よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

3月31日(月)の聖言

2008年03月31日 | Weblog

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」
詩篇119:71 

苦しみ、試練などを喜ぶ人はいません。避けたいと願って、神仏を拝みます。
確かに、苦しみや試練は嫌な事ですが、決して無駄なことではありません。

ただ、それをどのように受容するかによります。
切り捨てるべきものとするのか、神様からの恵みとして受けるのか、
これは大きな違いです。避けられないとするなら、
むしろ積極的に神様からのチャレンジとして受けようではありませんか。

(榎本和義牧師)

3月30日(日)の聖言

2008年03月30日 | Weblog

「見よ、わたしは世の終りまで、
いつもあなたがたと共にいるのである。」マタイ28:20

イエス様は私たちと共にいてくださる方となられました。
それは「インマヌエルと称えられる」との予言にあるように、
神様が私たちと共にいてくださることでもあります。

これは驚くべきことです。神様が人とともに居てくださるなど、
考えることも、予測もできないことですから。
人は罪を消し去られるまで、神様と共に居ることは不可能です。

しかし、十字架によって全て解決されたのです。
主はいつでも、どこでも、共に居るものとなるため、よみがえったのです。

(榎本和義牧師)

3月29日(土)の聖言

2008年03月29日 | Weblog
「あなたは人をちりに帰らせて言われます、『人の子よ、帰れ』と。」詩篇90:3

人の始まりは何により、その終りを何がきめるのでしょうか。
それがはっきりしないと、根無し草のようにふらふらして、
自分をしっかりと握ることができません。

まず、それぞれの人生は、親でもなく、先祖でもなく、神様によって始められたものです。
始めた方はそれを持ち運び、運行し、すべてに責任を持ってくださいます。
やがて定められたときがくると、みことばのように人は神様のもとへ帰って行きます。
この枠組みの中で生きていることを自覚しましょう。
(榎本和義牧師)

3月28日(金)の聖言

2008年03月28日 | Weblog

「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、
みな、迫害を受ける。」Ⅱテモテ3:12 

この世にあって、イエス様を信じて生きようとすると、
確かにさまざまな戦いがあります。

この世とイエス様の生き方とは相容れないからです。
戦いのないクリスチャンは本物ではないでしょう。

その戦いはイエス様を取るか、世を取るかの選択です。
また、他者との軋轢もあるでしょうが、最も手ごわいのは自分との戦いです。

しかし、主にあって生きるために、世を捨てるなら、
主は必ずそれに報いてくださいます。

(榎本和義牧師)

3月27日(木)の聖言

2008年03月27日 | Weblog

「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、
その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」ローマ2:4

「慣れ侮る」のは人の悪弊です。初めてのこと、
慣れないことには真剣になりますが、時間が経ち、
慣れてくると気を抜く、侮るのです。神様に対しても同様です。

神様は御子を賜うほどの愛を注いでくださいますが、
初めは感謝感激しても、慣れて侮るようになります。

神様は慈愛と忍耐と寛容をもって、私たちを忍んでくださいます。
そのみこころを蔑ろにしてはなりません。

日々、真剣に主のご愛に応えましょう。

(榎本和義牧師)

3月26日(水)の聖言

2008年03月26日 | Weblog

「すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、
万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらに
わがすまいを得させてください。」詩篇84:3 

すずめもつばめも人の住まいに近く巣をつくります。
そのように私たちの心が常に神様に近くいることができるなら、
こんなに幸いなことはありません。

心に主を覚えることがすくなくなると、不安や恐れ、
怒りや苛立ちが増えてきます。平安で、安らかな心を持ち、
望みと輝きに満ちた日々を過ごすには、
神様のそば近くにいつもとどまることです。

(榎本和義牧師)

3月25日(火)の聖言

2008年03月25日 | Weblog
「イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、
また魚も同じようにされた。」ヨハネ21:13

主はよみがえってガリラヤ湖のほとりで弟子達に会いました。
漁を終わった彼らのために朝食を用意していたのです。
かつて弟子達はガリラヤで主に出会い、生活の一切、
命の拠り所をイエス様において、弟子となり従いました。
再び、同じところで、主は彼らを招き、これからも変らず
命の源であることをあらわされたのです。

目には見えなくても、主は私共と共にいて、命を糧を備えてくださいます。
生活の思い患いを主に委ねましょう。

(榎本和義牧師)

3月24日(月)の聖言

2008年03月24日 | Weblog

「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、
キリストにあってすべての人が生かされるのである。」
Ⅰコリント15:22 

主のご復活を記念する日です。生まれながらに罪と愆とに死んでいた者に、
主はよみがえって、新しい命を与えてくださいました。

イエス様を信じる者を永遠の命の生涯へ導いてくださいます。
それは死んでから後の、あの世のことだけではなく、
今、この世にあって消えることのない喜び、感謝、望み、
力に満たされて生きる者となるのです。

