仕事が休みの度に、家から1時間かけて病院にせっせと通った。私は平日休みが多いのだが、たまに土日に休みが取れて病院に行くと、患者さんがいないロビーであるドラマの撮影をしていたりして、ちょっと得した気分になった。
この病院は売店で寝巻き(パジャマではない)を借りたり、オムツも自分で買わなければいけない。この頃まだ起き上がって自力でトイレに行けなかった父はオムツが必要で、普通より尿の量が多いらしく、しょっちゅうシーツを濡らしていた。そんなわけで、オムツがどれだけいるか全く予想ができず、私は休みの度に通って何枚もの寝巻きと大量のオムツを買わなければいけなかった。
父は脱水症で入院したため、水分をたくさん摂らなければならず、たくさん飲めば出てくるのも多いのは仕方ないことだった。しかも父はせん妄で点滴を自分で抜いてしまった「前科」から、点滴はやめてとにかく水分を口から取らされていたのだった。そのため、片手に大量のオムツ、片手に大量のペットボトルという買い物を何回も繰り返した。助かったのは、冷蔵庫が個々のベッドにあったこと。テレビと冷蔵庫が一緒になったカード式のものだったが、夏だったので冷たい飲み物が大好きな父はよく飲んでくれた。
ある日、ふと私は気が付いた。父の主治医に会ってないじゃん。看護師さんから先生がこういうふうに言ってました、という話をよく聞いていたのだが、その肝心な先生に会ってない。なぜに家族が来てる時に顔を見せないの?そんなもの?というわけで、一度先生にお会いしたいと看護師さんにお願いした。が、手術やら休みやらなんやらで漸くお会いできたのが、入院してから2週間ほど経ってからだった。
やって来たのは、想像以上に若い先生だった。まだ30前かもしれないくらい若い男性。笑顔もなく、なんとなく居心地が悪そうにしている。「あんた、私よりお金持ちの家で生まれて偏差値も高いんだから、しっかりしなさいよ」と、心の中で言いながら食堂で話を聞いた(すごい偏見ですみません)。
で、父は結局脱水症で、歩けるようにさえなれば退院できるという話を聞いた。そして、認知機能が少し低下していると言っていた。でもそれは認知症ではなくて、年齢のせいらしい。まあ、元々命に別状はないのはわかっていたから、後は歩けるようになるだけなのねーと、のんびり構えて待つしかないことがわかった。
この頃からリハビリが始まり、私は見学をさせてもらったのだが、本当に父はヨボヨボだった。これで本当に歩けるようになるの?と思うくらいにヨボヨボで、足下がおぼつかないってこういうことを言うんだなあと思いながら見ていた。やはり、老健施設に申し込みしようと思った。
あとは歩けるようになれば、という時に父の退院は延びることになってしまった。お食事中の方には申し訳ないのだが、父は黒い便が出るようになった。胃か腸がら出血している疑いがあるということで、胃カメラで検査したところ、胃潰瘍らしい。ガンだったらどうしよう?とハラハラしていたのだが、胃潰瘍かい。薬で治る程度ということで、今度はその治療で退院が一カ月延びることになってしまったのだ。
ということで、老人保健施設に申し込みかけていたのを一旦キャンセルすることになった。
父はたぶん、ストレスから胃潰瘍になったんじゃないかと思う。なんせ、毎日のように電話をしてきては、病院のメシは不味い、まともに食べられる物がないと愚痴をこぼしていた。事実、あまり食べていなくて、私が水羊羹や水大福を持って行くと、甘いものが苦手な父ががっつくように私の分まで食べていた。
あと、おうち大好き過ぎる人なのだ。入院をしている間、とにかく家に早く帰りたがっていた。そんな人が2か月も入院しなきゃいけなくなって、わがままを聞いてくれる可愛い娘もいなくて、好きな物も食べられないし、大好きな番組をやっているBSチャンネルは見られないしで、そりゃあストレスが溜まると思う。
しかし、そんな中、父を癒してくれる人が現れた。それは病院の付属の看護学校から実習にやってきた19歳の女の子だった。学生さんは父をお風呂に入れてくれたり、話し相手になってくれたり、いろいろと面倒を見てくれたらしい。孫といってもおかしくない歳のこの学生さんに、大好きな落語の話を聞いてもらったりして、本当にお世話になったらしい。
学生さんがこんな絵を父に描いてくれた。私も実際に何回か会ったんだけど、このイラストのように可愛らしい真面目そうな学生さんだった。実習が終わる時、涙を流して寂しがってくれた。その気持ちをいつまでも忘れないでいて欲しいなと思った。