32本の手を持つ観音菩薩です。一本の手に25本の手を表すので、少々足らないが何処かで欠損したらしい。それにしても頼もしい観音様です。右下の後ろの手は何も持っていない。これは「あなたの頼み事を聞きますよ」と言う意味だそうで、左足の親指が持ち上がっているのは「すぐ行きますよ」を現していると言う。艱難辛苦の多い私にとって優しいお顔、いろいろ助けてくださる…と思うと、とても癒され心安らかになる。
国宝の中尊寺経は紺の紙に金字と銀字を一行づつ交互に書かれた清衡公発願の「金銀字交書一切経」、そして写真の三代秀衡公の「金字一切経」です。これは見返しに絵が多種描かれていてとても貴重だそう。現在、六月には「法華経一日頓写会」が開かれ参加者は多く「写経の寺」の遺風を今に伝える行事となっている。
金色堂建立から164年後の1288年鎌倉幕府の執権北条貞時らによって建てられた旧覆い堂です。現在の覆い堂が出来るまでの数世紀にわたり金色堂を護り続けた重要文化財。金色のお堂を覆うには質素にも見えるが長年の風雪に耐えてきた頑丈さ、天井の高さなどに驚きます。
1124年藤原清衡により建立された平面の一辺5.5mという小振りのお堂ですが、堂は内外共に総金箔貼り扉、壁、軒から縁、床面に至るまで漆塗りの上に金箔を貼ってある眩いばかりの豪華さです。螺鈿細工や蒔絵などの漆工芸そして精緻な彫金などで極楽浄土を表している、平安仏教美術の最高峰と言われています。4本の柱には蒔絵と螺鈿で菩薩像や花を思わせるような唐草文様が夜光貝や象牙で描かれている。象牙はアフリカ象で夜光貝も沖縄など南でのみ得られるもの、当時如何にしてこうした材料を得たのか。相当の豪族だったのでしょう。中央には初代清衡、左に二代基衡、右に三代秀衡の遺体が金箔貼りの棺に、そして四代泰衡の首桶が納められている。ですから金色堂は廟堂でもあるとも言います。屋根瓦だけは瓦型の木材で葺かれ金箔貼りではなかった…。
この覆い堂は1962年より6年をかけて金色堂の解体修理時に全ての外敵から護られるように設計し再建された。その前は金色堂建立から164年後の1288年鎌倉幕府の執権北条貞時らによって風雨にさらされていた金色堂を保護するために覆い堂が建てられていたそうです。164年もの間木立の中に燦燦と輝くお堂があったのでから、素晴らしかったでしょうね。よく残っていたと神に感謝したくなる。
一泊二日の平泉、中尊寺の旅です。余計な所の観光のないピンポイントで中尊寺、毛越寺だけの観光ツアーを見つけ行って来た。東北新幹線は初めて。ン十年前ハニームーンで北海道へ飛び、帰り電車で途中下車を繰り返し遊びながら帰った時以来の東北です。仙台では飲み屋さんで写真家の土門拳に会い、隣の席で肩を並べてお酒を飲み夫が酩酊した事など思い出しながらの旅の始まり…。
昨年は日本を留守にしてボージョレ・ヌーボー2012はミスしてしまった。今年はしっかり解禁の6時間前に夕食の時頂きました。これと言うのも近くにお酒の問屋さんがあって、お隣のよしみで早く分けて頂けるから。私の好みは余り甘からず渋からず酸味はなくやはり酷は欲しい。ヌーボーだから酷は望まないけれど…。と思っていたら今年は結構酷があって驚いた。ラブレ・ロワと言い嫌な甘味はなく適当な濃さ私の好みに合っている。フルーティーと言うのとはちょっと違うと思う。この夏は酷暑だったから少し違うのかしらね。好みははっきりしているけれど詳しくは知らなあい。その”時”を楽しんでいます。
製本教室のOさんに立派なかぼすを頂いた。彼女が教えてくれたかぼすを絞っただけで、他の調味料は使わない酢飯の鮪の漬け丼です。驚いた事に爽やかで大人の味の上品な酢飯ができ、醤油味の鮪ととても良く合う。鮪は解凍でなく生鮪にしたのでごろごろしているが味は抜群、光っているでしょ?。かぼすは鍋物や秋刀魚だけではない事を知りました。お試しあれ…。
著者はヴィクトリア時代のイギリス人で19世紀末世界各地を旅し、1878年には日本を訪れ「日本奥地紀行」を書いた旅行家です。彼女は医療伝導の活動もしていたそうで、新島襄夫妻にも会い日本の近代看護や孤児院にも足跡を残した。これは1889年西チベットを旅した記録です。19世紀末のチベットの秘境はそれは大変な旅だったが、峡谷や咲き乱れる花の美しさは格別であったらしい。私は少数民族の文化に興味があるので、たくさんの細密画はとても面白かった。学術的翻訳でなく文学的に翻訳してあったらもっと楽しめたと思うんですが…。