岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

池間島、伊良部島紀行

池間島、伊良部島紀行


 宮古島市立池間中学校の生徒は、幾つかの立て看板で、「ポイ捨てしない」と宣言している。そんな立て看板の存在は、一面では、島にポイ捨てが多いことを物語っているのか。心ない観光客がポイ捨てし、島の景観を汚す。地元の住民は決してポイ捨てしない。そんな単純な図式は、誰も信じてはならない。憧れの島に上陸した観光客が、空き缶等をポイ捨てすることは考えにくい。が、中には捨てる人がいる。地元の住民の中にも捨てる人がいる。熱帯魚のいる澄んだ水の海、引き波の度に何もかもが綺麗に洗い流される砂浜、風の中でザワザワと素朴に歌うサトウキビ畑。見る者の魂を根底から揺さぶるような、こんな美しい所に住んでいる島人が、ポイ捨てなどするわけがない。ゴミを捨てるのは内地から来た愚か者だけだ。怪しからぬ。こんな単純な思い込みを誰がいつ僕に吹き込んだのか。些細な出来事だが、旅の途中で、僕の中の固定観念の一つが消滅した。池間島のヴィラから平良港へ車で送ってもらっている途中、僕は道路脇の草叢に捨てられているテレビ受像機を見た。内地の他の場所なら、気にもならないありふれた光景が、なぜかこの南の夢の国では「あってはならない事」のように見えた。島人の中には移住者もいる。池間島と宮古島とは池間大橋で繋がっている。宮古島に住んでいる者が、車でゴミを運搬し、池間島の雑木林に不法投棄することもある。池間中学校の生徒は、看板で、人に対して「捨てるな」と怒っているのではなく、「僕たちはポイ捨てしません」と宣言している。その姿勢には、なかなか奥床しいものがある。

 ゴミは人間の存在証明だ。こう断言すると、何かを言ったような気分にはなる。(因みに、我が家の床は抜け毛や食べかすやチラシなどのゴミだらけだ。誠におぞましい存在証明だ)逆に、ゴミが一つもない世界もあるが、それも人間のもう一つの存在証明だ。先年訪れた竹富島は、白い道も柿色屋根の民家も草叢もお伽の国のように綺麗だった。西表島の陸の孤島、船浮のイダ浜にはゴミどころか人工の物は何一つなかった。100%天然の世界だった。この世とは思えないような、ゴミ一つない綺麗な場所は確かに幾つもある。僕は証言できる。ところで、今回の旅の二つ目の目的地、伊良部島の佐良浜港はどうだったか。平成21年9月27日、港では二人の男が漁船用と思われる油だらけのエンジンの分解掃除をしていた。その作業場周辺には、気を付けて見ると、空き缶や紙屑や切れ縄等のゴミが散乱していた。誰が捨てたのかは分からない。観光客が捨てたのなら、捨てなかった漁民はその目障りな空き缶を片付けたに違いない。漁民が捨てたのなら、捨てた者が拾うことは通常はない。拾うくらいなら捨てないからだ。観光客と漁民の双方が捨てたものか。無論、不明だ。僕らが泊まった池間島のヴィラの従業員は、僕らを平良港へ送り届ける車の中で、「島の人が意外に捨てているんですよ。美しい風景が当たり前のものとしてあるせいか、気にならないみたいです。聞いた話ですが、珊瑚礁を船で削っても平気なのは地元の人に多いみたいです」と言った。そんな話を思い出しながら、改めて僕は伊良部島の佐良浜港の周辺を見た。そこここに散乱していたもう一つのものは、今まで僕の中に根付いていた「単純な二分法」という名の幻想の断片だった。急に飛躍して申し訳ないが、人生を見よ。善と悪、愛と憎しみ、○と×、OUIとNON、これらの両極の間に幾千の銀河が横たわっていることか。

 長年、プルーストの「失われた時を求めて」を読んでいるが、主人公の話者「私」のアルベルチーヌに対する気持ちも単純なものではない。愛しているかいないかの単純な二分法などはこの小説のどこにもないと言って良い。ある評論家はこの小説の価値を認めず、作者のプルースト自身についても精神異常者だと決めつけている。その論拠については、僕はまだ調べていない。僕はしかし、誰が何と言おうと、この小説の言わば反二分法的描写、あるいは掴みどころのない心理(少なくとも僕自身には読み切れないところの)とも言うべきものが好きだ。実人生においても、同一人物が或る時は公道にゴミを捨て、或る時は自主的にゴミ拾いをし、或る時は善悪を単純に二分し、或る時はその二分法自体に疑問を投げかける。同じ一つの問題について、或る時は人を責め、或る時は自分を責める。自分自身もしょっちゅう甚だしい自家撞着に陥る。こういう矛盾に満ちた姿が、しかし、俗人の通常の姿だと割り切ってみるのも一つの知恵かもしれない。

