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Ich bin ein Berlinerーベルリン

2022-12-17 21:36:25 | 旅行

Ich bin ein Berliner。

ドイツ語で「私はベルリン市民である」という意味です。

これだけ抜き取ると他愛もない自己紹介文のようですが、

1963年6月26日に30万人を超えるベルリン市民の前で発せられたこのフレーズは

東西ドイツ分裂の歴史に残る有名なものとなっています。

 

今回はベルリンの壁が構築されてからのベルリンのお話をしましょう。

 

 

1961年8月12日未明、突如として建設されたベルリンの壁。

一夜にして築かれたその物理的な境界線により、

東西ベルリンはわずかな検問所を除き完全に分離されることになります。

これに対して西ドイツ国民や西ベルリン市民、ブラント市長は猛烈に反発する一方、

アメリカや西ドイツ政府は冷静な態度でこの壁建設を受け入れます。

たしかにこの壁建設でベルリンは分断され中には引き裂かれた家族もいました。

その一方でこうした壁により行き来が大幅に制限されることは

東西両陣営が抱える諸問題に対する対処としては非常に有効であり、

一概に壁建設を非難することが出来ないという面もあったのです。

 

そもそも、この西ベルリンに対するスタンスについて

米英と仏独では立ち位置が少し違いました。

西ドイツは東ドイツや東ベルリンの存在自体を認めておらず、

あくまでドイツは単一の国家であり不可分であるとしていました。

そのためドイツの統一は東西冷戦下における最重要課題であり、

ドイツの統一こそが西側諸国、そして米英の大西洋同盟に大きな利益を与えるとして

東西ドイツ統一を目指していたのです。

しかしながらアメリカやイギリスはこの限りではありませんでした。

もしドイツの統一を目指すのであればどうしても

武力衝突の可能性も考えなければなりません。

しかし第二次世界大戦の記憶も新しい1950年代においては

かつての敵国であるドイツのために自国のリスクを冒すことに対して否定的であり、

またソ連の平和共存路線もあり米ソ関係が比較的安定したことなどから

仮にドイツが分断されたままでもその双方の地位が不安定でないならば

逆にそちらのほうが波風が立たずに都合がいいと考えていたのです。

 

そのため西ベルリンを取り囲む壁が建設された際も

この壁により東ドイツが抱える人材流出の問題が解決し

東西ドイツの関係が安定するならば咎める必要はないとの立場でした。

もちろんそれはソ連も織り込み済みであり、

東ドイツが壁建設という強硬手段に出たとしても

それを理由にアメリカが武力を用いた反発はしてこないとの判断から

フルシチョフは壁建設にGOサインを出したとされています。

 

一方でフランスはというと1958年に第五共和制がスタートし、

シャルル・ド・ゴールが大統領の時代でした。

この頃のフランスは米英とは一線を画す独自外交を展開しており、

むしろ米英の大西洋同盟には反発をしていました。

そのためフランスは西ドイツとの仏独協調姿勢を重要視しており、

この時期の東西ドイツ間の不安定な情勢は米英により

日和見主義が原因であると非妥協姿勢を強く打ち出していたのです。

 

 

ではなぜドイツ統一を目指すはずの西ドイツ政府が動かなかったのか?

というと、これには西ドイツのアデナウアー首相と西ベルリンのブラント市長の

確執があったからだったんです。

 

この西ドイツのアデナウアーは1949年に西ドイツの初代首相に任命され、

特に外交面ではフランスとの強固な協力関係の構築や

現在のEUの基礎となる欧州石炭鉄鋼共同体や欧州経済共同体の創設などにかかわり

「欧州連合の父」とも称えられる人物です。

主に1950年代に活躍しましたが、1960年代に入ると自身の権力に固執し、

国内からも批判が相次ぎその威信は低下していました。

一方で西ベルリンのブラントはリューベックにて私生児として誕生し、

ノルウェーやスウェーデンに亡命し反ナチス活動をしていた人物でした。

第二次世界大戦後にドイツへ帰国し1957年から西ベルリン市長を務めていました。

 

ブラントが西ベルリン市長になってから4年が経った1961年3月、

ベルリンの壁が建設される5か月ほど前に

ブラントはアメリカ合衆国を訪問することになります。

当時のアメリカ大統領は同年1月に就任したばかりのケネディ大統領で、

3月13日にはホワイトハウスでケネディとブラントの会談が実現します。

 

