よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

6月30日(月)の聖言

2008年06月30日 | Weblog

「狭い門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。
そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、
その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」
マタイ7:13-14 

イエス様に救われ、幸いを味わう時、多くの人が救われるようにと願います。
しかし、イエス様の救いを頂くことは、同時に少数者になることです。

この世から聖別され、主に従う道は、世捨て人ではありませんが、
狭く細い道です。日本の社会で少数者になることは厳しい困難を伴います。
しかし、そこに命があるのです。

(榎本和義牧師)

6月29日(日)の聖言

2008年06月29日 | Weblog

「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。
あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。
地はあなたの造られたもので満ちている。」詩篇104篇24節 

私達は不平・不満の多いものです。
その原因は「自分」の願い、思いどおりでないからです。

そこには神様を思う心がありません。私達は被造物であり、神様は造物主です。
神様の手によらないものはありません。
しかも、人の知恵・知識を越えたご計画に基づいて創造されたものばかりです。

心を低くして、神様を信じて見直す時、驚きと感謝以外にありません。

(榎本和義牧師)

6月28日(土)の聖言

2008年06月28日 | Weblog

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気をだしなさい。
わたしはすでに世に勝っている。」ヨハネ16:33

 イエス様を信じて、信仰に生きる生活にも悩みが尽きません。
信仰は役に立たないように思われますが、そうではありません。

なぜなら、イエス様も私たちと同じ、否、それ以上の悩みを経験しましたから、
なやみの中で信仰にたっていると、主の力を味わうことが出来、
主を知り、主と連帯し、勝利の凱旋に導かれるのです。

だから、勇気を出して、勝利者なる主を見上げて前進しましょう。

(榎本和義牧師)

6月27日(金)の聖言

2008年06月27日 | Weblog

「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。
だから、生きるにしても死ぬにしても、
わたしたちは主のものなのである。」ローマ13:8

現代は、死を恐れて、生きることばかりに精力を傾けます。
死は敗者であって、長く生きつづけることが正義であり、
勝利者であるかのように。しかし、生きることも死ぬことも実は同じです。

私たちが「主のもの」となりきるとき、
生きることも死ぬことも超越したものとなります。
生死にこだわり続けるかぎり、あなたの存在の価値が失われます。

(榎本和義牧師)

6月26日(木)の聖言

2008年06月26日 | Weblog

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。」マタイ11:28

人生にはさまざまな重荷があり、途切れることがありません。
一つ二つのものならば、なんとか耐えられますが、
絶え間なく負わされると息切れがします。

重荷を肩代わりしてくれる人がおれば、どんなに楽でしょうか。
イエス様は「わたしのもとにきなさい」と言われます。

あなたの心を重くしているものがあるなら、遠慮せずに、
みことばを信じて、委ねてください。

イエス様は重荷を取ってくださいます。

(榎本和義牧師)

6月25日(水)の聖言

2008年06月25日 | Weblog

「信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。
彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。」
ヘブル11:27 

信仰とはある種の「賭け」です。宝くじを買う時、
僅かでも当るかもしれないと、その期待に賭けます。

ただ、信仰は限られた金額を賭けるのではなく、命を賭けるのです。
モーセは様々な問題・困難のなかで、「見えないかた」に
全身全霊を賭けて決断し、忍耐し続けました。

「忍びとおす」とは、結果を考えないで、命の尽きるまで忍ぶのです。
「見えないかた」を見ていますか。

(榎本和義牧師)

6月24日(火)の聖言

2008年06月24日 | Weblog

「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。
神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか。」
ルカ17:17 

イエス様によって病を癒された十人のうち、サマリヤ人がひとり、
主のもとに感謝を奉げました。

私達は神様からどんな大きな恵みをいただいていることか考えると、
どんなに感謝しても足りません。

イエス様が願っておられることは、私たちが神様を褒め称えることです。
それによって、神様の栄光があらわされるのです。

(榎本和義牧師)

6月23日(月)の聖言

2008年06月23日 | Weblog

「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。
罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。」ルカ6:32 

神様が私たちに求めておられることは、「自分」という殻を出ることです。
「愛してくれる者を愛する」世界にとどまる限り、
神様の力、恵み、愛を知ることができません。

その境界線を一歩でも、半歩でも越えるとき、神様の世界に入ることができます。
自分の力では出来ませんが、死からよみがえった主の力にすがる時、
あなたも未知の世界に入れます。勇気を出して、踏み出してください。

