今、平和の吟遊詩人JamesTwyman ジェームス・トワイマンの書いた新刊本「Love, God, and the Art of French Cooking (愛、神とフレンチ・クッキングの真髄)」を読んでいます。彼がこの本を書いた理由というのは、人に分かち合うことによって、自分のもっている物を自分に真の意味で受け取ることができるとあるフレンチ・シェフに教えてもらったからです。それを読み、正に私がやっていることだなと思いました。自分が手にしたもの、それがすばらしいものであるほど、私は人に分かち合いたくなってします。この文章聞きようによってはただのきれい事に聞こえますよね。自分でも今ふとそう思い、う~んと思ってしまいました。
私はこの所よく思ってたんですよ。人に奉仕する、サービスするということをとても大切なこととよく耳にしますが、それって自分のためだけに何かをしてはいけないということ?と。自分を愛すということの目的がただ自分を愛すではいけないということ? 人に焦点を合わせ、人のために何かする、では今までと何も変わりなく、自分をないがしろにすることで病に倒れてきた私たちのありようは何も変わりがない。何か納得いかない気持ちだったんです。
それが今日この本で「自分のもっている物を分かち合うことによって、自分が何を持っているのかが分かる。分かち合うからこそそれが自分に戻ってくる。持っていても分かち合わないと忘れてしまう。分かち合うことによって自分が『すばらしい』と感じたその気持ちを持ち続けることができる。すばらしいと感じることこそが豊かさだ。」とそのフレンチ・シェフは言うんです。
自分を愛し、大切にしたことによって感じる『すばらしさ』を人と分かち合うと、それが自分に返ってくる。もしそうならば、これほどWIN-WIN(みんなが得るものがある)の関係はないのではと思ったんです。
という事で、私はこれから自分の人生がどのようにうれしく幸せなものになっていったのかについて、それこそ忘れないように(笑)ブログで分かち合って行こうと思っています。
それでは
第一話 さち子の子供時代
私の記憶は東京西荻から始まりました。会社員の父の転勤で、生まれた大阪から1歳で東京へ来たんです。向学心旺盛な母は子育ても米国式の方法などを勉強したりし、家庭を平和にすべくがんばってきました。私は三人姉妹の末っ子で、上の二人は母に似て左脳の発達している子供で学校ではできのよい子として有名でした。私はいわゆる普通で5段階評価では3がほとんどで音楽、美術、体育が4、5という右脳の方が発達した子供でした。一番上の姉Mは学校中の男子の憧れの的で父の言葉を借りると『お人形のような顔』をしていました。それで面倒見がいいので、学級委員をさせられるというタイプでした。頭もよく顔もよいと正に理想の女子でした。次の姉Eは中学生頃から頭角を現し、高校大学と華々しい成績と経歴を築きました。しかし、子育てにまじめに取り組んだ母のお陰で、家庭内では成績の話などはせず、誰が上だの下だのという話をしないよう姉たちに釘を刺していたらしく(私は知りませんでした)、私は家庭内だけでは劣等感を抱かせるような言葉をあからさまに言われたことはありませんでした。しかし、家から一歩出れば話は別でした。私の劣等感は近所の方々、学校にいる友人たち、先生たちによって忘れさせてもらえませんでした。
姉Eは高校大学で学園紛争に生き甲斐を見出し、私も共産主義が夢の社会なのだと吹き込まれ、ウーマンリブ(女性解放)の第一波のあおりを受け、『金持ちは悪者』『男は敵だ』という考えを信じ込まされてました。この事が後の私の人生にかなりの影響を与えました。
そして、姉Eは、3歳の時に私が生まれ、今まで自分が末っ子であり一番親の注意を向けられ、言うなればスポットライトを当ててもらっていた座を私にとられたと思ったんでしょう。乳飲み子の私を突きとばしたと母が後年言ってました。(もちろん私は覚えてませんが)親の愛を奪われたと思った姉はその不満を私にぶつけ、見事なくらいのいじめをしていました。(母が学校の先生に相談したくらいでした。が、取り合ってもらえなかったそうです。その頃はただの兄弟喧嘩としか取ってくれず、心理学などもそう発達していなかったでしょうから、仕方もなかったのかもしれません。)それは中学半ばくらいまで続きました。この姉の存在は私の大人の人生に「世の中には常に私に脅威を与える人がいるんだ。」という考えとなったと思います。(姉の名誉のため申し上げておきます。私は大人になってから、このいじめに対して彼女に謝ってもらっています!)
