002年にカジノ経営権の国際入札を初めて行い、

その後アメリカのラスベガス・サンズやウィン・リゾートなど

統合型リゾートを経営する外資系企業が多く進出してきました。

 

そしてそのわずか4年後にはラスベガスを抜き世界最大のカジノタウンとなるのですが、

その背景には拡大する中国経済がありました。

マカオには年間3500万人以上の観光客が訪れていますが、

そのうち中国本土からと香港からが3000万人以上を占め、

これらの観光業がGDPの半分以上を賄っています。

マカオには中国本土でも香港でも楽しむことが出来ないカジノがあり、

急激な経済成長であふれ出たチャイナマネーが大量にマカオに流れ込んでいるのです。

 

そのためマカオ政府の歳入も80%以上がギャンブル産業からであり、

まさにマカオはカジノで成り立っているといっても過言ではありません。

 

もちろんカジノだけではなく、世界遺産にも登録されているマカオ歴史地区や

中国のほかポルトガルや日本、インドなどの影響を受けた独特のマカオ料理、

ショッピングセンターに並ぶ高級ブランド店など様々な観光資源があり、

カジノに頼らない統合型リゾート開発も進んでいます。

 

一方でカジノ以外のギャンブルは多く存在するもののあまり目立たず、

マカオのギャンブルとして代表的なものであったドッグレースも

大規模なカジノの進出や動物愛護の観点から人気が下火になり、

2018年を最後にドッグレース場は閉鎖されてしまっています。

 

 

そんなマカオは先述の通り中国本土とは異なる政治体制が敷かれており、

通貨も人民元ではなくマカオ・パタカという独自のものを発行しています。

マカオの首長である行政長官は中国中央政府によって任命される一方、

立法府であるマカオ特別行政区立法会では一部直接選挙で選ばれる議員もいます。

また言語に関してもマカオで広く使われる広東語に加えて

ポルトガル語も引き続き公用語とし定められており、

道路標識や看板などもすべて広東語とポルトガル語の併記が義務付けられています。

しかし実際にはマカオではほとんどの住民が広東語で生活しており、

ポルトガル語はごく少数のポルトガル系住民の間のみにとどまっています。

 

 

そんなマカオに中国からの大量の観光客を受け入れているのがボーダーゲートです。

ボーダーゲートはマカオ北部と広東省の珠海市をつなぐ国境であり、

年間1億人以上が通過する世界最大の国境地点と言われています。

2000年にマカオを西に抜けるロータスブリッジが開通するまでは

中国本土へ抜けることが出来る唯一の陸路であり、

現在でも一日に数十万人の人々が行き交っています。

 

またマカオは香港からの距離が近く、香港からも多くの人が訪れます。

日本からの観光客も香港とセットで行く人も多いでしょう。

かつて香港とマカオの間の交通は船便がメインであり、

ジェットフォイルなどの高速艇が一時間に何便も運航されています。

現在はマカオと香港、珠海をつなぐ港珠澳大橋が開通しており、

マカオからバスで香港国際空港や香港市内に行けるようになっています。

船だと香港マカオ間は1時間弱かかるのに対して

バスだと40分程度で到着するのでかなり便利になりましたね。

 

ちなみに日本からマカオへは大阪や東京から直行便が就航しているほか、

より本数の多い香港国際空港便を利用してもアクセスできます。

また近年ではアジアからの観光客の急増を受けて

中国本土はもちろん台湾や韓国からも多くの便がマカオに飛んでおり、

ソウルや台北などを経由していくことも可能です。

 

ヨーロッパの社交場としてのカジノの雰囲気とは異なり、

ラスベガスのような遊び場としての趣向が強いマカオのカジノ。

 

一発逆転を掛けてチャレンジしてみるのも悪くないかもしれません。

 


ポツンと浮かぶアジアのポルトガルーマカオ

2022-11-22 21:22:36 | 旅行

1990年代に中国に返還された植民地といえば香港が思い浮かぶでしょう。

アヘン戦争からイギリスに占領されていた香港は99年間の租借期間を経て、

1997年に当時のチャールズ皇太子のご臨席の下、大々的な返還式典が執り行われました。

 

