よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

7月31日(木)の聖言

2008年07月31日 | Weblog

「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」ローマ14:4 

私達は他人のことが気になる性分のようです。他人の一挙手一投足、言葉の端々にまで、あれこれ口をはさんで、しなくてよい争いになるのです。私達は神様のもとにある「僕」にすぎません。お互いしもべですから、私たちの所作言動を裁かれるのは、主人である神様です。他人のことよりも、あなた自身がどうであるか、神様は問われます。



7月30日(水)の聖言

2008年07月30日 | Weblog

「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。」Ⅰテモテ6:12

信仰に生きる道は楽なようですが、そぅとは言えません。「信仰の戦い」とあるように、それはまさに戦争です。日本にキリスト教が伝えられたとき、迫害をうけました。そのような意味でも、戦いですが、今はむしろ真の意味での「信仰の戦い」があります。それは自分の内にあるもの、自我、自己中心性などとの戦いであり、この世のさまざまな勢力との戦いです。神様から力を与えられて、自分に勝ち、世に勝つ者となりましょう。



7月29日(火)の聖言

2008年07月29日 | Weblog

「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:19 

すべてのものの根源は神様にあります。私たちの生活も全て、人の知恵やわざによらず、神様の力、知恵、わざによるものです。毎日、神様は私たちのために新しいことを始めてくださいます。時には、願わないこと、いやな事であるかもしれませんが、それらの背後に隠された神様の意図、摂理が必ずあります。人の想像、知識を超えた神様のわざに期待しましょう。


7月28日(月)の聖言

2008年07月28日 | Weblog

「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもってとなえられている者です。」エレミヤ15:16 

神様の言葉は鑑賞したり、批評し、研究するためではなく、「食べる」ためのものです。食べたものは岨嚼され、形はなくなり、分解されて吸収されます。それが血となり肉となり、エネルギーを生み出すのです。同様に、「み言葉」を自分自身に取り込み、生活の力とするとき、喜び、楽しみが生まれてきます。今日もみ言葉を食べてください。


7月27日(日)の聖言

2008年07月27日 | Weblog

「たとい人は百人の子をもうけ、また命長く、そのよわいの日が多くても、その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、わたしは言う、流産の子はその人にまさると。」伝道6:3 

痛烈な人生観というべきでしょうか。確かに人生の主体は人や物にあるのではなく、あなたの心にあるのです。与えられた境遇を幸せと感じ、それに満足しているなら、あなたの人生は十分です。誰がなんと言おうと、まず自分の人生を明確な幸福感の上に築いてください。


7月26日(土)の聖言

2008年07月26日 | Weblog

「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救いの角、わが高きやぐらです。」詩篇18:2 

ダビデ王の歌と表題に書かれていますが、一国の王が何かにすがらなければならない者であっては勤まりません。民に信頼されてこそ王です。しかし、彼は自分の弱さを隠さず、むしろ神様に頼らなければならない者であることを誇り、公言したのです。神様は彼の絶大な信頼に答えてくださいました。私たちは神様をどのような方としているでしょうか。「主はわが○○」と言い得るなら幸いです。


7月25日(金)の聖言

2008年07月25日 | Weblog

「塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに和らぎなさい。」マルコ9:50

日本語に「塩梅」がいいとか、悪いという言葉があります。料理の味加減を表すことばですが、殊に、料理をするとき、塩は不可欠です。塩気のない食事ほど不味いものはありません。また、「ぜんさい」などの甘いものでも、適度な塩を隠し味とします。それによって、深みが出るからです。あなたを料理に譬えたら、どんな味がするでしょうか。


7月24日(木)の聖言

2008年07月24日 | Weblog

「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。」マタイ24:40 

神様はすべての人が救われるように願って、哀れみのゆえに、忍耐しておられます。神様は愛の方ですが、同時に「義」なる方でもあります。世の終りのとき、全てのものが裁かれるときがきます。みことばのように、その裁きは曖昧ではなく、過酷で峻厳です。神様のご愛と恵みを軽んじるなら、救われる道は失われます。



