岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

菱形と楕円との混在を探して  16

 美を探すのは汚臭と落胆の中でだ。それが不断の在り方だ。無いものが欲しいのだ。欲しいものは無いものだ。

 人生という物語にはどうやら妙味が必要だ。洞窟に一人で住んでいるのでない限り、人は自己表現をせずにはいられない。例えば、どこからともなく始まる四方山話において、あるいは、遺産相続等の、直接利害の絡む個々の具体的な問題において、あるいは、新聞紙上を賑わす時事問題において、あるいは、「忍ぶれど色に出にけりわが恋」において、あるいは、死生観において。人は各々関係性の中で、ある時は支配者になり、ある時は補佐役になり、ある時は破壊者になり、ある時は傍観者になる。何者であろうとも、人は1枚のタイルとして絵物語を構成する。表現には巧拙がある。洗練の度合いがある。表現者独自の妙味がある。妙味ではなく、あるいは様式と言っても、あるいは演出と言い換えてもいい。要は表現方法の確立の問題だ。伝達の内容自体よりも、どちらかと言えば、僕はその形式を問題にしたい。意味であれ、美であれ、その他様々な価値意識であれ、それらが人々の間に流通するには誰かの意匠を潜り抜けなければならない。ある一定の意匠の枠内に収めて伝えたほうが、内容が際立ち、洗練度が高まり、人々の受ける美的印象が深くなる。古い形式を、そして、自己の気紛れな形式をも否定的媒介物として、僕らは自己の表現に最適な意匠を生み出し、それによって不確実な現実と切り結ぶ作業に取り掛からねばならない。荒唐無稽な小説が現実を粉砕し、そこから小さな真実が浮かび上がることもある。作り事が、虚構が、仮定的時間の早回しが、我々に実人生の少し先を見通す鏡を与えてくれる場合がある。違う角度から言えば、それほど僕らは自分一人の頭の中だけで考え判断することは難しいということだ。考える道具やヒントは自分の外部にしかないと断言する。これも比喩だ。自分を捨てる。これも比喩だ。自分の中の偏執に囚われるのではなく、様々な他人や自然の営みから学ぶこと、これが僕らの方法だ。一つの所与の状況の中で、「あり得ない必然」を起こすこと、起こさざるを得ないこと、これが各人の決定的瞬間における意匠だ。「あり得ない必然」とは何か。通常では起こり得ない或る現象が、或る次元では、必然性をもって起こる。或る次元とは、例えば、夢の世界だ。一つの現象が必然性をもって起こるとは、一定の意味のある状況が、不可逆的に成立する、あるいは、曖昧さを打ち破り実現するということだ。人生という舞台では起こったことがすべてだ。カラクリであろうと、戦略であろうと、戯れであろうと、起こったことがすべてだ。真意などという幻を追い掛ける暇はない。起こったことがすべてだ。起こったことはもう取り返しがつかない。起こったことがすべて起こらざるを得なかったことかどうかは分からない。分かっていることは、問題は既に起こってしまったことではなく、これから起こそうとしていることだ。賢愚にかかわらず人は乾坤一擲の行動をする。そこにその人の全過去から偶然飛び出した閃きとその人の現瞬間における希望とが出現する。誰が100年先を見通せるだろう。夢と不安とで固められたこの一瞬がすべてだとは決して言わない。意味に連続性を持たせ、物語を紡ぐのは人だ。連続するのは時間ではなく、意味だ。一つ一つの意味は閉じた形で終わるとは限らない。物語は完結するとは限らない。閉じも開きもせずに、中途半端な形で時間の野に晒されることがある。生きたままで化石になっている意味が枯野に砂の数ほどある。孤立した意味と意味とをつなぐのも、それを断ち切るのも人だ。意味は時間の次元に繋ぎ止められた犬ではない。一個人の中で、意味は超越する、彼が整理した関係性の一固まりを。僕らはただ語り、行動する。この自由さとこの絶望感と。これらが表裏一体となっていることの自覚。その中で、僕らはただ語り、行動する。人生の物語化は誰にも避けられない。家族が、友人が、恋人が、即ち、誰もが物語を作ろうとする。物語にならない部分、物語にしたくない部分は切り捨てられる。本当の希望はシーンとシーンとの間に埋もれてしまう。これは誰の物語か。僕は噴火するように自分の希望に立ち返り、語り、行動する。歪な、誰にも語れない物語が始まったのだ。同時に、終わったのだ。僕を受容してくれない他人がすべてを決めるとは言わない。が、受容されなかった僕がすべてを決められるわけでもない。僕は語った。が、僕らは語らなかった。そうだったのか。語らせねばならなかったのだ、人に。日常生活は小さな意匠の必然的な積み重ねだ。否、小さな意匠の必然的な積み重ねが日常生活だ。芸術は日常性を破り、人を非日常の世界へ連れて行く。日常生活はある日、ある時、何らかの問題解決を求める。人はいつも切羽詰まった状況で、もっとも理想的な解決を捻り出す必要に迫られる。夢のようなことを考える。あり得ない必然を、人は生み出し、表現し、自己に完結性を与えようとする。このように見果てぬ夢を追う在り方こそ、ありのままの僕らの意匠なのか。
 
 人それぞれに人生は異なり、人それぞれに意匠は異なる。ある人には最も印象深い意匠も、ある人には荒唐無稽そのものに映ることがある。美の基準について語っているのではない。あるのは唯一の基準ではなく、美の斑模様そのものだけだ。美の発掘など暇人に任せておけばいい。僕は雲の流れを追う。

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