しかしその2年後、同じく中国へ返還された植民地があったのはご存知でしょうか。

それがマカオであり、返還したのはポルトガル。

あまり東アジアにポルトガルの植民地があったイメージはないかと思いますが、

なぜマカオはポルトガルの植民地になり、そして1999年に返還されたのでしょうか。

このマカオはどこにあるかというと、

中国南部、南シナ海に面しており東京からは約3,000km、

すぐ東にある香港の中心部からは約60kmほどの距離にあります。

面積は30㎢と東京でいえば中央区と港区を足したくらいで、

新界地区を含めて1,000㎢以上の面積がある香港よりだいぶ狭いですね。

 

この狭い土地に数々のホテルや世界遺産、空港などがひしめき合っています。

 

このマカオはもともと漁業などを営む水上居民が住むエリアであり、

特段注目されるべきエリアではありませんでした。

明代になり東南アジアと中国の貿易が盛んになると貿易の拠点として栄えるようになります。

そんな中国にポルトガル人がやってきたのは1513年のこと。

1500年頃のポルトガルは大航海時代の真っただ中で世界の覇権を誇っており、

広州などで明との貿易を始めることになります。

当初は現在の香港領内にあるランタオ島に拠点を構えていたポルトガルですが、

密貿易対策などから海禁政策をとる明に広州を出禁、ランタオ島を追い出されてしまいます。

しかし当時横行していた南シナ海での海賊掃討にポルトガルが強力したことから

特別に明朝から領内への居留が認められることとになります。

それが現在のマカオだったんです。

ポルトガルはここマカオで中国や日本との貿易を行い、

その代わりに明朝に交易の利益の一部を上納していたのです。

 

ここは当時の中国における唯一のヨーロッパ人の拠点であり、

キリスト教の布教活動の拠点となるだけでなく

長崎との貿易の中継地ともなり大きく繁栄することとなります。

しかしながらその後日本が鎖国をし長崎との交易路が閉ざされたことや、

広州港が解放されたことからそちらでの貿易が多くなり

マカオの立ち位置は相対的に下がっていくことになるのです。

 

 

そんなマカオに転機が訪れたのが19世紀中盤に起こったアヘン戦争です。

アヘン戦争はイギリスが中国にいちゃもんをつけた挙句に

コテンパにやっつけて香港をぶんどったなんともイギリスらしい戦争ですが、

このアヘン戦争で当時に清朝の弱体化が詳らかになると

ポルトガルもここぞとばかりにつけこみ上納金の納付を停止、

その後1887年には中葡和好通商条約で正式にマカオの統治権を獲得します。

ポルトガル領となったマカオではポルトガル人と中国人とで居住区が分けられ、

近代的な法整備が進められていくことになります。

 

一方で19世紀に入るとイギリスやフランスに比べて相対的にポルトガルの国力が低下し、

またマカオ自体が香港に比べて良港ではなかったことから

中継貿易の花形としての地位は完全に香港に奪われることになってしまいます。

 

 

第二次世界大戦がはじまるとイギリス領であった香港は日本軍に占領されたのに対し、

ポルトガルが統治していたマカオは中立港となっていたため

戦火を逃れようと多くの中国人がマカオに難民として流入しました。

また日本を含めた各国がマカオに領事館を設置していたため諜報活動も盛んに行われ、

直接戦争には巻き込まれなかったものの戦争末期には

対日テロが頻発するなど緊迫した状況が続いていました。

 

第二次世界大戦が終わると今度は中国で国共内戦が始まり、

最終的に中国本土には中国共産党による中華人民共和国が成立します。

しかしポルトガルはエスタド・ノヴォと呼ばれるサラザールによる

長期独裁政権下にあり、中華人民共和国とは国交を結びはしなかったのです。

そしてポルトガルはマカオを海外県として統治を続けることとしました。

 

