よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

12月31日(月)の聖言

2007年12月31日 | Weblog

「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は
とこしえに変ることはない。」イザヤ40:8 

栄枯盛衰、会者定離と言われますが、
一つとして不変不動のものはありません。

「浮世」と言われる浮き草のような不安定なものに立っているのが現実の姿です。
それゆえに、変らないものを拠り所としなければ、落ち着いた生活ができません。
あなたにとって、これは大丈夫と心をゆだねるものは何でしょうか。

この一年を振り返るとき、「神の言葉」、みことばはどんなに大きな力、
拠り所であったことか、主に感謝するほかありません。

(榎本和義牧師)

12月30日(日)の聖言

2007年12月30日 | Weblog

「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、
あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって
満たして下さるであろう。」ピリピ4:19 

一年を振り返るとき、飢えることもなく、有り余ることもなく、
全てのものを満たされたことを深く感じます。

神様は私達の必要を全てご存知です。祈りと願いにこたえて、
日々養い、はぐくんでくださいました。得たものを「与えられた」
と感謝するとき、喜ぶことが出来ます。

新しい年も、全てを満たしてくださる主に信頼して、
思い煩うことなく喜び感謝して生きようではありませんか。

(榎本和義牧師)

12月29日(土)の聖言

2007年12月29日 | Weblog

「わたしは朝早く起き出て呼ばわります。
わたしはみ言葉によって望みをいだくのです。」
詩篇119:147

 朝、目覚めたとき、最初に何を心に思い浮かべるでしょうか。
それによって、一日が決まります。この言葉のように、
神様を思い、神様への語りかけ、祈りが一日の始まりとなるなら、
これに勝る幸いはありません。

また、私達の「望み」はどこからくるでしょうか。
見える状態、聞くおとずれなどに望みをかけるなら、
失望しかありません。しかし、
神様の言葉によって望みを持つなら、
決して失望に終わることはありません。

(榎本和義牧師)

12月28日(金)の聖言

2007年12月28日 | Weblog

「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」
マタイ6:13 

「主の祈り」の一節です。苦しみに会ったり、悩みに会うと、
自分を顧みて、心低くなり、正しい道へ軌道修正します。
これは幸いな恵みです。しかし、もっと幸いなのは、

そのような試練に会う前に、はやく神様に帰ってきて、
正しい道を歩むことです。そのためには、
神様から知恵と悟りの霊をいただかなければできません。

勿論、悩みに会っても、救われるなら、これに勝るものはありませんが、
痛い思いをしないうちに、はやく主に立ち返りましょう。

(榎本和義牧師)

12月27日(木)の聖言

2007年12月27日 | Weblog
「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。」
ルカ1:49

 マリヤにとって人生をひっくり返すような出来事に出会ったのですが、
そのことを不幸な災難と嘆かず、生涯最高の喜びと告白しました。

なぜこれほどまでに喜ぶことが出来たのでしょうか。
それは神様がしてくださったと確信し、
神様が自分のような者に目を留めてくださったと信じたからです。

しかも、神様は自分にとって最善最高のことをしてくださる
との絶大な信頼があるからです。

私達が嘆き悲しむのは、神様へのマリヤのような姿勢がないからです。

(榎本和義牧師)


12月26日(水)の聖言

2007年12月26日 | Weblog
「人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。
主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。」哀歌3:27-28

重荷やくびきを負うことはイヤなことです。
そんなものは早く捨ててしまいたいと思います。
ただ、重荷と感ずるのは自分から進んで得ているわけではないからです。
好きなこと、自分が選んだことはどんなことでも、
楽しみであり、喜びです。

命を捨ててまで愛して下さる主が負わせて下さるなら、
喜んで負うことができます。主が喜んで下さるのですから。

(榎本和義牧師)

12月25日(火)の聖言

2007年12月25日 | Weblog

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。
このかたこそ主なるキリストである。」ルカ2:11 

世には多くの悩みや苦しみ、悲しみ絶望があります。
四苦八苦(4x9+8x9)百八の煩悩があると世間でも言います。

しかし、ただ目先の問題を処理するだけでは救いにはなりません。
「救主」とは勿論私達を救ってくださるとのことです。
救われなければならない根本は、
諸悪の根源である神様との断絶を回復することです。

そのためにイエス様は私達のところへ来てくださったのです。

(榎本和義牧師)

12月25日(火)の聖言

2007年12月25日 | Weblog

「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。」ルカ19:10 

今年もまたイエス様の御降誕を記念し、感謝するときとなりました。
主は神様と等しい方ですが、神の位を捨てて、人となり、
世にきてくださいました。その目的は「失われたもの」を救うためです。