闇に引き入れる死が打ち砕かれ、光の中を生きるのです。

(榎本和義牧師)

3月23日(日)の聖言

2008年03月23日 | Weblog

「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」マタイ27:51

 神殿は聖所と至聖所とに別れ、その間を隔てる幕が置かれていました。
至聖所に入り、神様と交われるのは祭司だけです。

十字架での死と同時に、幕は裂けて、聖所も至聖所も一つになり、
だれでも神様に直接近づくことができるようになりました。
この幕はイエス様の肉体でもあります。

主は肉を裂き、神様へ近づく道を拓いてくださいました。
そのゆえに、今、私達は何一つ妨げられずに、
神様に近づき、呼び求めることができるのです。

(榎本和義牧師)

3月22日(土)の聖言

2008年03月22日 | Weblog

「するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、
『あなたが何を言っているのか、わからない』。」マタイ26:70 

ペテロは大祭司カヤパのもとで取調べをうける主を見守っていました。
彼はイエス様の仲間だと言われて、即座に否定しました。

自分の身の危険を恐れたからです。私たちも、
イエス様の仲間であることを言えない、拒んでしまう弱さがあります。

しかし、ペテロはやがて聖霊に満たされたとき、
力を受け、大胆に主をあかしする者となりました。
弱い私たちが強くなるには聖霊による以外ありません。

(榎本和義牧師)

3月21日(金)の聖言

2008年03月21日 | Weblog

「イエスは彼に答えて言われた、『わたしのしていることは
今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう』。」ヨハネ13:7 

夕食の席で、イエス様は弟子達の足を洗われました。
あまりに唐突なことなので弟子達は当惑しました。

私たちの人生にも同じようにわからないことがたくさんあります。
それは神様がなさることだからです。しかし、振り返ってみると、
なるほどこの日このときこの事のためであったと納得することばかりです。

今、事の成り行きが分からなくても、神様のみ手を信じて、委ねましょう。

(榎本和義牧師)

3月20日(木)の聖言

2008年03月20日 | Weblog

「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、
あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。
あなた声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」雅歌2:14 

外敵から実を守るために、険しい崖の岩棚に隠れているはとに譬えて、
愛する者を求める愛の歌です。神様は独り子をも惜しまない愛を
私たちに注いでくださいます。しかし、それを信じられないゆえに、

私たちは何かを恐れて身を縮め、隠れ潜んでいます。
主は私たちの顔を見たい、声を聞きたいと切に願っておられます。
主に向かって顔を上げ、呼び求めてください。

(榎本和義牧師)

3月19日(水)の聖言

2008年03月19日 | Weblog

「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」マタイ22:14 

イエス様の十字架は、全ての人々に開かれた救いの道です。
老若男女の区別も、人種の区別も無く、
文字通り「全ての」人々がその救いへと招かれているのです。

しかも、それは私たちを幸いにする道でもありますが、
どうゆうわけか「選ばれる者」が少ないのです。

今、あなたがイエス様の救いを受けているなら、大いに喜び、感謝してください。
僅かな選ばれた者の一人なのです。それはあなたの努力や力によらず、
一方的な神様の哀れみと恵みによるのです。

(榎本和義牧師)

3月18日(火)の聖言

2008年03月18日 | Weblog

「そして彼らに言われた、『「わたしの家は、
祈りの家ととなえられるべきである」と書いてある。
それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている』。」
マタイ21:13 

イエス様はエルサレムに来られたとき、
宮で商売をしている人々を追い出してしまいました。
神の宮を汚していたからです。私達はイエス様の救いによって、
聖霊の宮、主を宿すものとされています。

しかし、その心は私利私欲、肉の欲得の働くところとなっていないでしょうか。
みことばの光に照らされて、主の住まいにふさわしく、
十字架に清められましょう。

(榎本和義牧師)

3月17日(月)の聖言

2008年03月17日 | Weblog

「もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、
『主がお入用なのです』と、そう言いなさい。」ルカ19:21 

今日は「棕櫚の日」と言われる受難週最初の日です。
イエス様はこの日ロバの子に乗って、エルサレムの町に入られました。

ロバは取り得の無い、ただ労力として使役されるものです。
そのようなものを選んで、主が用いなさったのです。

私たちもロバと同じ存在ですが、主が必要としておられます。
だれにたずなを握られるか、それが大切です。
イエス様に握っていただくなら、これほど幸いはありません。
主に引き回されたいものです。

(榎本和義牧師)

十字架のイエス・キリスト

<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/EjJNEsDJPFk" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>