しかし1966年、再びマカオに転機が訪れることになります。

きっかけは中国共産党系小学校にマカオ総督が制裁を科したことで、

当初は平和的なデモだったものが徐々に暴動へと変わっていきます。

これに対して中華人民共和国もポルトガルに人民解放軍の介入をほのめかすなど

ポルトガルに謝罪や賠償を迫り圧力をかけていきます。

これが世に言う「一二・三暴動」というものです。

この時のポルトガルはすでに世界の主要国とは呼べないほどに国力が低下し、

またアフリカでのポルトガル植民地戦争により軍事的にも疲弊していました。

そのためサラザールはこれ以上の軍事対立は不可能と判断し、

中華人民共和国のほぼすべての要求を呑む形で決着をつけます。

その結果、ポルトガルはこれまで友好的な関係を保っていた中華民国の

マカオでの活動をほぼ禁止するなど共産党に配慮した外交政策をとることになります。

またマカオでは親中華人民共和国派の何賢が実質的な権力を握ったこともあり

ほかのポルトガルの植民地に比べて逆に安定した政治運営がなされました。

 

そして迎えた1974年、ポルトガルではカーネーション革命が起き

40年以上に渡って続いたサラザールによる独裁政権が崩壊します。

そして誕生した民主主義政権では脱植民地主義が図られることとなり、

マカオの統治権も中国への返還が打診されました。

しかし、なんと中国はこれを拒否し、ポルトガルによる統治を希望します。

なぜ中国はマカオ返還を拒否したか?というと、これは香港に絡む問題でした。

1970年代の中国は文化大革命などの影響で世界的に孤立していました。

1971年に国際連合の代表権を獲得、翌年には日米との関係も回復に向かうなどしていたものの、

東側諸国として西側への窓口としての役割を持つ香港は非常に重要なものでした。

もしここでマカオの返還を認めてしまったら同じ状況下にある香港でも

返還に向けての不安が広がり、香港の政情が不安定化してしまう。

それを恐れた中国はマカオの返還も拒否したのでした。

 

また1979年にはポルトガルと中国が国交を樹立することになりますが、

この際も再びマカオ返還を打診するも再び同じ理由で中国は拒否。

当面はポルトガルが統治権を行使することで一旦棚上げされることとなりました。

 

 

そんなマカオがようやく返還に向けて動き出したのが1980年代後半。

香港がイギリスから返還されることが決まってからでした。

「マカオ返還に伴う香港市民の動揺」という懸念事項が無くなり

香港返還の2年後に統治権がポルトガルから中国へ譲渡されることとなりました。

 

ちなみにこのマカオにおいても香港同様一国二制度が導入され、

マカオ基本法を基準としたポルトガルから受け継いだ社会制度が

返還後50年間は維持されることとなったのです。

 

なお、このマカオに関しては香港と大きな違いがあります。

それは香港はイギリスの植民地であり主権はイギリスが持っていたのに対し、

マカオの主権は中国にあり、ポルトガルはあくまで統治のみをしていたことです。

これは1887年に中葡和好通商条約が結ばれたあとも同様であり、

この点から「マカオは一度もポルトガル領になったことがない」とも言えます。

なぜなら明代からマカオの主権は中国が持ち続けてきたわけですからね。

しかし実際にはマカオの行政はポルトガルが取り仕切っており、

実質的にはポルトガルの植民地であったことに変わりはありません。

 

さて、こうして中国に復帰したマカオですが、

現在は世界的な観光地として注目を集めています。

 

それでは返還後のマカオについてはまた別の記事にて。


何故捜索が進まなかったのかー大韓航空の謎③

2022-11-22 14:15:52 | 旅行

日本人にとって最も馴染みの深い外資系航空会社である大韓航空。

いまでこそ東アジアを代表する航空会社のひとつとなりましたが、

過去には大きな事件に巻き込まれてきた歴史を持ちます。

これまでの記事では過去に起こったソ連のよる銃撃事件を2件ご紹介しました

1つは1978年にコラ半島上空で起こり2名が死亡した銃撃事件、

そして1983年にもう2つはサハリン沖で起こり269名全員が死亡した撃墜事件です。

 

今回はその撃墜事件から4年後の1987年11月29日に起こった、「爆破事件」をフィーチャーします。

 

 

三、大韓航空機爆破事件(1987年)

 

この爆破事件に巻き込まれたのは大韓航空858便、

機材はもともとマクドネル・ダグラスDC-10型機で運航される予定でしたが、

当日に機材変更がありB707型機で運航されることとなっています。

 