 池間島でも宮古島でも伊良部島でも、道路を走る三輪バギーに出会った。サトウキビ畑の間の細い道を走る三輪バギー。クールだった。池間島のアイランドヴィラ・ニーラで働く横浜出身の青年に聞くと、ヘルメットなしで運転できるということだった。今度はあれを借りて島巡りをしてみたい。

 池間島ではヴィラのプライヴェートビーチが意外に良かった。水着のまま自分の部屋を出て、青々した芝の庭を裸足で踏み抜けて、プールサイドを横切り、2、3の岩を越えると、1分でビーチに到着する。岸から2mほど泳ぐだけで熱帯魚との戯れが始まる。水の透明度が高く、魚の数も底にそこそこ、種類もサンゴ礁の陰に三、五種類というふうにいたので、シュノーケリングしていても楽しかった。朝食時、美人ではないがなぜか心ひかれたニーラの女性スタッフ(いつも眼鏡をかけていた)から他のビーチの情報を聞いた。何か目印ありますかと僕が尋ねると、彼女は、「池間のビーチには看板はないです。電線の切れ目が目印です。そこからビーチに降りていけます。私たちは『シークレットビーチ』と呼んでいます」と教えてくれた。色気があるわけではない。惹かれる理由が分からない。親切に対応してくれるからか。それだけでもない。懐かしい何かを感じる。雑談の中で、僕が「女房の前だけど、とても素敵ですね。持てるタイプでしょう?こんな島に置いておくのはもったいない」と半分本気で言うと、彼女は水色の微笑を浮かべながら「いいえ。一人でおります」と答えた。思えば、愚問だった。「冬に白川郷に行ったことがありますよ。今頃は紅葉が綺麗でしょうね。こちらは四季がないですから、時々内地に行きたくなります」と彼女が言った。ヴィラを発つ朝、フロントに彼女はいなかったので、さよならも言わずに別れた。少し心残りだった。彼女は無論のこと、横浜出身の青年も僕らを平良港へ送ってくれた青年もみんな感じの良い人ばかりだったので、別れ際に僕は彼らに名古屋の味噌饅頭を一箱プレゼントした。高級車が玄関に待っていた。宮古島空港へ迎えに来てくれた車とは違っていた。乗り込んで、窓から外を見ると、落ち着いた大人の女性が青年スタッフの間に立ち、僕らに対して嫣然と会釈していた。京都から島に移住してきたオーナー夫人だった。そのあまりの若さ、美しさに僕らは驚いた。オーナーは京都に住んでいるという。朝食時の雑談の中で、僕は眼鏡をかけた女性スタッフに「こんな素敵な場所で仕事ができるのなら、僕は給料要らないです」と言った。その時、彼女は「隣の建物にオーナーの奥さんが住んでいますから、言っておきます」と応えた。彼女は無論僕の話をオーナー夫人に伝えていないだろう。もし伝えていたのなら、味噌饅頭のお礼かたがた「ご希望でしたら、一度うちのヴィラで働いてみませんか」という夫人からの手紙がそろそろ着いても良い頃だ。

 池間島の平良港から船で伊良部島の佐良浜港に渡った。所要時間15分程度だった。昼時だった。佐良浜港近くの食堂で「イカスミ汁定食」を食べた。その後、ヴィラブリゾートの迎えの車に乗ると、車は港から急坂を上り、「友利カツオ工場」の看板前をすぐ左折した。しばらく墓地が右側車窓に見えた。運転手は制服然とした白い服を着ていた。小さな声で、丁寧な言葉遣いで話す青年だった。後で知ったことだが、ヴィラブリゾートで働く人はみんな同じように静かに、極めて丁寧な言葉遣いで話した。王にかしずく従僕のイメージだ。僕はこのヴィラの設計者を知らないが、ヴィラを知るや否やこの設計者と自分とは感覚的に似ているものを持っていると思った。どこにも看板がない。ヴィラの名もない。島の外周道路と海との間にオレンジ色の屋根の建物が7棟あるだけだ。ヴィラは低位置に建っているため、道路からは屋根の一部が見えるだけで、民家なのか何なのか全く分からない。細い道を下ると、正面に琉球石灰の壁が立ちはだかっている。回り込んで正面の大きな木製の扉を開けると、正面の窓越しにモンパの葉で縁取られた青い海が見える。右側に水平に置かれた木製の台がある。「受付」の表示もない。同じ右側の壁面に、ガラス製の円柱形に入れられて直径15㎝ほどのアダンの実が飾ってあった。昔は食べていたと言う。僕らに割り振られたヴィラの扉には「3」という番号が付いていた。鉄の棒材が用いられていた。部屋の中は、池間島のニーラほど広くはなかったが、デザインは大胆かつ繊細だった。他人の目がヴィラの中の人間を見ることは出来ない。そういう構造になっていた。部屋にいても、庭にいても、庭の中のプールにいても、どこにいても真っ裸で過ごすことができた。バスタブからも便座からもベッドからも、どこからでも海が見えた。海の色だけが知らせてくれる時間の中で寛げる快適な空間だった。庭やプールからは無論のこと、バスタブからも星空が見えた。歯磨きや手洗いのために壁面全体が鏡になっていた明るい浴室に入る度に、僕は一つの幸福を味わった。

