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東ドイツは混乱にーベルリン

2022-12-19 20:07:29 | 旅行

1961年、突如として西ベルリンを囲うように出来上がった壁。

この壁によりベルリンは引き裂かれたと同時に、

東西ドイツの関係の安定をもたらすという恩恵もありました。

 

建設直後は突然の封鎖で家族と離れ離れになってしまったり

無理矢理に壁を越えようとして命を落とす者もいましたが、

その後は東西ドイツの関係が改善に向かったこともあり、

東ドイツから西ドイツへの亡命者はこれまでより大幅に減ることになります。

しかしこのベルリンの壁は1989年、突然終わりを迎えることとなります。

 

 

上記のようにこのベルリンの壁の建設により東西関係は鞏固し、

以後1980年代後半まで安定した状態が続きます。

 

一方でベルリンの壁建設以降も相変わらず東西ドイツの国境は封鎖され、

それに加えてベルリンを通しても行き来が大幅に制限されるようになり、

ベルリンの壁も厳しい監視の目が張り巡らされており、

無理矢理亡命をしようとする人には命の危険も含め多大なリスクを伴うようになります。

そのため東ドイツから西ドイツへの逃亡を援助する「闇ビジネス」が横行するようになり、

東西ドイツ間で問題になるようになるのです。

 

そのため東西ドイツ両政府は「人道的措置」として

東ドイツの政治犯を西ドイツで買い取るという制度を作ることになります。

この対象となったのは政治犯として東ドイツに拘置された人で、

東ドイツにとっては反体制派を体よく国外追放出来ると同時に

なんと西ドイツからお金をもらえるという一石二鳥のビジネスでした。

また東ドイツは65歳以上の東ドイツ国民については

西ドイツへ自由に渡航が出来るようにします。

65歳といえば東ドイツでは年金の受給がスタートする年であり、

万一その人たちがそのまま西ドイツへ亡命したとしても

労働力ではないばかりか年金を払う必要もなくなるため、

むしろこういった老人を西ドイツへ押し付けようともしていたのです。

 

逆に西ベルリン側からも一定の制限があるものの

クリスマスなどの時期には家族に会うために

東ベルリンを訪れる許可が下りるようになり、

東ベルリンから西ベルリンへも家族の葬儀などの場合には

特例的に渡航が認められた例もあったようです。

 

こうして壁の存在と両国間の緊張緩和により、

東西ドイツは互いに牽制をしあいながらも

共存の道へと進んでいくこととなります。

 

 

しかしながら1980年代も後半になってくると

資本主義vs社会主義という東西冷戦の構図にも変化が訪れ、

その波は東側陣営にいた東ドイツにも押し寄せることになります。

 

1985年、ソ連ではゴルバチョフが共産党書記長に就任し、

ペレストロイカと呼ばれる社会主義体制の改革に着手します。

これに伴い、同じ東側陣営に属する国々でも改革が進んでいきますが、

東ドイツはこれを拒否、ゴルバチョフと対立することになります。

というのも、東ドイツにとっては社会主義体制の維持こそが

国家の存続意義となっていたからなのです。

1949年のドイツ分断以来、東ドイツは西ドイツと対立するにあたり

その「社会主義」のイデオロギーこそが西ドイツとの相違となっていました。

つまりその相違を捨ててしまうことは西ドイツとの分断国家であることの

意味を失ってしまうことにつながり、それは国家の崩壊を意味します。

そのため東ドイツは東側陣営に広がっていた改革の波に抗い続け、

マルクス・レーニン主義を貫いていくことになります。

 

一方でほかの社会主義国では次々と社会改革が進んでいきます。

1989年にはポーランドで行われた自由選挙で共産党が敗退し、

同年ハンガリーでは改革派の首相の就任により変革が進んでいきます。

そんな中、東ドイツでは自国の改革の遅れが国民の不満を招き

国外移住を求める申請がこれまでの数十倍に膨らんでいくのです。

 

こうして改革が進む他の東欧諸国とは一線を画していた東ドイツですが、

やはりこの改革の波の影響を受けざるを得なくなります。

その代表的なものがハンガリーの国外旅行自由化でした。

冷戦下では東西陣営の国境は「鉄のカーテン」と呼ばれており、

人や物の行き来が厳重に管理されていました。

しかし民主化が進む東側諸国ではこうした規制も少なくなり、

ハンガリーも1989年に国外旅行が自由化され

かつて鉄のカーテンの一部を構成していたオーストリアとの国境も開放されます。

一方で東ドイツではこうした規制緩和は進んでいませんでしたが、

同じく東側諸国であるチェコスロバキアやハンガリーには

比較的簡単に旅行にいくことができました。

そのため、ハンガリーとオーストリアの国境が開放されたことを知った東ドイツ国民は

陸路にてチェコスロバキアを経由してハンガリーへ到着、

そのままオーストリアに抜けて西ドイツを目指そうと画策したのです。

しかしながら当初この国境の開放はハンガリー国民に限られていたため、

東ドイツ人は国境を越えて西側であるオーストリアに辿り着くことが出来ず、

10万人近い東ドイツ人がハンガリーとオーストリアの国境地帯に滞留することになります。

困ったハンガリーのネーメト首相は西ドイツのコール首相及び

ソ連のゴルバチョフ書記長の了承を得て東ドイツ人にも国境を開放、

東ドイツ人は国境を越えてオーストリア経由で西ドイツへと向かいました。

こうしてハンガリー経由で西ドイツへ亡命が出来る合法的なルートが構築され、

そこに自国の改革の遅れに不満を持つ東ドイツ人たちの心情も相まって

再び東ドイツは人材の大規模な流出に直面することになります。

そして1989年10月、東ドイツは隣国チェコスロバキアとの国境を封鎖することになるのです。

 

この東ドイツの強硬策はゴルバチョフの支持を得ることもできず、

当時東ドイツの最高指導者であったホーネッカーは失脚、

後任として書記長に就任したクレンツは国民の支持もほとんどない中、

民主化デモと人材流出で大混乱に陥る東ドイツの立て直しを図ります。

実際、医療や建設などにかかわる専門職の人々がいなくなりインフラが停滞し、

鉄道やトラックなども人員不足で物流もままならない状態になっていたのです。

 

そんな状況で東ドイツは一定の国外旅行を認める法案を作成、

西側諸国へも含めて出国規制を緩和することとしますが、

出国には国の厳しい許可が必要なことなど相変わらず制限が課されており、

人民議会により否決されてしまいます。

これを受けて、クレンツは再び恒久的な出国を認める新しい法案を検討し、

一定の国の管理は受けるものの、これまでとは異なり西ドイツも含めた西側諸国へ、

短期長期関わらず渡航が可能になるというものでした。

もちろん「国の管理」とあるように誰でも自由にというわけではなく、

出国を希望する者は事前に東ドイツ政府への申請が必要であることに変わりはなく、

当然ながらベルリンの壁も存置ありきで進められた法案でした。

この法案により1989年11月10日に東ドイツの国境が開放されることになり、

その記者発表が前日の11月9日におこなれることとなったのです。

 

そして迎えた運命の日、1989年11月9日

この日になにが起こったのかはまだ別の記事で。

 



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