7月23日(水)の聖言

2008年07月23日 | Weblog

「あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言い伝えを固執している。」マルコ7:8

世の人の言葉や先祖伝来の言い伝えなどは、たやすく信じ込みます。ところが、神様の言葉、聖書の言葉をなかなか信じよとしません。神様の言葉(いましめ)を素直に信じるには、この世の常識、言い伝え、習慣などを離れなければ信じられません。神様の言葉は人の知識や理解力を超えたものだからです。とかく、私達は固定観念に縛られ、そのため狭く限られた選択肢しかありませんが、神様の言葉を信じる信仰に立つ時、無限の可能性があります。


7月22日(火)の聖言

2008年07月22日 | Weblog

「それから人々にむかって言われた、『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』。」ルカ12:15 

日本をはじめ、世界の各国々は豊かさを求めて、自然を破壊し、地球の温暖化を引き起こしています。その根本は豊かな物質によって命が増し加わると誤解した結果です。「貪欲」は偶像礼拝であって罪だと言われています。必要以上のものを持ちたいと言う欲求から、与えられているものを感謝する心へ変ることが、今求められています。


7月21日(月)の聖言

2008年07月21日 | Weblog

「王は彼女に言った、『王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう』。」エステル5:3 

ペルシャ王国の王妃となったエステルは、同胞の危機にあたって、大胆に王の前に出ました。必死の覚悟で前に立つ王妃にかけた王の言葉です。これはまた、神様が私たちにかけてくださる呼びかけです。「何を求めるのか。あなたの願いは何か」と。神様は御子イエス様の命をも惜しまない方。まして、私たちの願いを聞いてくださらないはずはありません。ただ、王妃のような切なる願いが必要です。


7月20日(日)の聖言

2008年07月20日 | Weblog

「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」創世記7:16 

ノアは神様の命によって箱舟を作りました。はじめた時、彼はその全体計画を全く知らず、ただ神様の言葉だけをたよりに作業を進めたのです。命じられたように、全ての生き物を箱舟に入れおわったとき、箱舟の戸が閉ざされたのです。ノアが閉めたのではありません。「主は・・・閉ざされた」のです。もはや内側からも、外側からも、それを開くことはできません。箱舟はイエス様の十字架です。その戸が今や閉ざされようとしています。あなたは大丈夫?


7月19日(土)の聖言

2008年07月19日 | Weblog

「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。」詩篇139:1-2

自分のことを誰も知ってくれないと嘆きますが、どんなに身近な家族であっても、その思いや心の隅々を知り尽くすことは出来ません。人と人との関係には限界があります。しかし、創造者である神様はあなたのことを、内外共に、すべてを知っています。これはなんと慰められることでしょう。ことごとく知られているのだから、神様の前で裸になりましょう。


7月18日(金)の聖言

2008年07月18日 | Weblog

「わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、『だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか』と言う。」イザヤ29:15

人が悪しきことを思い計る時、誰も知るものがいないと思っています。しかし、頭隠して尻隠さず」のように、隠しているつもりでも、神様の目には全て明らかです。神様の視線を絶えず感じることができるなら、幸いな生涯を送ることが出来ます。昨今の食品偽装問題も、その原因はみことばのように、見られている事を忘れるからです。


7月17日(木)の聖言

2008年07月17日 | Weblog

「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終わった』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」ヨハネ19:30 

文語訳によると、「事おわりぬ」と語られ、「霊をわたし給う」とあります。「すべてが終わった」とは、何が終わったのでしょうか。イエス様の生涯が終わっただけでなく、人々の罪を贖うわざが完成したことでもあり、イエス様を信じる者の古き人生も終わったのです。今なお、解決のつかない問題、悩み、先の見えない闇にあるとも、「事おわりぬ」と信じて、大胆に主の十字架を見上げてください。


十字架のイエス・キリスト

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