「失われたもの」とはあなたのこと。神様に造られながら、造り主を忘れ、
自分自身を義なる王としてサタンの支配に囚われたものでした。

あなたを捜し求め、命をすてて、神様の所有としてくださいました。
この絶大な恵みを心から感謝しましょう。

(榎本和義牧師)

12月24日(月)の聖言

2007年12月24日 | Weblog

「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、
自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」ルカ12:25 

自分の健康、自分の命などと、人は言います。
しかし、私達は自分のもののようで、実は自分のものではありません。

その証拠に、自分のものと言いながら、風邪ひとつ、
ちょっとした痛み、熱すら、自分では治せません。

そうでありながら、まるで自分のもののように思って、思い煩います。
思い煩いは父なる神様を軽んじることです。私達はなにも分からなくても、
全てを知っている方がおられます。心配無用。

(榎本和義牧師)

12月23日(日)の聖言

2007年12月23日 | Weblog

「『家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことを
してくださったか、語り聞かせなさい』。
そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、
ことごとく町中に言いひろめた。」ルカ8:39 

福音を「あかし」するとはこのことです。
神様が「どんなに大きなことをしてくださったか」、
それを語らないではおれません。

今年も残り僅かになりました。またたく間の一年ですが、
振り返ると事の多い年でした。
その全ては神様が備え導き恵んでくだったものです。
自分の知恵、知識、力を超えた神様の業を大いに語ろうではありませんか。

(榎本和義牧師)

12月22日(土)の聖言

2007年12月22日 | Weblog

「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、
わたしはこの冨を得た』と言ってはならない。」申命記8:17 

人は自分の存在が役立つもの、意味あるものと認められたいと願います。
その結果、僅かな業績でも誇ろうとします。自分の力、知恵、わざ、働きなど、
どこかで自慢して、それによって自分の存在意義を確認したいのです。

しかし、自分の功績を誇る限り、神様を認めることができません。
もし出来ることがあれば、それは神様の業です。
人の存在意義は神様に命がけで愛されたものであることに尽きます。

(榎本和義牧師)

12月21日(金)の聖言

2007年12月21日 | Weblog

「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべのことばによって
生きることをあなたに知らせるためであった。」申命記8:3 

神の民は40年間荒野の旅路を導かれました。
その目的は、徹底して神様に信頼することを学ぶ訓練でした。

「パン」に代表される物質的な条件・境遇によって生きるのではなく、
神様の言葉を信じて、その言葉を通して流れてくる霊的命につながるためです。

この世の生活は荒野の旅です。日々に、数々の問題の中で神様の言葉を信頼して、
信仰を抱いて生きるとき、命が輝いてきます。

(榎本和義牧師)

12月20日(木)の聖言

2007年12月20日 | Weblog

「イエスはこれを聞いて言われた、
『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である』。」
マタイ9:12

 病院へ行くと、病気の人ばかりです。
健康な人には用事のないところでしょう。

信仰もそれと同様で、必要でない人には無用の長物、
邪魔ものに過ぎません。
「豚に真珠、猫に小判」ともいわれますが、確かに、
求める人には貴重な物であっても、価値が分からず、
必要でなければ迷惑です。

イエス様の救いもあなたが救われたいと渇いて求めるとき、
命となりますが、そうでなければ無益です。

(榎本和義牧師)

12月19日(水)の聖言

2007年12月19日 | Weblog

「すべての民はおのおのその神の名によって歩む。
しかしわれわれはわれわれの神、主の名によって、とこしえに歩む。」
ミカ4:5

 世界に「神」と称するものがどれほどあるか見当がつきません。
民族の数だけ、それ以上あるでしょうか、人々は先祖伝来の神々を
祭りながら生きています。私は聖書に語られている父なる神、
子なるキリスト、聖霊なる神、三位一体の神を信じ、その名によって生きています。

他の人はどうであれ、私にとってこの神以外にありえないからです。
また、主を離れて生きることはできません。
(榎本和義牧師)

12月18日(火)の聖言

2007年12月18日 | Weblog

「また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。
むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである。」
マタイ5:15 

この言葉の前に、「あなたがたは、世の光である」とあります。
神様は心に光であるイエス様を置いて、私たち自身を光としてくださいました。

その燭台をどこに置いているでしょうか。高く掲げて、
少しでも広く、大きく照らして、闇を消し去るためです。

光は物事の実相を明らかにし、明かりと陰を明示します。
あなたの存在が役立つものとなるため、光の源、
イエス様をしっかり心においてください。

(榎本和義牧師)

十字架のイエス・キリスト

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