西澤さんのこだわりの詰まった〝伊勢の浅沓〟
1番の特徴はその形にあります。
少し角ばったシャープな印象は京都の丸みの強い形とは異なります。
全国からこの伊勢型の沓を求めて注文がありました。
またそれを西澤さんはとても誇らしく感じていました。
西澤さんは、代々伊勢で浅沓師をしていた久田さんという方からつくり方を学んだそうです。
しかし弟子入りした時にはすでに久田さんはご高齢で、1~10まで全てを学ぶことはできなかったとおっしゃっていました。
独立したのちに西澤さんご自身で試行錯誤した部分が多かったそうで、漆の扱いも別で先生を見つけて学び、浅沓の元となる木型にしても1から木を削り理想の形のものをつくったそうです。
西澤さんの生み出した伊勢型というものが少しずつ認知されるようになって、実際に履いた神職さんに「かっこいい」と言ってもらえることが何よりも嬉しいと、そうおっしゃっていました。
4回に渡り長々と書いてきた浅沓のつくり方。
つくり方なんて聞いてもわからないよと思った方も多かったかもしれません。
それでもこうして書き留めておこうと思った理由。
それは、もうこの世に〝伊勢の浅沓〟というものが存在していないからです。
第62回式年遷宮が行われてから数年も経たずして西澤さんは急逝されました。
本当に突然のことで、2日前にはいつも通りお話しをさせてもらっていたのに信じられない思いでした。
私は式年遷宮用に注文を受けていた浅沓をつくるお手伝いをさせていただく形で、納品までの間、西澤浅沓調進所にお世話になっていました。
納品した後は通いをやめ、マクラの袋づくりでのみ浅沓づくりに携わっていました。
そのマクラ布を持って伺ったのが2日前のことだったのです。
覚えているでしょうか?
私が浅沓をつくるきっかけになった新聞。
そこには春から弟子が来ることになったと書かれていました。
本来なら西澤さんがいなくなったのちも浅沓は継承されていくはずだったのです。
しかしなくなってしまった。
そこにはこうした伝統工芸の継承することの難しさがありました。
技術を受け継ぐにはただ学べばいい。
そう思われる方も多いと思います。
しかし実際は人間関係の難しさがそこにはあります。
師匠との相性が良ければそれに越したことはありませんが、実際に通って長いこと一緒に過ごすわけです。
お互いに我慢ならないことも出てきます。
当時弟子として伊勢に来たのは、少し離れた他県出身の女のコでした。
輪島でしっかりと漆の勉強をしていて、私なんかより技術のある人でした。
一人暮らしが初めてというわけでもなく、生活に不便があるというわけでもありませんでした。
ただ相性が合わなかった。
間に入って話を聞いたりもしましたが、残念ながら数ヶ月で地元へ帰ってしまったのです。
こういったことは浅沓に限らず色々な工芸でもあると思います。
実際にその世界に入ってみてまず問題になるのは、技術を習得する能力があるのか、覚悟があるのかということだと思います。
そして次に人間関係ではないでしょうか。
一対一の狭い世界だからこその難しさというものがあるようにこの時感じました。
こうして担い手がいなくなってしまった伊勢の浅沓は、西澤さんのご逝去とともに消えてしまったのです。
伊勢の浅沓について、これまで語ってきたような内容をいま話せるのはおそらく私だけだと思います。
しかし書いてみて思ったことは、私自身も忘れてきているということ。
これはまずいと思いました。
私が忘れてしまったら、それこそ伊勢の浅沓は消滅してしまいます。
その前に西澤さんの想いと一緒に書き残しておくことが私のやるべきことのように感じました。
これから先の時代はデジタル化が進んで、もしかしたら人から直接技術を学ばなくても勉強できる時代が来るかもしれません。
そうすば人間関係が原因で消えてしまう工芸なんかはなくすことができるかもしれない。
けれど技術だけでなく〝想い〟というものも同時に受け継がれていくべきものだと私は思います。
だから書こうと決めたのです。
全5回。
しかしこれで全てではありません。
書ききれないこともたくさんあります。
それでもこうして書くことで、私が伊勢の浅沓に携わったことの意味が少しでも果たされればいなと思っています。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
↑記念に自分用に一足つくっていいよと西澤さんに言っていただき、23cmのサイズでつくり始めた浅沓
9/27にマルシェルさんにて伊勢根付職人・梶浦明日香さんとの対談インタビューが公開されました。
インタビューをしていただいた際に浅沓の話になり、そうだこれはブログに書き残しておかなくては!と思った、きっかけのインタビューです。
よろしければこちらもご覧ください。