858便はイラクのバグダッドからアブダビ、バンコクを経由しソウルに向かう便で、

その乗客のほとんどは中近東で働く韓国人の出稼ぎ労働者でした。

以前の2件の銃撃事件はいずれも欧米からアンカレッジ経由でソウルに向かう便で

韓国人のほか日本人や台湾人などが多数搭乗していたのとは対照的ですね。

 

858便は経由地であるアブダビを出発しバンコクに向かっていた際に

ミャンマーの首都ラングーン(現在のヤンゴン)南方の海上で爆弾が爆発、

機体は空中分解して乗員乗客115名が全員行方不明、のちに死亡認定されました。

この爆破後の機体の捜索は難航を極め、

ただでさえレーダーサイトの整備が貧弱であるアンダマン海近辺で起こった事件で、

そこにタイとミャンマーの国内問題、国際問題が絡み

結局完全な形で遺体が収容できた乗員乗客は一人もいませんでした。

 

ではこの事件を時系列で追ってみましょう。

 

 

 

この爆破事件を仕掛けたのは北朝鮮の工作員である金勝一と金賢姫でした。

彼らは事件が起こる2週間ほど前に平壌からヨーロッパに向け出発、

モスクワやブダペストなどを経由してユーゴスラビアに向かい

首都のベオグラードで爆発物を受け取ったとされています。

 

その後11月28日にイラク航空でベオグラードからバグダッドへ向かい、

爆発物とともに大韓航空858便に乗り込みました。

最初の経由地であるアブダビについた際に爆発物を残して二人は降機し

858便は爆発物を積んだまま次の経由地のバンコクへ向かったのです。

 

アブダビを出発した858便はそのままペルシャ湾、インド上空を通過し

アンダマン海上でビルマ(現在のミャンマー)の航空管制区域に差し掛かります。

このビルマ空域に差し掛かる際に管制塔とコンタクトをとったのが最後の通信となり、

その約50分後に機内で爆弾が炸裂しで機体は空中分解をして墜落します。

この爆発によって機長は緊急信号などを出す間もなく即死したとみられ、

この時点では858便が爆破されたことに地上管制は気づいていませんでした。

 

しかし定時交信報告が途絶え、タイの領空に入るとされた時刻にもコンタクトがないことから

858便に何らかの異常事態が発生していることが明らかになります。

このため当初858便の遭難地帯はアンダマン海ではなく

ビルマとタイの国境付近にあるジャングル地帯であると推定され、

ビルマとタイの両政府が捜索にあたることになりました。

 

しかし858便が墜落したとされるビルマとタイの国境地帯のビルマ側は

ビルマ政府と対立し武装闘争を繰り広げていたカレン族が支配する地域で

ビルマ政府が捜索活動を行うことが出来ませんでした。

またタイ側もビルマから逃れてきたカレン族の難民が多いエリアであり

ビルマのカレン族が国境を越えて武装闘争をしていたため

タイ政府も思うような捜索活動が出来ない状況が続き、

韓国政府も「ハイジャックされた」との誤情報を公式に発表してしまうなど

何もわからない状態の中で混乱が続きました。

 

そして858便が行方不明になってから2週間ほどが経ってから

ラングーンの南方を中心に海上や海岸で機体の残骸が次々と発見されるようになり

墜落した場所が陸上ではなく海上であることがわかってきたのです。

この残骸はB707の原形をある程度とどめているものも多く、

858便のものであることは当初からほぼ確実視されていましたが、

ブラックボックスの回収が出来なかったため決め手に欠け、

これが858便のものであると正式に断定されるのは1990年まで待たなければなりませんでした。

 

 

さて、この事件の実行犯である金勝一と金賢姫ですが、

実はこの二人は日本の偽造パスポートを所持しており、

「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」という偽名の日本名を名乗っていました。

二人はアブダビで降機した後にバーレーンに向かうのですが、

この大韓航空機消失を「左翼日本人による反韓国テロ事件」である可能性を調べ、

バーレーンの出入国記録を照会していた在バーレーン日本大使館の職員によって、

この入国した二人の「日本人」がパスポートを偽造していることが発覚するのです。

そのためバーレーン警察の協力のもとローマへ出国しようとしていた二人を、

この大韓航空機消失との因果関係がわからないまま拘束することとなるのです。

 

