「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。」第一テモテ4:4
世にあるもので、神様によらないものはひとつもありません。あなたの人生も、家族も、仕事も、健康もどんなものでも、神様によって造られたものです。目に見るところは、人の計画、知恵、努力、わざによって全てが造られるように見えます。しかし、神様のみことばを信じ、祈って、主の御計画とみ心によって造り出されたものと確信するとき、全てが益となるのです。(KE)
「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。」第一コリント9:26
運動競技では、それぞれの選手が自分のなすべきことを明確に知っています。また、参加する競技で何を目標とするかを知っています。そのように、一生の旅路を競技にたとえるなら、あなたの生きる目標はどこにありますか。全ての競技は栄冠を得るためです。では、あなたは人生を終わる時、だれから栄冠をもらうのでしょうか。「生きる」とは何でしょうか。(KE)
「イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』。」ヨハネ9:3
思いがけない不幸に見舞われると、その原因をなにかに求めようとします。あの人、この事が原因と分かれば、納得した気になります。しかし、原因が分からないことが多いのです。その結果、先祖の祟りなどと愚かなことを言うのです。突き詰めると、原因は神様にあります。人に分からない主の御計画と業があることを信じましょう。(KE)
「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください。」詩篇115:1
この詩篇を詠った人は、すべての栄誉を神様のものですと語っています。この世にあって、人のわざのゆえに、人が称えられ、賞賛をうけ、功績が語られますが、本来、褒め称えらるべきは神様ご自身です。ものごとの順序を間違えると、全てが水の泡になります。なにかできたなら、それは主が許して、力を与えて下さったこと。主を褒め称えましょう。(KE)
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。」ガラテヤ5:1
世界の中でも日本は自由な国と言われています。いろんな面で自由が保障されています。しかし、たとえ社会制度がそうであっても、あなたは本当に自由なのでしょうか。他人を気遣い、見えない世の習慣しきたりに縛られ、不本意な生活に生きる喜びを失っていませんか。イエス様はこのような束縛から解放して下さったのです。主の死と甦りに同化するとき、自由が得られます。(KE)
「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。」申命記8:17
今年も、八か月の日々が過ぎようとしています。振り返ると短いようですが、ずいぶん多種多様なことが沢山あった月日です。神様は大きなご愛によって、今日まで支え、守り、持ち運んで下さいました。主の恵みによって、今日あることを心から感謝しようではありませんか。残る旅路に、何があるか分かりませんが、神様の愛に満ちた御計画を信じて参りましょう。(KE)
「主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。」詩篇26:2
自分の力で自分を変えることはできません。どんなに意志強固な人でも、自分の心をきよくするなど不可能なことです。人は被造物にすぎないのです。しかし、造り主である神様は、あなたをどのようにでも造りかえることができます。ただ、変わりたいと願わねば、神様は手を出されません。みことばのように、謙遜になって、主に願い求めましょう。きよくなることは神様のみ心だからです。(KE)
「しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、『しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない』と言われた。」マタイ14:27
夜明け頃、ガリラヤ湖で難儀していた弟子達の舟に、イエス様が波の上を歩いて近づいてくださいました。船上の弟子達は幽霊かと怖じ恐れましたが、主が声を掛けてくださいました。弟子達の窮状をよく知っておられたのです。そのように、今日も、主はあなたの困難や苦悩を知り、間近に近づいて声をかけています。恐れることはないと。(KE)
「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」第一サムエル16:7
面接や採用試験など、人を評価しようとする時、その人の普段の行い、振る舞い、業績など、外側から見えるもので判断しようとします。その人の内面、心を探り知ることはできません。人は自分の心すらも理解できないのですから。ただ、神様は人の目に見えない心を見ておられます。怖いようですが、むしろ安心です。神様の前に隠すことがいらないのです。(KE)