(榎本和義牧師)

6月22日(日)の聖言

2008年06月22日 | Weblog

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」
マタイ7:24 

地震や大雨による被害が伝えられています。
思いがけないときに、とんでもない災害が起ります。

しかし、そのとき、いろんなものの真価が問われます。
人生においても同じです。

事もなく、順調なときには皆同じに見えますが、
ひとたび問題にぶつかると、揺さぶられ崩れます。

何を拠り所にしているか、その土台が何であるかによって結果が出ます。
あなたは大丈夫ですか。

(榎本和義牧師)

6月21日(土)の聖言

2008年06月21日 | Weblog

「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。」
マタイ6:3

 左右の手は最も近い関係にあるものでしょう。双子のような関係でしょうか、
いろんなことを共有します。そのような密接な関係であっても、
「知らせるな」と言われます。それは目に見えない神様を信頼するためです。

人に知られて賞賛され、褒められると、神様からの報いをいただけません。
信仰に生きる生活は、神様の報いを体験することです。

人間的な関係を捨てて、神様と私の関係に生きようではありませんか。

(榎本和義牧師)

6月20日(金)の聖言

2008年06月20日 | Weblog

「主の使いは彼に言った、『わたしの名は不思議です。
どうしてあなたはそれをたずねるのですか』。」士師13:18 

神様の名は「不思議」です。まさに、その名のごとく、
人が感嘆の声をあげて、「不思議だ!」と言うほかないことをされます。

浅はかな知恵しかもたない私たちが想像できることをなさるのであれば、
神様とは言えません。人の意表をつき、予測しがたいことこそ
「神様らしい」のです。

神様が事を起し、わざをなさるのですから、
身近な自分を含め、理解しがたいのは当然です。

(榎本和義牧師)

6月19日(木)の聖言

2008年06月19日 | Weblog

「すべてのことは、あなたがたの益であって、
恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、
感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」
Ⅱコリント4:15 

「神様の栄光」を現すなどと言うと、大変なことだと思ってしまいます。
何をすればいいのかと戸惑いますが、実はとても簡単なことです。

みことばにあるように、神様の恵みを感謝することです。
しかも、そこそこの感謝ではなく、溢れるばかりに感謝するとき、
それが神様の栄光となるのです。

あなたが神様を褒め称え、感謝讃美することを願っておられます。

(榎本和義牧師)

6月18日(水)の聖言

2008年06月18日 | Weblog

「見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に
祝福とのろいとを置く。」申命記11:26 

私たちの人生はまさに選択と決断の連続です。
右にするか左にするか、毎日判断を迫られます。

しばしば、その選択と決断は損得利害、
情欲に絡んだことが多くありますが、
利益不利益を基準に考えるばかりでは、
神様に「よし」とされる正しい行動はとれません。

あなたの選択と決断は神様が置かれた
「祝福とのろい」の選択に直結しています。

さて、今日、あなたはどちらを選びますか。

(榎本和義牧師)

6月17日(火)の聖言

2008年06月17日 | Weblog

「わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、
心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」詩篇19:14 

人それぞれに生き方があり、何を大切にするかも違います。
しかし、人として生きるために、欠くことができない基本は一つです。

それは神様を畏れ敬うこと。具体的に言うなら、
「神様によろこばれる」ことであるかどうか。
あなたの生活の全てに、言葉とわざとを問わず、
この基準を当てはめてください。また、そうなるように求めて祈りましょう。

(榎本和義牧師)

6月16日(月)の聖言

2008年06月16日 | Weblog

「たとい人は百人の子をもうけ、また命長く、そのよわいの日が多くても、
その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、わたしは言う、
流産の子はその人にまさると。」伝道6:3 

人生の値打ちは、持ち物や業績など、客観的な尺度で測ることはできません。
ましてや、他人と比べることもできません。それはきわめて主観的なもの。

たとえ短命であれ、長命であれ、自分が幸福だと感じていれば、それが全てです。
神様に生かされた生涯を、あなた自身がどのように受けとめるか、
評価するかにかかっています。

(榎本和義牧師)

十字架のイエス・キリスト

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