しかしこの際、蜂谷真一を名乗っていた金勝一は空港でそのまま服毒自殺、

蜂谷真由美を名乗っていた金賢姫も服毒自殺を試みますが、

バーレーンの警察官が飛び掛かり吐き出させたため一命を取り留めました。

その後バーレーンにて取り調べが行われますが、

結局この「蜂谷真由美」は国籍も正体もわからないまま、

韓国に引き渡されることになるのです。

 

韓国に引き渡された金賢姫は、当初は北朝鮮の工作員であることを明かさず、

最初は日本人、次いで中国人になりすまそうとします。

しかし熱湯をかけられた際に出た咄嗟の朝鮮語や、

「日本ではチンダルレのテレビを使っていた」という供述を行っていたことから

北朝鮮の工作員であることがバレ、ついに口を割ることになるのです。

ちなみにこのチンダルレとは北朝鮮ブランドのテレビであり、

日本人や中国人であればまず知らない名前であったのだ。

 

こうして金賢姫の証言によりこの爆破が北朝鮮によるテロリズムであることが明らかになるのですが、

ではなぜ北朝鮮はこのような暴挙に出たのでしょうか。

 

 

この背景には北朝鮮により韓国社会を混乱に陥れるため、

また翌年に控えたソウルオリンピックを中止に追い込むためであったとされています。

 

ソウルオリンピックはアジアでは東京に次ぎ2番目に開催されるオリンピックでしたが、

このオリンピック、過去3回の大会ではそれぞれボイコットをする国が多く、

ほぼすべての国が参加する形でオリンピックが開催されるのは4大会ぶりでした。

なお1976年のモントリオールオリンピックでは

南アフリカの人種差別政策に反対するためにアフリカ諸国がボイコットを行い、

1980年のモスクワオリンピックではソ連のアフガニスタン侵攻を口実に

日本を含む西側諸国やアフガニスタンを支援するイスラム諸国などがボイコット、

また1984年のロサンゼルスオリンピックではアメリカ軍によるグレナダ侵攻を口実に、

実際には1980年のモスクワオリンピックボイコットへの報復として

ソ連や東ドイツなどのなどの東側諸国が参加をボイコットしました。

 

そのため久々に完全体でのオリンピックとなる予定であったソウルオリンピックに対し、

航空機が爆発するという韓国の国家に対する信頼低下を招く事件を起こすことで

東側諸国のオリンピックボイコット、またはオリンピック自体の中止を目論んだのです。

 

しかしながら実際には北朝鮮の関与が詳らかになったことから

逆に北朝鮮が国際社会から激しい非難を浴びるようになり、

ソウルオリンピックは多くの東側諸国が参加して無事に開催、

そのうえオリンピック後にはソ連や中国が韓国と国交を樹立するなど

逆に北朝鮮が東側諸国からも見捨てられるような結末になりました。

 

これに対して北朝鮮はこの爆破事件をいまだに「韓国の自作自演」として

国家の関与自体を否定しています。

ただ国際的には北朝鮮による国家犯罪の典型として認識されており、

さらなる北朝鮮の孤立を招くことになってしまった事件でした。

 

二度と繰り返してはいけないことですね。


何故カムチャッカに向かったのかー大韓航空の謎②

2022-11-20 22:42:51 | 旅行

日本人にとって最も馴染みの深い外資系航空会社である大韓航空。

いまでこそ東アジアを代表する航空会社のひとつとなりましたが、

過去には大きな事件に巻き込まれてきた歴史を持ちます。

 

 

前回の記事では1978年に起こった大韓航空機銃撃事件をご紹介しましたが、

今回はその5年後、1983年に起こった撃墜事件をご紹介します。

 

 

二、大韓航空機撃墜事件(1983年)

 

 

今回の事件の舞台となったのは大韓航空007便、

ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港発ソウル行の便でした。

こちらも前回の銃撃事件同様、アラスカのアンカレッジ経由です。

運航されていた機体は当時世界最大の旅客機であったB747型機。

「ジャンボジェット」といえばこの形ですね。

もともとは1972年にドイツのコンドル航空が購入した機体で、

1979年に大韓航空に払い下げられた機体です。

 