 ヴィラの前のビーチは波が高かった。遥か遠くの南海上にある台風の影響だった。僕らはこの島でもレンタカーを借りていた。ヴィラの青年に聞いて、波の穏やかな入り江に行くことにした。朝食後、すぐ出掛けた。ヴィラから車で10分程度だった。中の島ビーチという名だった。僕らは一番乗りだった。しばらくすると、沖の方から船が何隻もやってきた。船上にはダイヴィングやシュノーケリングをする観光客が乗っていた。ここでは上級者は無論のこと、ずぶの素人でも手軽にシュノーケリングを楽しむことができる。万人向きの場所だった。ズブズブとずぶの素人が砂浜から2歩ほど海に入ると、もうそこに魚がいる。しかも逃げない。水中メガネさえあればビジネススーツを着ていても見られると言ってもいいくらいだ。透明な水が嬉しい。ちょっと勇気を出して岸辺を離れ、バシャバシャバシャと10mも行けば、サンゴ礁とクマノミを見ることができる。更に数m、バシャバシャと泳いで行けば、深い洞穴のような場所に浮かんでいる自分に気付き、そこでは幸運にも信じられないほどの魚の大群に出会える。逃げもせずに、自分の体のすぐ側を悠然と泳いでいくのだ。この幻のような光景には誰もが感激するに違いない。異空間だ。心が躍る物語だ。危険と隣り合わせの感激ではあったが、僕の全存在を痺れさせた。腹は、しかし、どんな場合でも減る。昼飯は丸吉という地元の食堂へ行って食べた。安くてうまくて、量が多かった。僕は魚汁を注文した。注文を聞いてから調理するのか、料理がテーブルに運ばれて来るのは遅かった。僕らは何も急ぐ必要がなかった。勘定を払った後、一旦ヴィラに戻り、ベッドに横になり、力を蓄え、日差しが弱くなってから再度中の島ビーチへ行った。夕方5時頃だった。もう太陽は雲に隠れていた。一人一人砂浜から人が帰って行った。ビーチにはもう僕らだけだった。1時間ほど過ぎた頃だろうか。ちょっと寒くなってきたので迷ったが、最後の見納めだと思って、僕は思い切って海に入った。驚いた。まったく予想をしていなかった。尾部が黄色く光る魚と出会った。見ると、3、4匹泳いでいる。体長は10センチ程度だった。体全体は鶯色のような色合だった。自分の目を疑った。こんな魚がいるのか。知れば知るほど知らないことだらけだ。僕は大海に紛れ込んだ蛙だった。

 平成21年9月29日、多治見に帰る日の朝、急に下痢になった。幻想の世界から現実に立ち戻った感じだった。ウィルス性のものか、30回程トイレに行った。午前中ビーチに行く予定だったが、狂ってしまった。熱はなかった。咳も出ない。新型インフルエンザではなさそうだ。僕らは午後4時過ぎの飛行機に乗ることになっていた。飛行機の中で、しかもシートベルト着用の間に、もしトイレに行きたくなったらどうしよう。長い気掛かりの時間が続いた。旅の終わりも人生の終わりも、何が僕らを待っているか分からない。薔薇色で終わるとは限らない。昼になっても食欲はなかった。僕はただ水分だけをこまめに摂取した。結果から言えば、時間が経つにつれて下痢の間隔が遠くなり、何とか無事に帰宅できた。全快するまで、しかし、3日かかった。何が原因だったのか分からない。自分は船の揺れにも、引き算にも、病気にも、そして女性にも弱い。劣等人種だ。しかし、なぜか自分では自分の本当の冒険はまだこれから始まるような気がしてならない。果たして自分のようなこんな弱い者でも今後耐えてゆけるだろうか。海や空や山、そして他人が相手の冒険だ。負けて当然。運が良ければ引き分け。そんな思いで地味に挑むしかないだろう。

 ヴァカンスは終わった。何も考えずに波と戯れるだけの時間。そういうものも僕にとって人生の楽しみの一つだ。普段ろくな仕事をしていないが、それでも偶には自分自身に喜びを与えても許されるだろう。滅私奉公の時代ではない。

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