ドイツはもとより欧州を代表する世界都市、ベルリン。
このベルリンが冷戦中は東西に分裂していたのは多くの方が知っているでしょう。
前回までの記事ではベルリンがドイツの首都となった経緯、
そして第二次世界大戦後の世界秩序の中で翻弄されて東西に分裂、
1940年代終盤にはソ連の圧力により西ベルリンが兵糧攻めに遭うも
アメリカが飛行機をジャンジャン投入して物資を輸送、
見事ソ連の目論見を打ち破りベルリン封鎖を解除した、というところまでお話をしました。
今回はそのあとにベルリンが壁で囲まれるまでのお話としましょう。
さて、この時期東西に分かれていたのはベルリンだけでなくドイツ本国もそうで、
1949年に資本主義サイドの西ドイツ、社会主義サイドの東ドイツが成立します。
しかし当時は冷戦真っ只中でこの東西ドイツはいわばその最前線。
そのため同じ国だったにも関わらず1952年に両国の国境は封鎖されてしまいます。
しかし同じように東西陣営がにらみ合うベルリンについては完全に封鎖されておらず、
交通遮断を繰り返しながらも比較的自由に行き来が出来ていました。
これは単に「東側と西側を往来することが出来る」というだけでなく、
例えば物価の安い東ベルリンに住み給与水準の高い西ベルリンで働くという、
いわば国境を越えた通勤をしている人も数万人単位でいたとされ
毎日東西ベルリンの間を50万人以上の人々が通過していたとされています。
東西に分かれていながらもひとつの都市として機能していたんですね。
そのため1950年代に入ると自由を求めた東ドイツの若者などが
封鎖されている東西ドイツ間ではなく交通が保障されていた東西ベルリン間を通して
西ドイツに亡命するという事案が相次ぐことになります。
やがてこの西ドイツへの亡命は東ドイツ経済にまで影響を及ぼす事態となり、
なんとかこれを食い止めようとした東ドイツにより、
ある日突然西ベルリンを取り囲む壁が建設されることになるのです。
ではここで一旦東ベルリンと西ベルリンの立ち位置の違いについてご説明しましょう。
まず東ベルリンは第二次世界大戦後からソ連の占領地域でありましたが、
それと同時に東ドイツの正式な首都でもありました。
そのため実際にはドイツ再統一までソ連軍が駐留はしていたものの、
東ベルリンは東ドイツ領であり東ドイツ人が住む都市であったのです。
では西ベルリンはというと、「東ドイツに囲まれた西ドイツの飛び地」ではなく、
あくまで米英仏により共同占領地というポジションでした、
つまり西ベルリンは西ドイツ領ではなかったんですね。
そのため西ベルリン市民が持つパスポートは西ドイツのものとデザインは似ているものの
発行は西ベルリン市で、国籍も「西ベルリン市民」となっていました。
また西ドイツで行われていた徴兵制も西ベルリンにおいては対象外となっており、
徴兵制を嫌う西ドイツの若者が西ベルリンに移住することもあったそうです。
西ドイツと西ベルリンを結ぶ航空路もルフトハンザなどの西ドイツの航空会社は就航できず、
アメリカのパンアメリカン航空やフランスのエールフランス航空など
西ベルリンの占領国である米英仏の航空会社が運航をしていました。
ここはあくまで「米英仏の占領地である西ベルリン」だったんですね。
こういった東西ベルリンの特殊な政治的な立ち位置もあり、
先述の通り1952年に東西ドイツの国境が封鎖された後も
自由の往来が出来る状態が続いていたのです。
そのため東ドイツでは社会主義に基づき一党独裁制を嫌う
若者や技術者などが自由を求めてベルリン経由で西ドイツへ向かうようになり、
東ドイツでは労働力や人材の流出が顕著になっていきます。
その人数は毎年20万人から30万人にも及び、
第二次世界大戦後からベルリンの壁建設までには300万人が亡命したとされます。
当時西ドイツは東ドイツを含めたドイツ全域を自国領として主張していたため、
亡命してきた東ドイツ人にも自動的に西ドイツの国籍が与えられていたため、
さらにこうした動きに拍車をかけていたとされています。
この大量の人材流出に憂慮していたのは東ドイツだけではありませんでした。