そんな環境の中、基本的に大変まじめな家族でしたから、勤勉がよいことだと信じていましたし、姉Eが「気絶するくらい勉強するのが理想。いばらの道を歩くことが栄光への道』などという、どこかのコマーシャルであった「NO PAIN. NO GAIN. (痛みなくして得るものなし)』を叩き込まれました。
父親はまじめで、中学に入って2台目のTVが来るまで、NHK以外を家族に見せてくれませんでした。しかし、アメリカが好きで、英語が好きで、ハリウッドの映画や音楽が大好きで、よく映画を見に連れて行ってくれました。趣味、性格は私は父似だと思います。
第二話に続く
ちなみに選んだこの写真は私のLOVEそのものの愛猫トモです。私が本を書いたら『LOVE, GOD and TOMO』となるんでしょうか(大笑)今気づいたら、これを撮ったのは2010年の11月11日。11-11と言えば天使の数。彼女は私の所へ来る前(生後8週間)はANGELと呼ばれていたんですよ。別に今その名前がなくなったわけではなく、フルネームは TOMO ANGEL HOSOKAWA と申します! 私でさえ持っていないミドルネームを彼女は持ってます(笑)
私はこの所よく思ってたんですよ。人に奉仕する、サービスするということをとても大切なこととよく耳にしますが、それって自分のためだけに何かをしてはいけないということ?と。自分を愛すということの目的がただ自分を愛すではいけないということ? 人に焦点を合わせ、人のために何かする、では今までと何も変わりなく、自分をないがしろにすることで病に倒れてきた私たちのありようは何も変わりがない。何か納得いかない気持ちだったんです。
それが今日この本で「自分のもっている物を分かち合うことによって、自分が何を持っているのかが分かる。分かち合うからこそそれが自分に戻ってくる。持っていても分かち合わないと忘れてしまう。分かち合うことによって自分が『すばらしい』と感じたその気持ちを持ち続けることができる。すばらしいと感じることこそが豊かさだ。」とそのフレンチ・シェフは言うんです。
自分を愛し、大切にしたことによって感じる『すばらしさ』を人と分かち合うと、それが自分に返ってくる。もしそうならば、これほどWIN-WIN(みんなが得るものがある)の関係はないのではと思ったんです。
という事で、私はこれから自分の人生がどのようにうれしく幸せなものになっていったのかについて、それこそ忘れないように(笑)ブログで分かち合って行こうと思っています。
それでは
第一話 さち子の子供時代
私の記憶は東京西荻から始まりました。会社員の父の転勤で、生まれた大阪から1歳で東京へ来たんです。向学心旺盛な母は子育ても米国式の方法などを勉強したりし、家庭を平和にすべくがんばってきました。私は三人姉妹の末っ子で、上の二人は母に似て左脳の発達している子供で学校ではできのよい子として有名でした。私はいわゆる普通で5段階評価では3がほとんどで音楽、美術、体育が4、5という右脳の方が発達した子供でした。一番上の姉Mは学校中の男子の憧れの的で父の言葉を借りると『お人形のような顔』をしていました。それで面倒見がいいので、学級委員をさせられるというタイプでした。頭もよく顔もよいと正に理想の女子でした。次の姉Eは中学生頃から頭角を現し、高校大学と華々しい成績と経歴を築きました。しかし、子育てにまじめに取り組んだ母のお陰で、家庭内では成績の話などはせず、誰が上だの下だのという話をしないよう姉たちに釘を刺していたらしく(私は知りませんでした)、私は家庭内だけでは劣等感を抱かせるような言葉をあからさまに言われたことはありませんでした。しかし、家から一歩出れば話は別でした。私の劣等感は近所の方々、学校にいる友人たち、先生たちによって忘れさせてもらえませんでした。
姉Eは高校大学で学園紛争に生き甲斐を見出し、私も共産主義が夢の社会なのだと吹き込まれ、ウーマンリブ(女性解放)の第一波のあおりを受け、『金持ちは悪者』『男は敵だ』という考えを信じ込まされてました。この事が後の私の人生にかなりの影響を与えました。
そして、姉Eは、3歳の時に私が生まれ、今まで自分が末っ子であり一番親の注意を向けられ、言うなればスポットライトを当ててもらっていた座を私にとられたと思ったんでしょう。乳飲み子の私を突きとばしたと母が後年言ってました。(もちろん私は覚えてませんが)親の愛を奪われたと思った姉はその不満を私にぶつけ、見事なくらいのいじめをしていました。(母が学校の先生に相談したくらいでした。が、取り合ってもらえなかったそうです。その頃はただの兄弟喧嘩としか取ってくれず、心理学などもそう発達していなかったでしょうから、仕方もなかったのかもしれません。)それは中学半ばくらいまで続きました。この姉の存在は私の大人の人生に「世の中には常に私に脅威を与える人がいるんだ。」という考えとなったと思います。(姉の名誉のため申し上げておきます。私は大人になってから、このいじめに対して彼女に謝ってもらっています!)
そんな環境の中、基本的に大変まじめな家族でしたから、勤勉がよいことだと信じていましたし、姉Eが「気絶するくらい勉強するのが理想。いばらの道を歩くことが栄光への道』などという、どこかのコマーシャルであった「NO PAIN. NO GAIN. (痛みなくして得るものなし)』を叩き込まれました。
父親はまじめで、中学に入って2台目のTVが来るまで、NHK以外を家族に見せてくれませんでした。しかし、アメリカが好きで、英語が好きで、ハリウッドの映画や音楽が大好きで、よく映画を見に連れて行ってくれました。趣味、性格は私は父似だと思います。
第二話に続く
ちなみに選んだこの写真は私のLOVEそのものの愛猫トモです。私が本を書いたら『LOVE, GOD and TOMO』となるんでしょうか(大笑)今気づいたら、これを撮ったのは2010年の11月11日。11-11と言えば天使の数。彼女は私の所へ来る前(生後8週間)はANGELと呼ばれていたんですよ。別に今その名前がなくなったわけではなく、フルネームは TOMO ANGEL HOSOKAWA と申します! 私でさえ持っていないミドルネームを彼女は持ってます(笑)
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