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ただちに、滞りなくーベルリン

2023-01-11 00:00:52 | 旅行

中央ヨーロッパを代表する世界都市、ベルリン。

 

いまでこそ世界の大都市の中でも住みよい街として知られていますが、

かつては東西冷戦の最前線として両陣営の対立に翻弄され、

西ベルリンは東ドイツより建てられた高い壁に囲まれていました。

今回の記事ではこの壁が崩壊した1989年11月9日に焦点を当てて、

あの日にいったい何が起こったのかをご紹介していきましょう。

 

 

ベルリンの壁は1961年に突如として西ベルリンを取り囲むように建設され、

いくつかの例外を除き東西ベルリン間の交通は遮断されることになります。

この壁により西ベルリンは東ドイツの真ん中で孤島のようになってしまった一方、

当時急増していた東ベルリンからの亡命が事実上不可能になったことにより

東西ドイツ間の関係の安定化に貢献したともされています。

 

この壁の建設によりひとまずは安定化した東西ドイツの関係ですが、

1980年代になりほかの東側諸国で民主化の動きが進むと、

東ドイツでもその動きが強くなり、再び多くの東ドイツ人が

ハンガリーなどを通じて西ドイツへと亡命をしていくようになります。

これを受けて東ドイツ政府は海外旅行の一部自由化を実施することになり、

1989年11月9日にこの施策について記者発表を行うことになります。

そう、これがベルリンにとっての「運命の日」となるのです。

 

 

もともとこの法案はプラハなどに滞留している東ドイツ難民問題を

処理することを目的として策定されたもので、

移住などを含む永久出国は認めるというものでしたが、

それでは逆に短期の旅行が認められないという矛盾が発生するため

短期の旅行も含めた出国が可能になる政令となっていました。

 

内容としては、

「外国旅行は目的などの諸条件を提示することなく申請することが出来る」

「警察は国外移住のための出国査証を遅延なく発給する」

「国外移住について東西ドイツ国境及び東西ベルリン検問所のすべてが使用できる」

「この措置については1989年11月10日からただちに効力を持つ」

といった内容で、この内容が発効前日11月9日に記者発表されることとなったのです。

当然ながらこの内容は東ドイツ国民の旅行の規制緩和を目的としたものであり、

ベルリンの壁は存続させることが前提である法令でした。

 

この記者発表を担当したのが東ドイツの政治報道局長である

ギュンター・シャボフスキーで、記者発表に臨む前に

エゴン・クレンツ書記長からこの法案のリリース用の文書を手渡されますが、

シャボフスキー自体はこの文書の仔細をよく理解しないまま

記者会見が始まってしまいます。

 

その記者会見で「この法令はいつから有効なのか」との質問が記者からされるのですが、

実際にこの法案が施行されるのは翌日の11月10日からであり、

また完全に自由化されるというわけではありませんでした。

しかしシャボフスキーは文書にある「ただちに」という言葉に引っ張られ、

記者の質問に「いまこの時から有効」という回答をしてしまいます。

またベルリンにおける国境管理についても、「国外移住において

ベルリンのすべての検問所が利用できる」という文言から、

「短期の旅行も含めすべての検問所から出国が可能」と発表してしまうのです。

 

つまり本来は「明日から出国要件が一部緩和される」という内容の法令が

「いますぐ誰でもどこからでも出国できる」という誤った内容で発表されてしまったのです。

 

 

この記者発表は東ドイツで生放送されていたこともあり、

東西ベルリン市民に大きな衝撃をもって受け入れられました。

記者発表が行われた直後には西ベルリン発で西側諸国にも速報が打たれ

アメリカなどでも大きく報じられることになります。

 

この国境が開放されるとの報道を受けた東西ベルリンでは

ベルリンの壁の検問所周辺に次々と市民が集まり始めます。

しかしながら検問所の係員には当然国境解放の指示はなく、

ある者は慌てて上官に問い合わせを行い、

ある者は翌日の指示を待とうと自宅に戻っていたといいます。

 

報道がされた午後7時以降はまだ東ドイツ側も数百人程度しか集まっておらず、

西ベルリンへの通行を求める人々に対しても検問所の係員は

これまでの制度に則り通行しようとした市民を追い返していました。

しかしながら午後9時を回った頃にはそれが数万人にまで膨れ上がり、

西側への通行を求めてシュプレヒコールを挙げるようになります。

この勢いに負けたいくつかの検問所では「国外退去」という名目で

徐々に東ベルリン市民を再入国不可の条件のもと西ベルリンへと送り出します。

西ベルリン側でも集まった数千人の市民が国境警備兵に解放をせまり、

午後11時頃には西ベルリン側の市民が次々とベルリンの壁に上り始めます。

 

この光景を目の当たりにした検問所の指揮官たちは

これ以上国境を封鎖しておくのは不可能と判断し、

午後10時45分、ボルンホルム通りの検問所が完全に開放されます。

続いてほかの検問所の次々と解放されていき、

ここに1961年8月13日に突如建設されたベルリンの壁が事実上崩壊するのです。

 

そして日付が変わる頃にはベルリン市民が持ち寄ったハンマーや建設重機で

どこからともなくベルリンの壁が物理的に破壊されていきます。

その横で東ベルリン市民は東ドイツ車にのり大量に西ベルリンへとなだれ込み、

西ベルリン市民はこの旧式の東ドイツ車に乗ってやってきた東ベルリン市民を

花や酒を片手に大歓迎を行います。

こうして1989年11月9日、ベルリンは第二次世界大戦後からの

長い長い分断の歴史に終止符が打たれることとなったのです。

 

そしてこの冷戦の象徴ともいえるベルリンの壁の崩壊は

アメリカとソ連による東西冷戦の終焉へと帰結し、

1989年12月、米ブッシュ大統領とソ連ゴルバチョフ大統領により

冷戦の終結が宣言されることになります。

 

このベルリンの壁崩壊は東ドイツの社会主義体制の終焉も意味し、

同年12月には社会主義統一党のよる一党独裁体制が崩壊、

大量の人口流出に見舞われた東ドイツ経済は大打撃を受けることになり

翌年1990年10月、東西ドイツの統一にまでつながっていくことになります。

 

こうして東西が統一されたベルリンは新生ドイツの首都となり、

鉄道や道路などで旧東西ベルリンをつなぐ工事が行われたほか、

ベルリンの壁の跡地などで大規模や再開発が進行し、

いまやドイツのみならず中央ヨーロッパを代表する都市となったのです。

 

なお長らくベルリンの玄関口として西側はテンペルホーフ空港と、テーゲル空港、

東側はシェーネフェルト空港がそれぞれ運用されていましたが、

21世紀になってそれぞれの空港がシェーネフェルト空港へと集約され、

改築後に新たにブランデンブルク国際空港として生まれ変わっています。

 

ドイツ最大の都市としてドイツ分断の歴史、そして冷戦をみつめてきたベルリン。

ドイツを訪れた際には一度おとずれてみたいですね。

 



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