そう、東ドイツの親玉であるソ連ですね。
当時のソ連の首相であるニキータ・フルシチョフは
東ドイツの若者や専門スキルを持った技術者などが国外へ流出し
それが東ドイツ経済を逼迫させるレベルにまで達している事態を重く見て、
このままでは東ドイツを安定した同盟国として維持できないと考えます。
そのためソ連は西ベルリンを占領している米英仏に対して、
西ベルリンを「非武装自由都市」とすることを提言するのです。
フルシチョフは西ベルリンを国連監視下の自由都市とすることで
西側諸国の影響力を排除することで
西ベルリンが西側への亡命の窓口になることを避けようとしました。
しかしながらブラント西ベルリン市長はこの提言を即日拒否します。
そうなると次第に焦りが見え始めるのが東ドイツです。
1961年初頭、東ドイツのウルブリヒト第一書記はソ連宛ての書簡にて
米英仏の西ベルリンからの撤退や西ベルリンにある西側メディアの閉鎖、
そして西ドイツと西ベルリンを結ぶ航空路の管理権を求めました。
もし東ドイツが西ドイツと西ベルリンとの航空路の管理権を掌握すれば
いざというときに両地域を結ぶ航空機をすべて停止することが出来、
簡単に西ベルリンを締め上げることが可能になるためです。
またこれと同時にウルブリヒトは西ベルリンを物理的に封鎖する障壁の建設を求めます。
しかしこれは西ベルリンを孤立させるというよりも、
東ベルリン、そして東ドイツを西側のショーウィンドウである
西ベルリンから隔絶するために建設を目論んだものであり、
これこそが人材流失を食い止める手段であるとウルブリヒトは主張したのです。
東ドイツはこの障壁の建設の許可をソ連に求めていたのですが、
このような強硬手段をとれば世界的な批判は免れずソ連の威信低下につながり、
フルシチョフはこのウルブリヒトの提案を受け入れるかどうか非常に苦慮することになり、
結論を米ソ首脳会談の後まで持ち越すこととしました。
そして迎えた1961年6月、オーストリアのウィーンにて
フルシチョフ首相とケネディ大統領との間で米ソ首脳会談が行われます。
ここでフルシチョフは改めてケネディに西ベルリンの自由都市化を提言しますが、
ケネディはこれに同意をしませんでした。
議論は平行線を辿り、最終的にフルシチョフが武力行使をちらつかせるも
ケネディも折れることなくこの提案を断固として拒否し、
結果としてベルリン問題は折り合いがつかないまま首脳会談は終わります。
そしてそうしている間にも次々と流出する東ドイツの人的資源。
このままでは東ドイツの経済は破綻してしまうー。
そうした焦燥感からウィーンでの階段から約1か月後、
フルシチョフはウルブリヒトの壁建設の許可を出すのです。
この決定を受けて東ドイツは西ベルリンを囲う壁の建設に動きだし、
1961年8月12日、ついに壁の建設が始まります。
日付が変わった12日の午前1時、東西ベルリンを結ぶすべての道路が封鎖され、
両地域を結ぶすべての公共交通機関が停止させられます。
それと同時に東西ベルリン、そして西ベルリンと東ドイツの国境には
有刺鉄線が張り巡らされ12日午前中には数か所の検問所を除き
全ての国境が封鎖されます。
こうして一夜にしてベルリンの壁は構築されたのでした。
この有刺鉄線の壁は数日後には石造りのものに建て替えられはじめ、
フルシチョフは西側諸国を出し抜いたことで自信を深め
これまでの平和共存路線から対米強硬姿勢へと変化をしていきます。
一方アメリカはこれらの壁建設がすべて東ドイツ領内で行われていたことから
今回の一件に関しては深い介入を避けていました。
それに加えて西ドイツのアデナウアー首相はソ連を批判するどころか
馬が合わないブラント西ベルリン市長を批判するなどしたため、
西ベルリンでは西側諸国に対する疑念と失望が広がっていくことになります。
それではベルリンの壁が出来るまでのお話はここまで。
ベルリンの壁が出来てからのことはまた別の記事で。
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