今日は家族が出払って、
ぽつんとひとり過ごしている。
にんまり。
掃除をしながら
何をしようか色々と考えていた。
ガラスペンで新しいインクを使ってみたい。
Netflixで見たいドラマもある。
買ってきた新しいビーズがあるからブレスレットを作りたい。
自由っていいなあ。
あれこれ考えて、
今日一日することを決めた。
こんな暇な日は、暇について考えてみよう。
半分読みかけの
「暇と退屈の倫理学」國分功一郎著
を最後まで読んでみよう。
ハイデガーの退屈論によると、
「私たちは退屈する。自由であるが故に退屈する。
退屈するということは、自由であるということだ」
人間にとっては「なんとなく退屈」という感情は
本当に恐ろしいものなのだそうだ。
その感情から逃れるように「気晴らし」が考案される。
ただその気晴らしの最中に「退屈」してしまうこともある。
パーティーに出席したけど、なんとなく退屈だなあ、なんて。
パーティーは「退屈」から逃れるための「気晴らし」なのに。
ラッセルの退屈論によると、
「退屈とは、事件が起こることを望む気持ちが
くじかれたものである」
「『事件』とは、今日を昨日から区別してくれるもののことである」
退屈を回避したくて事件を求める人間は、
自分が不幸になることすら求めてしまうらしい。
何か事件が起きてくれると退屈からは逃れられる。
「退屈の反対は快楽ではなく、興奮である」
退屈とはややこしい。
自由な今日この一日、
暇と退屈について考えてみよう。
「退屈」から逃れるための「気晴らし」になるかな。
7月30日 おかん
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