高校は中学とは環境が大きく変わった。個性的な生徒が多く、私はさらに目立たなくなった。
何より良かったのは、この学校の国語教師が生徒に本読みを当てずに自分で教科書を朗読したことだった。
教師達の最大の関心は大学の合格実績を上げることのようだった。生徒に宿題はたくさん出すけれど、人前で意見を発表させたり、討論会をさせたりなどという、私が最も恐怖を感じる場面が全くというほどなかったのは本当に助かった。
高校に入ってからは『死にたい』とは思わなくなった。
私はかなり変わった女子高生だったと思う。おしゃれには全く関心がなかった。
休日に遊びに行くこともなかったので、服は要らなかった。家では毎日同じトレーナーを着ていた。
子どもの頃から毒子に「友蔵が安月給だから、うちにはお金がない」と聞かされて育った。
家を建ててからは「安月給で、友蔵の実家が全く援助をしてくれないのに家が建てられたのは、私がパートに出て家計をうまくやり繰りしているおかげだ」といつも自慢した。
そして毒子は「私はもっといい縁談があったのに、あんな男と結婚しなければよかった」と延々と愚痴るのだった。
時々、毒子が私に服を買ってあげようかと言ってきたが、私はいつも「要らない」と答えた。子どもの頃、毒子と一緒に服を買いに行った記憶はほとんどない。
毒子がバーゲンセールで買って来る服を文句も言わずに着た。
家庭科で裁縫をならってからは、靴下に穴が開くと自分で糸と針で穴を塞いで履いていた。
中学の時は近所に住む同級生の男子に犬の散歩をする姿を見られて、『uparinはいつも同じ服を着ている』と言いふらされた。
高校生になると近所に同じ高校に通う生徒がいなかったので、そんなこともなくなった。
大人と会話するのが苦手なことは高校生になっても変わらなかった。
美容院に行って美容師と話すことも苦手だったので、中学生の時から髪の毛は自分で切っていた。
高校生になると髪を切るのも上手になり、三面鏡を見ながら当時流行っていた段カットにした。一度、友達に自分で髪の毛を切っていると話したらものすごくビックリされたので、そんなに異常なことなのかと思ってそれからは誰にも言わなくなった。
転勤族の友蔵は、家を建ててからは単身赴任になったので、夫婦喧嘩を目にする機会は激減した。
しかし、毒子の友蔵への悪口は相変わらずで、友蔵が家にいる時はやはり大喧嘩が止まなかった。
両親が大声を張り上げて罵り合う姿を見るほど嫌なことはなかった。
3歳年上の兄が一浪して地元の大学に入った。
兄は他県の大学を目指していたが学力が及ばず、仕方なく地元の大学に入り、自宅から大学へ通った。
私は兄のようにはなりたくないと思った。
大学受験はこの家を出て行くチャンスである。
『絶対に下宿してこの家を出て行ってやる!!』と心に誓った。
続く