この会談は西ベルリンに対する姿勢を世界に示すチャンスであるとして

アメリカのラスク国務長官の進言により実現にこじつけたものでしたが、

就任したばかりの大統領が同盟国の国家元首や政治的リーダーを受け入れることがあっても、

市長クラスと会談を行うというのは外交慣習に反していることでした。

西ベルリンは西ドイツ領ではないものの外交は西ドイツが代行しているため、

アデナウアー首相をすっ飛ばしてブラント市長が会談を行うということになってしまったのです。

これに対してアデナウアーは不快感を隠すことなく、

また自身の政権運営の継続も上手くいかないことの焦りから

ブラントを公然と批判するようになります。

 

そして起こったベルリンの壁建設。

8月12日未明、ブラントは遊説のため夜行列車で西ドイツ南部のニュルンベルクから

西ドイツ北部、デンマーク国境近くのキールに向かっていました。

しかしながらベルリンの壁の建設がはじまったという報せを受けて

途中駅のハノーバーで急遽下車、そのまま飛行機で西ベルリンへと戻りました。

同じ頃西ドイツの首都ボンにいたアデナウアーは

壁建設の一方を受けた後も西ベルリンには赴かずボンに留まり、

そのうえでブラントの出生などについてブラントに対して個人攻撃を行います。

 

結果的にアデナウアーは西ベルリンのみならず西ドイツ国民全体の顰蹙を買ってしまい、

その後の健康不安なども相まって1963年に首相の座をエアハルトに譲ることとなります。

その反面即座に西ベルリンへと戻って事態に対応したブラントの株は上がり、

冷戦の最前線にたつその姿は西ベルリンと西ドイツの市民の人気を集め

1969年に西ドイツ首相の座につくことになるのです。

 

 

そしてベルリンの壁建設から2年が経過した1963年6月26日、

アメリカのケネディ大統領が西ベルリンを訪問することとなります。

ベルリンの壁建設時はその対応に苦慮をしたケネディでしたが、

翌1962年にはキューバにミサイル基地を建設しようとしたソ連と交渉し

基地の建設中止を勝ち取ったいわゆる「キューバ危機」を乗り越え、

西ベルリンでもケネディへの期待が高まっていました。

 

そんな矢先の訪問は西ベルリン市民に熱狂的に迎えられ、

アデナウアー首相、ブラント市長とともに100万人の市民の歓声に応えます。

そして市庁舎前で行われた演説では30万人もの市民が集まり、

そこである有名なフレーズを口にするのです。

それが「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民だ)」というものです。

 

ケネディ大統領は上述の通り、東西ドイツの両国が安定しているのであれば

無理に統一への道筋を作ることはないと考えていました。

それはつまり西ドイツ及び西ベルリンの現在の地位が保障されるのであれば

東側はソ連に差し出しても構わないということでもあります。

しかしキューバ危機を乗り切ったケネディは西ベルリン市民の前で

壁建設時には見せなかったソ連や社会主義への敵対心を露わにし、

このベルリンの壁は貧しい東ドイツから自由で豊かな西ドイツへの亡命を防ぐために作られた

西側諸国の勝利の産物であると述べました。

そのうえでケネディは今後ベルリン、そしてドイツが再びひとつになることを望むと、

大統領就任後初めて東西ドイツの統一に向けた心構えを口にするのです。

 

そして、かつてローマ帝国で使われた「Civis romanus sum(私はローマ市民である)」という標語に準え、

「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民だ)」と述べ、

アメリカ合衆国のベルリン、そしてドイツに対する新たな決意を表明しました。

このケネディの演説は多くのドイツ人やベルリン市民の心を打ち、

この演説が行われた場所は後に「ジョン・F・ケネディ広場」と改称されています。

 

なおこの壁の建設により東ドイツから西ドイツへの亡命者は大幅に減り、

東ドイツ経済は一応の安定を見ることになります。

そして後のブラント首相によるソ連やポーランドなどの東方外交により

東西ドイツ間も雪解けが進み、1972年には相互にその存在を認め

翌1973年には両国は同時に国際連合への加盟を実現させるのです。

 

こうしてベルリンを引き裂きながらもドイツに安定をもたらしたベルリンの壁。

この壁がやがて崩壊するときのお話はまた別の記事で。

 



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