この007便は1983年8月31日の夕刻にニューヨークからアンカレッジに到着し、

22時頃にアンカレッジからソウルへと出発しました。

(いずれも時間は東京/ソウル時刻)

乗客の多くは韓国人やアメリカ人でしたが、

ソウルを経由する日本人や台湾人、英領香港人なども多数搭乗していました。

 

 

この画像が本来007便がとるはずであったルートと

実際に007便がとったルートです。

ちなみに画像左側のU.S.S.R.というのはソビエト連邦のことですね。

1983年はまだ冷戦真っ只中であり、西側である韓国の航空機は

日米の航空会社同様、ソ連上空を飛行することが出来ませんでした。

 

そのためアンカレッジからソウルへ向かう飛行機は

最短距離であるカムチャッカ半島上空を通過するルートではなく、

カムチャッカ半島の南をぐるっと回り、日本の本州上空を通過して

ソウルへ向かうルートをとっていました(画像の赤い点線)。

 

しかしながらなにを思ったのか007便は直線ルートに近い

カムチャッカ半島上空、つまりソ連領空に侵入するルート(画像の赤い実線)を選択し、

カムチャッカ半島上空を通過したのちにサハリンに接近します。

 

これに対してソ連軍は警戒態勢に入りMiG-23P迎撃戦闘機が出撃します。

しかし007便はその存在にまったく気づいていなかったとされ、

その後戦闘機から発射されたミサイルが命中してサハリン沖の日本海に墜落、

乗員乗客269名全員が死亡するという大惨事となります。

 

墜落後の機体についてはソ連のほか日本やアメリカも捜索を行いましたが、

ソ連政府により日米の艦船は領海内への進入を認められず、

また公海上の捜索においてもソ連軍による妨害を受けています。

またフライトデータなどが集約されているブラックボックスも

撃墜後すぐにソ連政府により回収されていましたが、

ソ連は日米など世界に対して「ブラックボックスは行方不明」と発表し、

その存在を隠匿していました。

 

その結果撃墜後の半年間、日米はあるはずもないブラックボックスを

日本海で探し続けることとなります。

 

 

この事件は5年前同様にソ連軍に民間機が攻撃されたというだけでなく、

撃墜された上に乗客乗員全員死亡というその結果から

世界中に衝撃を与えることとなりました。

しかしなぜこの007便はソ連領空に侵入してしまったのでしょうか。

 

この原因は当事者が死亡しているほかブラックボックスをソ連が隠匿していたため

ソ連が崩壊する1990年代までわからないままでした。

そのため様々な陰謀説などが飛び交っていたのも事実です。

 

その一つが「アメリカ軍による指示説」です。

当時は先述の通り冷戦期であり、アメリカとソ連は対立関係にありました。

そのためアメリカの同盟国であった韓国の航空会社に

敢えて領空を侵犯を依頼することでソ連極東のソ連軍の配備状況を調査したり、

逆にアメリカ軍による哨戒活動を行いやすくするために

ソ連軍を撹乱しようとしていたとの説です。

実はこの米軍陰謀説は民間機撃墜というイメージダウンを極力避けるために

ソ連側が唱えていた説でもあります。

そのためにブラックボックスを回収したことも隠匿し、

「悪いのはアメリカだ」という主張を繰り返したのです。

当初この陰謀論は西側諸国のメディアでも取り上げられていましたが、

さすがのアメリカも自国民が多く乗る民間旅客機をおとりには使わず、

またソ連崩壊後にブラックボックスがロシア政府により公開されたことから

この陰謀論は完全否定されています。

 

それと同時に唱えられていた説が「燃費節約説」です。

飛行機は当然短い距離で飛べばその分燃費が節約できます。

つまり本来のカムチャッカ半島南部を大回りするルートよりも

直線的にアラスカからソウルへ向かったほうがお得ということですね。

そのため機長が燃費を節約するためにこのルートを通ったという説です。

しかしこれについては端から眉唾物とされていました。

というのもこのルート変更でお得になる燃費はせいぜい数十万円程度。

それをケチって最悪撃墜の恐れがある敵国領空へ侵入することに

なんのメリットもないといえます。

しかも大韓航空は5年前に同じくソ連領空に侵犯し、

機体の損壊と乗客の大幅減という大損害を被っています。

そのリスクを負ってまで燃費をケチろうとしたとは・・・。

というわけでこの説は早々に消え失せました。

 

