新知多半島デジカメ紀行


日本の真ん中 伊勢湾に突き出た知多半島の観光や画像を掲載します

知多の女

2015-02-26 08:13:37 | 日記
下田一の人気芸者 1841年12月22日(天保12年11月10日)、尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)知多半島内海に船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれ、4歳まで内海で過ごし、その後、一家は下田へ移る[1]。7歳の時河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習った。14歳で村山家から離縁され芸者となりお吉と名乗ったきちは、瞬く間に下田一の人気芸者となる。 唐人お吉[編集]安政4年(1857年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。 その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。

今日 雨の朝である 遠くの鈴鹿山脈 霧で見えない
2月も 後2日 めぐる月日早い。