「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」ヨハネ6:38
イエス様の生涯は徹底して父なる神様にしたがうものでした。それはまた私たちも倣うべきことです。そうでなければ、救いはないからです。自分の思いのまま、情欲に従って生きる限り、苦しみ、悩み、憤りの生涯です。父なる神様のみこころを求め、そのご愛の手に導かれて生きることこそ、命に満ちた人生を全うすることが出来ます。(KE)
「主よ、わたしがあなたと論じ争う時、あなたは常に正しい。しかしなお、わたしはあなたの前に、さばきのことを論じてみたい。悪人の道がさかえ、不信実な者がみな繁栄するのはなにゆえですか。」エレミヤ12:1
「不条理」という言葉があります。「物事が理に適わない」ことです。まさに、神様を信じない人の世はそのようなところです。だからと言って、神様が不在ではなく、無能無力でもありません。やがて神様の時が来れば全ての理非が明らかになります。それを信じることが信仰です。(KE)
「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」ヤコブ4:14
健康に恵まれ、力に満たされて生きるとき、この状態が変わることなく続くものと思われます。人はもろく、弱く、はかないものであることを忘れます。むしろ、人の真相は弱く消え去るものです。元気溌剌、生気に満ちていようと、消え去り失われつつあることを忘れてはなりません。神様が支えていることを覚えてください。(KE)
「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」詩篇23:4
群れから離れて、迷いだし、死の危険に近づこうとする羊を、羊飼いは「むち」や「つえ」を使って引き戻します。「むち」や「つえ」は痛い。嬉しいことではありませんが、それがあるからこそ、どのような危険からも守られるのです。だから、それは「慰め」にもなります。悩みや苦しみに遇う時、主のご愛があることを知ってください。(KE)
「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」第一ペテロ5:6
大宇宙をはじめ森羅万象の全てを計りがたいみこころにしたがって支配し、動かしておられる神様。その方の手に握られ、生かされていることを素直に認めることが、神様を信じることです。小さな、取るに足らない私たちの命すら、尊いものとして目を注いでくださいます。今日も、神様はあなたを備え、みこころにそって導き、神様の栄光を現されます。(KE)
「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。」第二コリント3:17
「朱に交われば紅くなる」と言われるように、人はどんなものにも影響を受けやすいものです。さまざまなしきたり、習慣、言い伝えなどに囚われ、縛られて、不自由な生き方をしています。だから、何と交わり、何を大切にしているかが重要です。「主の霊」との交わり。そこにこそ、命にあふれた自由な生き方があります。「主の霊」とはイエス様の言葉です。みことばを心に置いてそれに従う時、人は自由になります。(KE)
「モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。」申命記34:7
モーセはエジプトで奴隷となった神の民を解放し、約束の地、カナンまで40年にわたる荒野の旅路を導きました。しかし、彼は目的地、カナンへ入ることなく、モアブの地で生涯を終わりました。人間的に言えば、労苦に報われず、無念残念でしょう。しかし、神様はこの世における使命を解き、カナンにも勝る永遠の平安へ入れてくださいました。肉体的に健康であっても、神様の使命が終わるとき、人は死を迎えます。(KE)
「するとイエスは人々にむかって言われた、『神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである』。」ルカ8:21
人と人とのつながりにはそれぞれの背景があります。血縁によって結ばれた親子兄弟を始め、同窓、同郷、職場、取引関係などもあります。イエス様と私たちとの関係は人の世にはない特別なつながりです。それはイエス様の言葉、聖書の言葉を信じることによって成立する関係です。あなたもこの利害のない純粋な関係に入ることができます。(KE)
「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」黙示2:4
何事をするにも、最初は新鮮な感動と喜び、愛に満たされて始めます。しかし、時が経つにつれて、最初の感動や喜び愛が薄らいできます。同じ事をしていても、形だけになり、心が離れてマンネリ化します。やがて、不平不満、つぶやきが出てきます。信仰の面でも同じです。神様の限りない愛に感動した心は消えて、惰性になった信仰生活。絶えず、原点に戻って新鮮な愛と感動を取り戻しましょう。(KE)
「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。」箴言11:24-25
神様の世界は人の世と逆です。人は富むために貪欲になり、失うまいとしてケチくさくなります。その結果、心はやせ衰え、満足を得ません。神様のご愛と恵みに感じて、喜んで与え、施し、奉げるとき、神様の祝福を受け、心も懐もあふれるばかりに満たされます。今日も主を信じて、与えて受ける、捨てて得る恵みを体験してください。(KE)
「わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、『だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか』と言う。」イザヤ29:15
近頃、再び偽装問題がニュースになっています。一流企業が決算をごまかし、車の燃費を改ざんするなど。古来、「羊頭狗肉」と言う言葉もあるくらい、あまりにも神様を恐れない、傲慢な行為です。嘘偽りで自分の利益、欲望を遂げようとするとき、人間としての尊厳を失います。自戒しましょう。(KE)
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」マタイ6:34
思いわずらい、心配などは今現在のことについてではありません。直面している事態はやむをえないとして受容しますが、明日、将来どうなるか、そこから心配や不安が生まれます。明日のことは人の知恵や力の及ばない領域、神様の手にあるのです。思いわずらったとて、どうにもできません。ですから、今日を、今をしっかり生きようではありませんか。(KE)
「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。」ヘブル2:18
同じ苦しみを体験した人でなければ、相手を理解することができないと言います。確かに、人の共感する力は小さく、弱いものです。どんなに身近にいる人であっても、その痛み、苦しみなどはかり知ることができません。その意味で人はみな孤独な存在です。しかし、イエス様はあなたの弱さ、痛み、苦しみを思いやることができます。この方を信じて、あなたの思いを打ち明けてください。(KE)
「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」第一コリント1:28
世間では、少しでも優れた人、秀でた人など、出来るだけ欠点のない人を選びます。しかし、神様が選ぶ基準はとても変わったものです。それには理由があります。神様の選びは神様のためであって、選ばれる者のためではありません。弱い、愚かな、無きに等しい者を選び、その人を通して、人を越えた神様の力、知恵、わざを現そうとされるのです。(KE)
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。」イザヤ55:8
「親の心、子知らず」と言いますが、まさに神様の思いを知り尽くすことはできません。この世界が神様によって造られ、そのみこころによって導かれているのですから、私たちの知らないこと、悟らないことがあるのは当然です。そこに人が謙遜になり、神様を認める道があります。あなたのことも、あなたが全て知っているわけではなく、神様の思いによって生かされているのです。(KE)