そして現在この原因とされているのが、ヒューマンエラーによる

何かしらのミスが発生したというものです。

ここに関しては機体が大破していることもありなにが原因であったか

未だにわからないのですが、おそらくは慣性航法装置にかかわる

ミスが発生したと思われています。

実際に大韓航空では2分後にアンカレッジからソウルへ同ルートで向かう便があり、

その便との交信の中で両機の風速などの情報が食い違っていたのです。

しかし007便はまさか自機がとんでもない方向へ進んでいるとは思わず、

この違いは誤差として片付けられてしまいました。

また乗務していた運航乗務員は比較的タイトなスケジュールが組まれており、

フライトレコーダーにも欠伸を繰り返す様子が記録されているなど

ヒューマンエラーが起きやすい環境であったとされています。

 

またアンカレッジの段階では機体に異常がなかったこと、

過去に慣性航法装置の起動し忘れなどで航路を逸脱したことがあったことから

恐らくはこれが原因でないかと言われています。

 

 

なお今回の件に関してソ連はというと、仮想敵国であるアメリカ国民が多数死亡したこともあり

情報の公開には非常にセンシティブになっていました。

これについて1976年に函館空港に戦闘機を強行着陸させアメリカへ亡命したベレンコ元ソ連空軍中尉は

「領空を侵犯すれば民間機であろうがなんであろうが撃墜するのがソ連だ」とし、

パイロットも民間機である可能性をわかっていながらも迎撃しなかった責任を負うのを避けるため

ミサイルでの迎撃に踏み切ったのではないかとの見解を示しました。

 

いずれにせよ一般の民間旅客機が戦闘機に迎撃されて全員が命を落とすという

凄惨の事件であったことには間違いありません。

 

しかし、大韓航空を待ち構えていたのはこの事件だけではなく、

ここからさらに4年後、またしても事件が起こるのです。

 

その事件はまた別の記事で。


何故ソ連に向かったのかー大韓航空の謎①

2022-11-18 22:21:05 | 旅行

日本で最も馴染みのある「外資系航空会社」といえばどこでしょうか。

かつて東京をハブにアジア各地に路線を持っていたノースウェスト航空か、

はたまたノースウェストを吸収合併したデルタ航空か、

またはシンガポール航空やキャセイパシフィック航空などアジアの航空会社か・・。

 

近年ではここに韓国の空の雄、大韓航空も入ってくるでしょう。

 

いまでこそソウルから日本各地に地方空港にも就航しており

「仁川は日本最大のハブ空港」なんて言われるようにもなりましたが、

かつて大韓航空といえば少し危険なイメージもありました。

さて、大韓航空になにがあったのでしょうか。

 

 

大韓航空は1946年に大韓国民航空として誕生し、

1969年に韓進グループ主導で民営化されて現在に至ります。

かつて東京の空港が国内線は羽田、国際線は成田と完全に分かれており

地方の空港から東京を経由し国際線に乗り継ぐのが不便だったころから

日本の地方空港と仁川国際空港を結ぶ積極的に進出しており

仁川で多くの国際線に接続することで日本からの乗り継ぎ客を取り込み

東京の不便な状況に対しての皮肉も込めて仁川空港が日本最大のハブ空港

なんていう呼ばれて方をしてこともありました。

 

現在は航空連合スカイチームの主要メンバーの一社となっている航空ですが、

世界的に注目を集めることとなってしまった事件3件をご紹介しましょう。

 

一、大韓航空銃撃事件(1978年)

この事件はパリ発ソウル行きの大韓航空機が進路を誤ってソ連領空内に侵入し、

ソ連の戦闘機に銃撃されるという衝撃的な事件でした。

 

