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赤い海に浮かぶ自由の島ーベルリン

2022-12-11 22:10:41 | 旅行

ヨーロッパにおける世界都市といえばどこを思いつくでしょうか。

先進国が多く経済的にも発展しているヨーロッパだけあって

その候補は決して少なくありません。

 

霧の都と言われヨーロッパ最大の経済規模を誇るロンドンか、

世界中から多くの観光客が訪れる華の都パリか、

はたまた古代ローマ帝国から続く千年の都ローマか・・。

候補は幾多ある中で、必ず候補にあがってくる町の一つがベルリンです。

そう、ヨーロッパ最大の経済国であるドイツの首都ですね。

 

ベルリンは都市圏人口が600万人を超えるドイツ最大の都市であり、

緑も多くヨーロッパの中でも生活のしやすい都市に数えられます。

地方分権の歴史が長いドイツではあまりひとつの都市に一極集中せず、

金融はフランクフルト、司法はカールスルーエ、産業はミュンヘンやケルンなど

それぞれの都市が異なる性格の中心地となっています。

その中でベルリンはドイツの行政及び立法の中心地として機能しているほか、

数多くの美術館や博物館が集まる文化都市でもあり、

もちろん情報産業などを中心とした経済分野も発達しており

ドイツの中でも最も多角的な側面を持つ都市ともなっています。

 

さて、このベルリンといえば「ベルリンの壁」の話題は避けられませんね。

第二次世界大戦後、東西に分断されたドイツの首都ベルリンはさらに東西に分割され、

その東ベルリンと西ベルリンを隔てる壁が「ベルリンの壁」なのです。

しかし、このベルリンの壁=東西ドイツの国境、という認識には誤りがあります。

冷戦期を知らない若い方の中には上記のような認識を持っており、

「東西ドイツの国境上に首都ベルリンがあり、その国境線に壁が建てられた」

と思っている人も少なくはないはずです。

 

ですが実際はベルリンがあったのはもっと東、東ドイツのど真ん中のあたり。

フランスよりもポーランドに近いところにあるんですね。

つまり西ベルリンは回りすべてを東ドイツに囲まれていたことになります。

そしてベルリンの壁というのはこの西ベルリンをぐるっと一周するように建てられていたのです。

周りすべてを東側諸国に囲まれていたことから、

「赤い海に浮かぶ自由の島」とも称されていました。

ドイツ帝国の首都となり、その後長い分断という数奇な運命を辿ったベルリン。

その歴史に迫ってみましょう。

 

現在でこそベルリンはドイツの中心地のひとつですが、

中世にはこの地域はどちらかというと田舎であり、

それは「ブランデンブルク辺境伯領」という名前からも見て取れます。

なんてったって「辺境」ですからね。

 

ベルリンがブランデンブルク辺境伯領の中心都市となったのは1448年で、

ブランデンブルクからベルリンに宮殿が移ってきたときでした。

当時ブランデンブルク辺境伯領を治めていたのはホーエンツォレルン家で、

ホーエンツォレルン家の影響力の拡大により

次第にブランデンブルク辺境伯領は周辺の領邦国家を脅かす存在となります。

神聖ローマ帝国時代には選帝侯のひとつに選ばれており、

その後18世紀にはブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世が

プロイセン王として戴冠されプロイセン王フリードリヒ1世となり、

以後ベルリンはホーエンツォレルン家の本拠地として

ドイツの政治の中心地となっていくのです。

 

産業革命期を経てベルリンはヨーロッパを代表する近代都市として

大いに発展していくことになり、特に第一次世界大戦後には

ドイツに課せられた巨額の賠償金に支払いに苦しめられる一方で、

アメリカ合衆国からの支援を受けたベルリンは復興を遂げることに成功し、

逆に「黄金期」ともいわれる繁栄を迎えることになります。

 

 

そして迎えた第二次世界大戦前夜、

ドイツではヒトラー率いるナチスが隆盛を極めており、

ドイツ第三帝国の首都となっていました。

当時日本はアメリカやイギリスと対抗するためドイツと同盟を結んでおり、

首都であるベルリンには両国の関係強化のために多くの日本人が住んでおり、

外交官や軍人のみならず商社の駐在員や留学生などもおり

ヨーロッパで最も多くの日本人が住む都市ともなっていました。

 

また1936年に行われたベルリンオリンピックはナチスの国威発揚に大いに利用されることになります。

実はヒトラーは当初オリンピックを「ユダヤ人の祭典」として

ベルリンでの開催に難色を示していたとされます。

しかしながらこのオリンピックには大きなプロパガンダ効果があるとして

ヒトラーはこの開催を認めるだけでなく、

アーリア人の優秀性を世界に見せつけるチャンスと捉えて総力を挙げて開催の準備を行い、

有色人種に対する人種差別政策を一時凍結するなどしました。

 

実際にこのベルリンオリンピックでは当時実験段階であったテレビ中継が行われたほか、

ギリシャのオリンピアから初めての聖火リレーが行われるなど

ヒトラーの目論見通り世界中の注目を集めることに成功します。

ちなみに日本からも多くの選手が参加しており、

当時のNHKのラジオ中継で連呼された「前畑がんばれ」でも知られる前畑秀子選手や

当時日本の統治下にあった朝鮮出身の孫基禎などが金メダルを獲得しています。

 

こうして第三帝国の首都として栄華を極めたベルリンですが、

第二次世界大戦がはじまりドイツが連合国に押され始めると

ベルリンも空襲などで大きな被害を受けるようになります。

1945年には独ソ戦最後の戦闘となったベルリン市街戦で10万人を超える被害者を出し、

ソ連軍に徹底的に破壊されたのちに4月30日のヒトラーの自殺、

そして5月2日の無条件降伏をもってベルリン市街戦は終了するのです。

 

その後第二次世界大戦が終了すると時代は冷戦時代に突入し、

ドイツ、としてベルリンは1990年代に至るまでこの東西冷戦に翻弄されることになります。

またそれは別の記事で。

 



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