銃撃されたのはパリ発ソウル行大韓航空902便のB707型機。

冷戦期で西側諸国の飛行機はソ連上空を飛行できなかったため、

現在のような直行便ではなくアンカレッジ経由で運航されていました。

この便には韓国人やフランス人のほか、航空券の安さから

ヨーロッパから日本へ帰る日本人留学生なども多く搭乗していました。

 

 

これが大韓航空902便がとった進路です。

西欧からアンカレッジ経由で東アジアへ向かう場合、

ヨーロッパを飛び立った後グリーンランド方面へ飛行し、

北極圏を通過した後にアンカレッジに着陸します。

図の青いラインがそのルートとなります。

しかし902便はグリーンランドを過ぎたあたりでなぜか大きく進路を変え、

フィンランドやコラ半島方面に戻るように飛行していきます。

902便がとった誤ったルートというのが赤いラインですね。

 

そのままソ連領空に突入した902便はさらに南に向かって飛行を続け、

ソ連防空軍の迎撃を受けることになります。

この際ソ連のSu-15が発射した空対空ミサイルが左翼エンジン付近に命中し、

韓国人と日本人の乗客2名が命を落としました。

 

そのままソ連空軍機の誘導でコラ半島北部にある

ムルマンスク市郊外のイマンダラ湖に不時着を行います。

そして不時着から2時間後ソ連軍により乗員乗客は保護され、

乗客と乗員の大半はモスクワ経由でフィンランドのヘルシンキへ出国し、

機長と航空士はレニングラードに移送後1週間後に解放されました。

 

 

この旅客機が空軍機に迎撃された上にソ連の湖に不時着するという事件、

そもそもなぜ大韓航空機は進路をまったく違う方向にとったのでしょうか。

 

 

この時大韓航空が運航していたB707型機は1967年に製造された機体で、

パンアメリカン航空に納入されたものが1977年に大韓航空にリースされたものでした。

そのため機体には当時新鋭機を中心に導入が進んでいた慣性航行装置はなく、

また北極圏で地上航法施設もないエリアだったため、

航空士のより天文航法がとられていました。

天文航法は太陽の位置によって方位を図る旧来からの方法で、

コンパスなどを使用し航空機の針路を決定していたのです。

 

しかも902便は出発後グリーンランドの手前でコンパスが故障し、

自機の位置を見失っていたといいます。

また通信装置も故障しており、ソ連防空軍機が近づいてきた際にも

902便と空軍機との間で交信をすることが出来ませんでした。

そのため航路を大きく逸脱したことが誰にもわからず、

902便の乗員は迎撃されて湖に不時着するまでソ連にいることに気づかず、

アラスカ上空を飛行していたと勘違いをしていたのです。

 

しかしながらいくら天文航法といえどもコンパス以外にも方位を図る方法はあり、

コンパスひとつが故障したからといって自機の位置を見失うとは考えにくく、

ここまで大きく逸脱したのは運航乗務員の職務怠慢であったとされています。

一時は乗員らが飲酒をしながら乗務をしていたのではないかという報道も出たほどでした。

 

また当時は冷戦下であり韓国とソ連は敵対関係にあったことから

ソ連への情報収集をするために領空へ侵入したという陰謀論も盛んに唱えられました。

しかしこれについてはここまであからさまにソ連に突入していったのでは

スパイ活動もなにもないうえに、貨物機であるならばまだしも

わざわざ多数の乗客を乗せた旅客機で情報収集を行う必要もないため、

このスパイ論は次第に鳴りを潜めるようになりました。

実際に不時着後にソ連により機体の調査が乗員への取り調べが行われましたが、

902便がそういった活動はしていないとソ連側も発表をしています。

 

ソ連側もソ連側でパイロットは迎撃までに威嚇射撃を行いましたが、

これは軍からの「即時撃墜」という命令を無視してのことでした。

通常領空侵犯機が軍用機か民間機がわからない場合は撃墜の指示はしないという

国際慣習を無視したソ連の横暴さも明るみにでた事件でもありました。

 

 

乗員乗客107名のうち2名の尊い命が奪われた悲しい事件ですが、

今回の銃撃事件では大半の乗客は無事帰国の途に就くことが出来ています。

しかし5年後、ソ連への領空侵犯でさらなる大事件が発生するのです。

 

それはまた別の記事で。